「……ゲロハルト?」
一同の注目が集まる中でも。
老執事は、いつもと変わらない。
深い皺に、穏やかな眼差し。
見た目だけ貫禄がある、学のない辺境の老人。
「爺には、皆様方のような
ゲロハルトはゆっくりとしゃがみこむと。
リュスへと、ハンカチーフを手渡した。
「ですが、リュスが“若様が危機にある”と言うのなら……まあ、そうなのでしょうな」
リュスは、思わず絶望を忘れた。
かつて、余所者として扱われていた彼女。
だが、主君アスタへの変わらぬその献身を、誰より近くで見続けてきたのは……この老人だ。
「ですが、膝を屈することだけはなりませぬ。私めが知る限り、ヤバマーズ家の当主は……無様に失敗したことはあっても、膝を屈したことだけはないのです」
リュスは、震える唇を引き結ぶ。
かつての地位など関係ない。
この老執事と相対する時だけは、追放された元公爵令嬢でも、奇妙な異邦人でも、教会の人間兵器『
ヤバマーズ家が一員、
だからギリギリで――彼女は自我を取り戻せた。
「貴方は……わたくしを、信じてくださるの?」
「無論です」
「根拠も証拠も、何一つ示せません。わたくしは未来など見えぬ、ただ嘘つきかもしれませんのに」
「理屈がわからずとも、正しいものは正しかったりするものです。逆に、尤もらしく聞こえても、間違いなことも多い。ですが、ホラ話にしか聞こえぬ時ほど、信じるべき
「……それは?」
「“誰が言ったか”ですな」
老執事ゲロハルトは、とても無学であったがゆえに。
歴代の当主たちが宣う高尚な理屈など、半分も理解できた試しがなかった。
その上、主人たちですら。
唐突に、どうしようもない愚行を始めるのが、ヤバマーズ当主だった。
だから、老執事ゲロハルトにとって、“信じるかどうか”の基準は正しいか否かではない。
「まず、自分より専門家ならば意見を乞う。そして、我が同胞ならば――ましてや、主人が選んだ方ならば信じるのが道理でございましょう」
「アスタ様に、選んでもらった? ……わたくしが?」
「ええ、ですからリュス。私めは信じます」
しかし、リュスは苦し気に首を振る。
「ですが、ゲロハルト。……わたくしが、なにをしても上手くいかないのです。こうなると伝えても、なぜか別の災いが起きてしまいます。わたくしは……もう、嘘つきで正気も保てない。壊れた女なのでしょう」
リュスは自嘲した。
だが、ゲロハルトは穏やかに“それがどうした”と突っぱねる。
「いいですか。とにかく間違っていても胸を張りなさい。さすれば……ええ、少なくとも格好がつきます。」
「……恰好、ですか?」
「はい、肝心なことです。どんなにお叱りを受けようとも、胸を張らなければ誰も耳を貸しません。間違いを恐れて何もせぬ者こそ、ヤバマーズにあっては最大の不名誉と知るべきです」
“間違いや失敗を恐れるな”……それはヤバマーズの家訓のようですらあった。
「先々代はこうも仰いました。“白黒ついてから動く者こそ、真に愚か者なのだ”と」
人を動かし、領地を守る立場ならば。
危機の判断は、詳細が判明するまえに行うものだった。
「確かに、と膝を打ちました。状況がよくわかった時にはいつも手遅れでした。よしんば命が助かっても、“関係”を損ねました」
「わたくしが嘘つきだとしても、危機だといえば……それだけで手を差し伸べて下さると?」
「嘘か真実かを計るよりも、友が窮地にいると叫ぶなら、ただそこに駆けつけるのがヤバマーズの作法でございましょう」
「ただ駆けつけるのが、作法……」
「ええ、ええ。考えてごらんなさい。真偽がわかってから、友を庇う人間など信頼に足りえませぬ」
老執事ゲロハルトは、やはり見た目だけは貫禄がある。
「――“友”とは、真相がわからずとも立つ人間なのですよ」
つまり、ゲロハルトは……此度リュスの友として立つというのだ。
しかし、それはそれとして、と老執事は付け加える。
「ですが、リュス。たとえ主人の窮地といえど、戦にあって膝をつくことだけは許されませぬ。それこそが伝統なのですから」
「それも、伝統なのですか?」
「無論です。ヤバマーズの当主は皆、“死ぬまで笑うか、さもなくば威張るか”をして来たのですから。貴女も、同じように胸を張りなさい」
『いや、結果として、歴代当主はみんな死んでるじゃないか』
……とは、さすがに誰もツッコまなかった。
誰もがうっすら思っても、不吉すぎて呑み込んだ。
「とはいえ、お気持ちは痛いほどよくわかります。この爺も、若様が餓死寸前の極貧に追い込まれた折には、ひどく情けのうございました」
「アスタ様が……飢死、寸前に?」
「ええ。あの時ばかりは、恥も怪聞もございませんでしたね。神にも泣いてすがりましたよ。ただ、生きてさえいてくれれば何もいらぬと」
どうにも、年寄りの話は長い。
独白のように、
きっと、世界の他の誰にとっても価値はない感傷だが――。
「大事な御方が、恥を晒すしかない苦悩。ええ、本当にどうしようもない気持ちになるのです。……いっそ、己が死んだ方が、マシだと思うほどに」
老執事ゲロハルト自身には……人生で一番に近いほど大事なことだった。
しかし、切迫した若者にとっては、ひどく無益でもどかしい。
なにしろ緊急事態。
オノレは、当然のように冷たく遮る。
「悪いがね、ゲロハルト。今は、君の長話に付き合う暇などないんだよ」
「左様でしょうな。して、若様の窮地と伺えど、このゲロハルト、老いと戦の後遺症にて……もはや役立たずの老骨」
「わかっているなら、さっさと下がってくれ」
「また、皆様方が問題になされているところ。そう、政治の話とやら。これも爺にはあまりに難しすぎまする」
「……さっさと下がれ、と俺は言っている」
「ですが」
老執事は頑固だった。
苛立つオノレの制止を、ことごとく無視。
――運命が軋んだ。
ずっと努力を続けていたリュスの執念が、今まで選んだ出来事の連鎖が、戦況が。
きわめて、確率の低い乱数を引き当てる。
丁度、リュスが打ちひしがれ、叫んだタイミングで……
世界は誰の計算通りにも回らない。
混沌に満ちた世界で、何がどう作用するかなんて……この一日だけですら、誰にもわからない。
「オノレ様。例えばですな、旦那様……いえ、先代ならこのように仰られるでしょう」
「先代? それはアスタのお父上殿のことか。あの、先日亡くなられたという?」
「そうです。つまり、先代ヤバマーズ男爵ならば、おそらく“方便の問題である”と仰るはず」
「方便」
「そうにございます。――方便です」
老執事ゲロハルトは、自信満々に言った。
間違いなく胸を張って、はっきりとそう言った。
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