エデン条約が締結され、トリニティとゲヘナの長い対立に終止符が打たれた。
私——シャーレの先生——は、その調印式を終えて一息ついていた。長い道のりだった。多くの困難があり、多くの犠牲があった。だが、ようやく平和が訪れた。
「先生」
オフィスのドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、アリウススクワッドのメンバーたちだった。アツコ、ヒヨリ、サオリ、ミサキ。彼女たちの表情は、いつもより少し硬い。
「どうしたんだ? 何かあったのか」
私は椅子から立ち上がり、彼女たちを応接スペースに案内した。
「先生、お願いしたいことがあります」
アツコが口を開いた。その声には、僅かな緊張が含まれていた。
「お願い? 何だろう」
「はい。......ある人に、会っていただきたいんです」
「ある人?」
私は首を傾げた。アリウススクワッドが、わざわざこうして頼みに来る。それだけで、ただ事ではないことが分かった。
「誰に会えばいいんだ?」
「......初代生徒会長です」
ヒヨリが答えた。
初代生徒会長。私は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「初代? でも、アリウス分校の初代生徒会長なら、とっくに——」
「亡くなっています。でも......生きているんです」
サオリが続けた。
「どういうことだ?」
私は真剣な表情で彼女たちを見た。
アツコが深呼吸して、説明を始めた。
「先生がアリウス分校に来た時、生徒会長はベアトリーチェでした」
「ああ」
「でも、初代生徒会長は......別にいるんです」
「別に?」
「はい。名前はアリウス。アリウス分校の名前の由来となった人物です」
アリウス。その名前を聞いて、私の中で何かが繋がった。
「もしかして......」
「はい。彼女は......今も生きています。地下深くに、幽閉されたまま」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「生きている? それは一体......」
「長い話になります」
アツコは静かに語り始めた。
トリニティによる弾圧。第一回公会議での弾劾。地下牢への幽閉。そして、恨みによる不死の呪い。
私は黙って聞いていた。聞けば聞くほど、その悲劇の深さに胸が痛んだ。
「彼女は、何百年も地下で......」
「はい。肉体は朽ち果て、骨だけになっても、意識は残り続けました」
ミサキが言葉を継いだ。
「ベアトリーチェは、その存在を利用しました。トリニティへの恨みの象徴として。私たちに憎悪を植え付けるための道具として」
「......」
私は拳を握りしめた。なんという残酷さだ。既に十分すぎる苦しみを味わった人物を、さらに道具として利用するとは。
「でも、今は違います」
アツコが続けた。
「ベアトリーチェは倒れました。エデン条約も締結されました。私たちは......もう復讐する必要がないんです」
「それを、彼女に伝えたいんだね」
「はい」
四人が頷いた。
「彼女は......ずっと苦しんでいました。自分のせいで生徒たちが憎悪に駆られる姿を見て、絶望していました」
「だから、伝えたいんです。もう大丈夫だって。アリウス分校は自由になったって」
私は彼女たちの目を見た。そこには、純粋な想いがあった。
生徒会長を思いやる気持ち。彼女を救いたいという願い。
「分かった」
私は頷いた。
「会いに行こう」
アリウス分校に到着したのは、夕暮れ時だった。
校舎は相変わらず古びていたが、以前訪れた時とは明らかに雰囲気が違っていた。
これが、本来の姿なのだろう。
「先生、こちらです」
アツコが案内してくれた。
校舎の奥、普段は使われていない扉の前で立ち止まる。
「ここから、地下に続いています」
扉を開けると、暗い階段が下へと続いていた。
「懐中電灯を」
ヒヨリが私に懐中電灯を渡してくれた。
一歩、また一歩と階段を降りていく。空気が冷たくなり、湿気が増していく。どれだけ降りただろうか。階段は果てしなく続いているように感じられた。
「......こんな深い場所に」
私は呟いた。
これほど深い地下に、何百年も閉じ込められていたのか。光も届かない、音も聞こえない、完全な孤独の中で。
想像するだけで、胸が締め付けられる思いだった。
「もうすぐです」
サオリの声。
やがて、階段は平らな通路に変わった。石造りの廊下が続いている。
「あれです」
アツコが指差した先に、重厚な鉄の扉があった。
扉には、古い文字が刻まれている。
『生徒会長アリウス、異端の罪により永久幽閉』
私は扉の前で立ち止まった。
心の準備をする。これから会う人物は、想像を絶する苦しみを経験してきた。どう接すればいいのか。何を言えばいいのか。
「先生、開けます」
アツコが扉に手をかけた。
重い金属音を立てて、扉がゆっくりと開いていく。
懐中電灯の光が、部屋の中を照らした。
そして——
私は、その姿を目の当たりにした。
白骨の姿が、そこにあった。
壁に鎖で繋がれた骸骨。ローブも何も着ていない、ただの骨だけの存在。
だが、その眼窩には——確かに何かがあった。意識の光。魂の残滓。
「これが......」
私は息を呑んだ。
話には聞いていた。だが、実際に目の当たりにすると、言葉を失う。
