シスター・マグダリアが直肌に触れた。
そのまま衣服の隙間を縫うように、腰椎の辺りへと這い進む。
老執事ゲロハルトが、深く、長く。
肺にある澱みを出すように、息を吐いていく。
「……ふぅぅぅうううううっ」
すると、マグダリアの白い指先から、血の雫がじわり滲み出す。
土と蜜の香りの生暖かい血液が、老いさらばえたゲロハルトの皮膚へ。乾いた大地が雨水を吸い込むように染み込むのだ。
「そう、力を抜きなさい。あたくしに身を任せて――」
こみ上げる、たまらぬ
衝撃の予感。歯を食いしばる老執事。
――ピキ、ピキピキッ……メキッ。
ゲロハルトの全身の骨が、不自然に鳴動。
背筋に鋼のバネが蘇り。
深い皺の刻まれた貌に、鮮烈な覇気が宿る。眼光はギラつく力に満ち溢れていた。
「あなたの命の火を、ほんの少しだけ『前借り』して差し上げましたわ♡」
「誠に、誠に感謝いたしますぞ、シスター」
「クスクス……それはもう、
「いやはや。この年で、そう言われてしまうと威厳がなくなってしまいますな」
ゲロハルトが、すぅっと立ち上がると……。
待ち構えていた村の男衆が、黒塗りの弓を手渡した。
「翁殿、準備は万端でごぜえやす」
「おお、ようやった。あとで、マズい酒でも飲み交わそうぞ」
「こいつを拝める日がまた来るなんて……俺たちも感無量ってやつですよ」
それこそが、かつて戦場を掛けていた頃の獲物。
村の男たちが、五人がかりでようやく弦を張れるほどの大弓である。
「実に軽やか、身体に羽が生えた気分ですなぁ。……あの戦場で腰をやられてからは、
ゲロハルトが指先で
そう、アスタが精製した
「――しかし、またこうして
老執事ゲロハルトに浮かんだのは、純真な歓びだった。
「くすくす。いくつになっても変わりませんね、我が子ったら♡」
「……いい加減おやめください、皆の前ですぞ」
「うふふふ♡」
「されど――本当に感謝いたします、
老執事ゲロハルトは、改めて礼を述べた。
弓が引けること、主君の役に立てること――血沸き踊る戦場に帰ってこれたこと。
「まずは試し撃ち。……さあ、皆様ご照覧あれっ! これから放つは、我が主アスタ男爵が直々に開発された“術師殺しの禍矢”にございますれば!」
氷壁に並ぶ者たちの視線が、一点に集中。
ゲロハルトは氷壁の縁。奈落を見下ろす位置へと悠然と立つと、迷いなく弦を引き絞る。
ギリギリ、と。
強靭な弓弦が悲鳴を上げて、極限まで張り詰めた。
狙うは、火球を練りあげんとする――
――ビィンッ!
放たれた一矢。
赤き月光を切り裂く雷鳴となった。
「ぐふっ!?」
あまりに異常な貫通力。
矢は胴へと深々と突き刺さり……
それからは、かつてアスタが魔熊との死闘において実証した通り。
魔術回路が発動するまさにその時。生物の体内へ、
――ドォォォォンッ!!
体内の魔術回路が、強烈なスパークを引き起こす。
術師が内包する魔力は暴走、身体の内部から爆散。焼け焦げた臓物が一気にまき散らされた。
「ふむ、さすがは若様が作られた矢。……しかし、まずは肩慣らしといったところでしょうな」
平然と言い放つゲロハルト。
混乱の極み。
恐れおののく賊たちを余所に、ゲロハルトは次々と矢を放つ。
その一射一射が、戦場を塗り替えていく死神の指先。
無学な老人が魅せる、つまらぬ人生の積み重ね。
「人の身体が?!
