ヤバマーズ ~毒喰らい男爵の人生逆転劇~   作:裃 左右

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第112話 風が泣く。血と臓物で見えゆは、天の道筋。

 告げるが早いか。

 老執事ゲロハルトは迅速にして、突拍子もないことをした。

 

 ――ビリィッ!!

 

 なんと長年ヤバマーズの執事として着こんできた制服を……躊躇の欠片もなく、剛腕にて引き裂いたのだ。

 

「な、何を……いったい何をしているんだい、ゲロハルトっ!?」

 

 オノレは思わず、声を裏返した。

 

「耳、それだけでは足りませぬ。……奴らは羽音も微か、魔素の波すら歪めて空を滑るのでありましょう。――ならば、この老いさらばえた肌すべてを『耳』とするまで」

 

 赤き月光の下に露わになった、その肉体。

 およそ老人のものとは信じがたい、鋼のような筋肉。

 上半身のいたるところに無数の刀傷、矢傷の痕。

 

 シスター・マグダリアの血の奇跡。

 『前借り』した命の火が、その老躯の内で燃え滾っている。

 

「さあ、いつまでこの身が保つかもわかりませぬっ! オノレ様、いざ参りましょうぞっ!」

「……本気、なのかい?」

「本気も本気、大本気ですぞ! もし、若様に至るまでに一矢でも外したならば、この場で腹を掻っ捌き……後を追う覚悟にございますっ!」

 

 凄まじいまでの気迫。

 ゴクリ、とオノレはツバを飲み込んだ。

 

「わかった。……だけどね、風の気配を読んだところで、奴らは一匹じゃない。空中で不規則に陣形を組み、包囲網を敷いているはずだからね」

「承知ッ!」

 

 頷く、ゲロハルト。

 

 オノレも冷や汗を拭うと、覚悟を決めた。

 震える手で、最後の一羽となったフクロウを天へと掲げる。

 

 これを失えば、戦場の闇に取り残されたアスタ捜索は手詰まり。

 

 ギリリッ。

 

 老執事ゲロハルトは、黒銀結晶(クロシュライト)の矢を二本同時に保持。

 いつでも速射できる構え。

 

「……暫し、待たれよ」

 

 初夏の冷たい夜風。

 剥き出しになったゲロハルトの背を、胸を、刻一刻となぞる。

 

 戦場の煙、焼け焦げた死肉と木々の臭い、氷の城壁がもたらす冷気。

 あらゆる空気の流れが、皮膚を刺激していく。

 

「……風向きが変わり申した」

「え?」

 

 ゲロハルトの産毛が、ゾクリと逆立つ。

 

 上空――何かが動いた気がした。

 

 羽音はほとんどない。

 素養なき老人に、魔力の反応などわかりようもない。

 

 しかし、確かに。

 夜風の流れが、わずかに一瞬遮られた。

 

「今ですぞっ! オノレ様!」

「――いけぇっ!! 頼むっ!」

 

 オノレはもう、信じるしかなかった。

 

 銀灰のフクロウが、ついに氷壁から飛び立った。

 星なき漆黒の夜空、赤銅色の月を背に受けて……美しい羽ばたき。

 

 それこそが、アスタを救う唯一の希望。

 

 だが、見えざる死神が許すはずもない。

 

 ゆらり。

 やはり、視界には何も映ることなく。

 月光を透過する透明な翼、魔素の揺らぎすら消した隠密術式。

 

 されど、飛翔するフクロウを狙い、魔物たちが必殺の布陣を張るならば。

 ――確かに実体があるならば、大気の流れが、風が間違いなく変わるのだ。

 

「風が泣いておる……そこですなッ!」

 

 ――ビィンッッ!!

 

 ゲロハルトの指先から、“術師殺しの禍矢”が弾けた。

 何もないはずの虚空――フクロウのわずか手前の空へと吸い込まれる。途端。

 

「ぎゃ、がぁッ!?」

 

 ドボォォォォンッ!!

 虚空で肉の塊が、突如としてはじけた。

 

「当たった!?」

「まだですぞ」

 

 不可視の術が解け、宙にぶちまけられる紫の臓物、千切れた腸。

 老執事の狙いは、一匹を仕留めることではない。

 

 ベチャリ、ブツ、ベチャベチャッッ!

 

 爆散した臓物は、夜空に凄惨なる大輪を描き。

 “なにもないはずの空間”へと付着した。

 

「血と臓物の絵の具にて、輪郭が見え申したぞッ!」

 

 ――ビィンッ! ビィンッ!

 

 番えた矢を次々と。

 

 ――ドボォォォォンッ!!

 

 二匹目、三匹、さらに爆発。

 降り注ぐ汚肉の雨が、さらに包囲網を露わにする。

 

 四匹目、五匹目の体表を容赦なく塗り潰し……。

 

「見えるっ、今なら! 飛ばすべき筋道が、俺にも見えるよっ!」

 

 オノレは叫び、フクロウを加速させた。包囲の穴が丸わかりとなった。

 追う、魔物たち。

 

「行かせはせぬぞ、化け物どもめッ!」

 

 連鎖。

 一匹が弾ければ、肉片が次の敵を炙り出す。矢が突き刺さっては、さらなる肉の飛沫が次の影を告発。

 

 そして、とうとう包囲網を脱すると――アスタを発見した。

 

「リュシエンヌっ! アスタの居場所を捕捉した! 俺が上空から先導するから、迷わず駆け抜けろっ!」

 

 オノレが必死に念話を飛ばす中――。

 

 役目を果たしたゲロハルト、その顔から急激に血の気が引き始めていた。

 強烈な眩暈。堪えきれずに、目元を押さえ……よろめく。

 

「ふぅ……さすがに、老骨には堪えたようですな」

 

 荒い息。

 ふと、磨き上げられていたはずの靴。その、つま先を見つめた。

 

「ここまで血しぶきが跳ねましたか。……はあ、また靴が汚れている。これでは、我らが女主人代行(グヴェルナント)に、執事失格と叱られますなぁ……」

 

 老執事ゲロハルトが、力なくぼやくと。

 膝から力を失い、とっさにヘイホーに支えられる。

 

「ゲロハルトさん、お気を確かにっ!」

 

 マグダリアは、そんな光景を眺めながら。

 やはり、艶美に……クスクスと愉しげに佇んでいた。




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