人間が、これほどまでの姿になっても、なお生き続けているとは。
「会長、私たちです」
アツコが優しく声をかけた。
骸骨が僅かに動いた。顎が僅かに開き、何か言おうとしている。
「......アツコ......か......」
掠れた声。この世のものとは思えない、まるで風が石を撫でるような音。
だが、確かに言葉だった。意識がある証拠。
「はい。そして今日は、大切な方をお連れしました」
アツコは私を見た。
私は一歩前に出た。
「初めまして」
どう挨拶すればいいのか分からなかったが、できるだけ自然に言葉を選んだ。
「いや、初めてではないかもしれませんね。私はシャーレの先生です」
骸骨の眼窩が、私を見た。
「......大人......」
「はい、大人です」
私は近づいて、骸骨の前に膝をついた。目線を合わせる——正確には、眼窩と目線を合わせる。
「あなたのことは、アリウススクワッドから聞きました。アリウス分校の初代生徒会長。生徒たちを愛し、理想のために戦い、そして......理不尽な運命に囚われた方」
「......」
骸骨は何も答えなかった。
アツコが口を開いた。
「会長、報告があります」
「......報告......?」
「はい。アリウス分校は......自由になりました」
その言葉に、骸骨の骨が僅かに震えた。
「ベアトリーチェの支配は終わりました。エデン条約も締結され、トリニティとゲヘナの対立も終わりました。私たちは......もう復讐する必要がないんです」
「そんな......」
「ほ、本当です」
ヒヨリが続けた。
「先生が助けてくださったんです。私たちを、ベアトリーチェの呪縛から解放してくださった」
骸骨は震えていた。何百年ぶりかに聞く、希望の言葉。
「自由に......なったのか......」
「はい」
「生徒たちは......」
「みんな元気です。もう憎しみに囚われていません。前を向いて、未来を見ています」
その言葉を聞いて、骸骨から——信じられないことに——小さな音が漏れた。
泣き声に似た、風のような音。
涙を流すことのできない骸骨が、それでも泣いていた。
私は静かに待った。彼女の感情が落ち着くのを。
やがて、骸骨が口を開いた。
「......よかった......本当に......よかった......」
心の底からの安堵。何百年もの重荷が、ようやく降りた瞬間。
私は立ち上がり、骸骨を見下ろした。
「会長、一つ質問してもいいですか」
「......何だ......」
「これからどうするつもりですか」
その問いに、骸骨は答えに詰まった。
「これから......?」
「ええ。生徒たちは自由になった。あなたの心配事は解決した。では、あなた自身は?」
「僕は......」
骸骨の声が、さらに掠れた。
「僕には......もう何もない......恨みも枯れ果てた......ただ......不死という呪いだけが残っている......」
「何もない、ですか」
私は骸骨の言葉を反芻した。
確かに、彼女は全てを失った。肉体も、時間も、そして生きる目的も。
だが——
「会長」
私は骸骨に向き直った。
「私は、まだあなたには可能性があると思います」
「可能性......?」
「ええ。生徒たちを導いた経験。困難に立ち向かった勇気。そして、長い苦しみから学んだ知恵。それらは、きっと誰かの役に立ちます」
「でも......この姿で......」
「姿は関係ありません」
私は断言した。
「大切なのは、何ができるか。何をしたいか。そして、何を成し遂げられるか、です」
骸骨は沈黙していた。
私は続けた。
「会長、シャーレで働きませんか」
「......え?」
明らかに驚いた様子だった。眼窩が、僅かに大きくなったように見えた。
「シャーレで、私の補佐として。生徒たちの相談に乗り、問題解決を手伝い、より良いキヴォトスを作るために働く」
「僕が......? この骨が......?」
「はい。あなたなら、できます」
私は確信を持って言った。
これは同情ではない。彼を哀れんでいるわけでもない。
ただ、純粋に——彼には価値があると思ったのだ。
「先生......」
アツコが驚いた様子で私を見た。
「会長、お願いします」
だが、すぐに彼女は骸骨に向き直った。
「私たちは、会長と一緒にいたいです。会長から、本当の意味での学びを得たいんです」
「ベアトリーチェが教えたのは憎悪だけでした」
ヒヨリが続けた。
「でも、会長なら......本当に大切なことを、教えてくれるはずです」
サオリとミサキも頭を下げた。
「お願いします、会長」
骸骨は、生徒を見た。そして、私を見た。
長い、長い沈黙。
私は待った。焦らせてはいけない。彼が自分で決めるべきことだ。
やがて——
「......わかった」
小さな、掠れた声。
「僕に......できることがあるなら......」
その言葉を聞いて、私は微笑んだ。
「ありがとうございます」
私は骸骨に近づき、錆びついた鎖を調べた。
「アツコ、工具を」
「はい」
アリウススクワッドのメンバーたちと協力して、鎖を外していく。何百年も彼を縛り続けた鎖。
最後の一本が外れた時、私は感じた。
空気が変わったのを。
何かが終わり、何かが始まる——そんな瞬間を。
「立てますか?」
「......試してみる」
骸骨はゆっくりと立ち上がった。
関節が軋む音。長い間動かなかった骨が、再び機能し始める。