「ひぃぃぃ!? 城壁だ、あれを作った魔術師の仕業に違いないっ!」
速射だ。また一つ、また一つ。
無知なる者にとって、それは理解を超えた光景。
「なんだ、この速度と正確さは……?」
「いえいえ、この城壁の位置が実に良いのですよ。目も耳も良くなりましたしな、風読みも楽にございまする」
「……そういう次元じゃないだろう、その腕前は」
オノレは、目にしている現実が信じられなかった。
あまりに神業じみた狙撃。
つまるところ、動乱の時代を生き抜いた“従軍していた年寄り”とは――餞別を受けた生き残り。古強者。
ヤバマーズという野蛮な地で、なぜこの老人が敬われ続けてきたのか。その理由を、オノレは今、身を以て理解した。
そこに――。
「隠れても無駄であるっ! 非道な盗賊たちに、慈悲などない!」
「ひっぃいぃぃっ!? お助けをぉぉぉっ!?」
「こいつは怪物だ、絶対、馬の世話係なんかじゃないぃぃっ!!」
物陰に隠れようとする
氷の城壁、聖騎士ロダンの武、老執事の狙撃。
どれか一つ欠けても、鎮圧は出来なかった。
不足があらば、盗賊がまた暴徒に戻っていたやもしれない。
当然、防衛線は危機に陥っただろう。
しかし、そうはならなかったのだ。
「あらかた、掃除は済みましたな。……オノレ様、次は使い魔に移りましょう」
「え、あ、ああ……! 行けっ!」
呆気にとられていたオノレが、正気に戻って杖を振る。
上空へ放たれたのは、一羽のフクロウ。
――だが、それを見逃す敵ではない。
星なき漆黒の夜空、虚空が不気味に歪む。
魔力探知すらすり抜けて、しかし確実にオノレのフクロウを追跡する
それが数匹がかり。容赦のない狩りの陣形で迫る。
「くっ、やはり無理かっ!?」
哀れ、使い魔たるフクロウ。
突如、引き裂かれたかと思えば、羽根を散らして墜落した。
「見ての通り、この様だ。……打つ手がない」
「……まさか相手は、“不可視の魔物”にございましたか」
老執事ゲロハルトは、弓を構えたまま身動きが取れなかった。
「ああ。ろくに探知にも引っかからないし……形も不明だ。わかっているのは、敵が“一匹ではない”ということだけだ」
戦場の制空権が支配されている。
そう、嘆くオノレ。
「オノレ様。残りの使い魔、その手持ちは?」
「今、リュシエンヌに一羽、別動隊に一羽付き添わせている。……もう予備は、手持ちに一羽しかいない」
「残るはたったの一羽……に、ございますか」
「そうだ。……そして、今すぐにでも使い魔を飛ばし、アスタを見つけ出さなければ、もう間に合わない」
事態の重みが、心身に沈むのを感じた。
するとゲロハルトは……瞼を伏せた。
夜風に乗って流れる、わずかな気配に耳を澄ませているのだ。
目に見えぬ不可視の怪物が、いくつも空を飛んでいる。
そこで、たった一羽のフクロウを守り抜かねばならない。
「上空に、視えぬ猟犬がいるようなものですな。執拗に輪を描いて、次の獲物を待っている」
「……そうとも言える」
「しかしですな――猟犬とは、我らがヤバマーズの御旗なのですよ」
そう、ヤバマーズの紋章こそ“ゴブリンを狩る猟犬”である。
王命で、魔物を狩る者の末裔である。
ゲロハルトは深く、深く深呼吸。
肺を、戦場の気で満たしてから――双眸をカッと見開いた。
「わかりました、オノレ様。ならば、この爺に万事お任せあれ」
……この老人。
学は全くないが、やはり貫禄だけはあるのだ。
いつも応援ありがとうございます!
「面白かった」「ここが意外だった」といった一言だけでも、作者は画面の前で飛び上がって喜びます。
作品のお気に入り登録や評価も、執筆のガソリンになりますので、ぜひよろしくお願いします!