告げるが早いか。
老執事ゲロハルトは迅速にして、突拍子もないことをした。
――ビリィッ!!
なんと長年ヤバマーズの執事として着こんできた制服を……躊躇の欠片もなく、剛腕にて引き裂いたのだ。
「な、何を……いったい何をしているんだい、ゲロハルトっ!?」
オノレは思わず、声を裏返した。
「耳、それだけでは足りませぬ。……奴らは羽音も微か、魔素の波すら歪めて空を滑るのでありましょう。――ならば、この老いさらばえた肌すべてを『耳』とするまで」
赤き月光の下に露わになった、その肉体。
およそ老人のものとは信じがたい、鋼のような筋肉。
上半身のいたるところに無数の刀傷、矢傷の痕。
シスター・マグダリアの血の奇跡。
『前借り』した命の火が、その老躯の内で燃え滾っている。
「さあ、いつまでこの身が保つかもわかりませぬっ! オノレ様、いざ参りましょうぞっ!」
「……本気、なのかい?」
「本気も本気、大本気ですぞ! もし、若様に至るまでに一矢でも外したならば、この場で腹を掻っ捌き……後を追う覚悟にございますっ!」
凄まじいまでの気迫。
ゴクリ、とオノレはツバを飲み込んだ。
「わかった。……だけどね、風の気配を読んだところで、奴らは一匹じゃない。空中で不規則に陣形を組み、包囲網を敷いているはずだからね」
「承知ッ!」
頷く、ゲロハルト。
オノレも冷や汗を拭うと、覚悟を決めた。
震える手で、最後の一羽となったフクロウを天へと掲げる。
これを失えば、戦場の闇に取り残されたアスタ捜索は手詰まり。
ギリリッ。
老執事ゲロハルトは、
いつでも速射できる構え。
「……暫し、待たれよ」
初夏の冷たい夜風。
剥き出しになったゲロハルトの背を、胸を、刻一刻となぞる。
戦場の煙、焼け焦げた死肉と木々の臭い、氷の城壁がもたらす冷気。
あらゆる空気の流れが、皮膚を刺激していく。
「……風向きが変わり申した」
「え?」
ゲロハルトの産毛が、ゾクリと逆立つ。
上空――何かが動いた気がした。
羽音はほとんどない。
素養なき老人に、魔力の反応などわかりようもない。
しかし、確かに。
夜風の流れが、わずかに一瞬遮られた。
「今ですぞっ! オノレ様!」
「――いけぇっ!! 頼むっ!」
オノレはもう、信じるしかなかった。
銀灰のフクロウが、ついに氷壁から飛び立った。
星なき漆黒の夜空、赤銅色の月を背に受けて……美しい羽ばたき。
それこそが、アスタを救う唯一の希望。
だが、見えざる死神が許すはずもない。
ゆらり。
やはり、視界には何も映ることなく。
月光を透過する透明な翼、魔素の揺らぎすら消した隠密術式。
されど、飛翔するフクロウを狙い、魔物たちが必殺の布陣を張るならば。
――確かに実体があるならば、大気の流れが、風が間違いなく変わるのだ。
「風が泣いておる……そこですなッ!」
――ビィンッッ!!
ゲロハルトの指先から、“術師殺しの禍矢”が弾けた。
何もないはずの虚空――フクロウのわずか手前の空へと吸い込まれる。途端。
「ぎゃ、がぁッ!?」
ドボォォォォンッ!!
虚空で肉の塊が、突如としてはじけた。
「当たった!?」
「まだですぞ」
不可視の術が解け、宙にぶちまけられる紫の臓物、千切れた腸。
老執事の狙いは、一匹を仕留めることではない。
ベチャリ、ブツ、ベチャベチャッッ!
爆散した臓物は、夜空に凄惨なる大輪を描き。
“なにもないはずの空間”へと付着した。
「血と臓物の絵の具にて、輪郭が見え申したぞッ!」
――ビィンッ! ビィンッ!
番えた矢を次々と。
――ドボォォォォンッ!!
二匹目、三匹、さらに爆発。
降り注ぐ汚肉の雨が、さらに包囲網を露わにする。
四匹目、五匹目の体表を容赦なく塗り潰し……。
「見えるっ、今なら! 飛ばすべき筋道が、俺にも見えるよっ!」
オノレは叫び、フクロウを加速させた。包囲の穴が丸わかりとなった。
追う、魔物たち。
「行かせはせぬぞ、化け物どもめッ!」
連鎖。
一匹が弾ければ、肉片が次の敵を炙り出す。矢が突き刺さっては、さらなる肉の飛沫が次の影を告発。
そして、とうとう包囲網を脱すると――アスタを発見した。
「リュシエンヌっ! アスタの居場所を捕捉した! 俺が上空から先導するから、迷わず駆け抜けろっ!」
オノレが必死に念話を飛ばす中――。
役目を果たしたゲロハルト、その顔から急激に血の気が引き始めていた。
強烈な眩暈。堪えきれずに、目元を押さえ……よろめく。
「ふぅ……さすがに、老骨には堪えたようですな」
荒い息。
ふと、磨き上げられていたはずの靴。その、つま先を見つめた。
「ここまで血しぶきが跳ねましたか。……はあ、また靴が汚れている。これでは、我らが
老執事ゲロハルトが、力なくぼやくと。
膝から力を失い、とっさにヘイホーに支えられる。
「ゲロハルトさん、お気を確かにっ!」
マグダリアは、そんな光景を眺めながら。
やはり、艶美に……クスクスと愉しげに佇んでいた。
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