「大丈夫そうですね」
「......ああ」
「では、行きましょう。地上へ」
私が先導し、アリウススクワッドが骸骨を支えながら、私たちは階段を上り始めた。
一段、また一段。
光が近づいてくる。
「会長、もうすぐですよ」
「......ああ」
そして——
扉が開いた。
夕日の光が、骸骨を照らした。
何百年ぶりかの、太陽の光。
骸骨は動かなくなった。ただ、光を浴びて、立ち尽くしていた。
「......眩しい......」
その言葉を聞いて、私は理解した。
彼女にとって、これは新しい人生の始まりなのだと。
いや、人生と呼べるのかどうかはわからない。
でも、少なくとも——新しい何かの始まりだ。
「アリウス」
私は彼女の名前を呼んだ。
「これから、よろしく頼みます」
「......こちらこそ」
骸骨は——初代生徒会長アリウスは——僅かに頭を下げた。
その姿を見て、私は確信した。
この決断は、正しかった。
彼女には、まだ未来がある。
そして、私たちは共に、その未来を作っていくのだ。
アリウス分校を出る時、何人かの生徒が見送りに来てくれた。
「先生、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。良い出会いでした」
私はアリウスを見た。彼女は相変わらず、骸骨の姿で立っている。
生徒たちは、その姿を見て——驚くことなく、ただ静かに見つめていた。
「初代会長......」
一人の生徒が呟いた。
「頑張ってください」
「......ああ」
アリウスは答えた。
その声には、僅かだが——力があった。
車に乗り込み、シャーレに向かう。
助手席に座るアリウスは、窓の外を見ていた。
「どうですか? 久しぶりの地上は」
「......変わった」
「ええ、世界は常に変わり続けます」
「でも......」
アリウスは私を見た。
「変わらないものもある」
「何ですか?」
「生徒たちの......笑顔だ」
その言葉に、私は微笑んだ。
「その通りです。それが、私たちが守るべきものです」
「......ああ」
アリウスは再び窓の外を見た。
夕日が沈んでいく。闇が訪れ、星が輝き始める。
「先生」
「はい」
「僕は......本当にやっていけるだろうか」
その問いには、不安が滲んでいた。
当然だろう。何百年も孤独の中にいた彼女が、突然社会に戻る。それは簡単なことではない。
だが、私は迷わず答えた。
「やっていけます」
「どうして......そう言い切れる」
「あなたには、生徒たちを思う心があるからです」
私はアリウスを見た。
「それが、最も大切なことです。技術や知識は後からついてきます。でも、心——それだけは教えられません」
「......」
「あなたは既に、その心を持っている。だから、大丈夫です」
アリウスは黙っていた。
だが、その沈黙には——僅かな安堵が含まれていた気がした。
シャーレに到着した時、既に夜だった。
「今日は、ここで休んでください。明日から、正式に仕事を始めましょう」
「......ああ」
私はアリウスを空き部屋に案内した。
「ここを、あなたの部屋として使ってください」
「......僕は、眠る必要もない」
「それでも、自分の場所があるのは大切です」
私は部屋の中を見回した。
「明日、仮面とローブを用意します。全身を覆えるものを」
「仮面......?」
「ええ。残念ながら、骸骨の姿は他の人を驚かせてしまうかもしれません。だから、せめて最初は——」
「......わかった。その方が......いい」
アリウスは部屋の中央に立ち、周りを見回した。
「何百年ぶりだろう......自分の部屋というものを持つのは」
その言葉に、私の胸が痛んだ。
何百年も、牢獄の中だけ。自由も、プライバシーも、何もなかった。
「これから」
私は言った。
「あなたには、自由があります。選択肢があります。そして、未来があります」
「未来......」
アリウスはその言葉を繰り返した。
「僕に......未来が......」
「ええ。必ずあります」
私は扉に向かった。
「では、今日はゆっくり休んでください。明日、また会いましょう」
「先生」
扉を開けかけたところで、アリウスが呼び止めた。
「はい?」
「......ありがとう」
その言葉は、本当に小さかった。
でも、確かに聞こえた。
骸骨になってもなお、人を信じ、感謝できる心。
それがある限り、彼女はきっと——
「どういたしまして」
私は微笑んで、部屋を出た。
廊下を歩きながら、私は考えていた。
アリウスという存在。悲劇を背負い、絶望の中で生き続けた者。
だが、それでも——彼女には希望がある。
その希望を、私たちは守らなければならない。
そして、共に新しい未来を作っていかなければならない。
「さて」
私は自分のオフィスに戻った。
明日からの計画を立てなければ。アリウスをどう紹介するか。どんな仕事を任せるか。どうサポートするか。
やるべきことは山積みだ。
でも——
不思議と、心は軽かった。
新しい仲間を得た喜び。
そして、彼女を救えたという——いや、彼女と共に歩めるという期待。
私は書類を開き、仕事を始めた。
窓の外では、星が輝いている。
キヴォトスの夜空は、今日も美しい。
そして明日は——
新しい一日が始まる。
アリウスと共に歩む、新しい日々が。
私は、それを楽しみにしていた。