ヤバマーズ ~毒喰らい男爵の人生逆転劇~   作:裃 左右

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第127話 地獄に落ちたサキオン。僕は、君を嫌いになりたくなかった。

「そこからは、だいたい酒が入る。酔っ払い共が顔を真っ赤に腫らし、額に青い血管をピキピキ浮き上がらせて……“あの色ボケだ! あいつが女に狂わなければ、俺たちの人生はこんなはずじゃなかった!”って。唾を撒き散らしながら、何度も、何度も、テーブルを叩き割らんばかりの勢いで……」

 

 王都の貴族みたいな、洗練された宴じゃない。

 ひどく下品で、痛ましい集まり。

 

 リュスのような高貴な(ひと)

 ……憧れの貴婦人には、一生見せたくない光景。

 

「その辺、次男のイリリクは上手くやってたな。適当に合わせて、抜けるのが上手い。でも、僕は次期当主だからね。絶対に、ずっとそこに居合わせないといけない。時には、世話になってる親戚の隣に座らせられた」

「……気が進まないどころではないでしょうね」

「うん、嫌だった。僕の肩が、骨がきしむほど強く掴まれたこともあった。痛くて、痛くて……鼻につく、安酒のむせ返るような臭い息。逃げ出したくても、その毛むくじゃらの指が食い込んで動けなくってさぁ」

「……アスタ様、もうそのお話は――」

「ごめん。不愉快だろうけど、もうちょっとだけ聞いてくれ」

 

 リュスが耐えかねて遮ろうとするが、僕は続けた。

 

 こんなくだらない話が、僕が“公爵令嬢リュシエンヌ”を救わなかった理由。

 そこに繋がるからだ。

 

「自分でも上手くまとまらなくて、こうしないと話せないんだ」

「でも、アスタ様が苦しそうで……」

「耳元で怒鳴られたんだ」

「え?」

「“いいか、アスタ。サキオンだ、あいつこそが本物のクズだ。このヤバマーズを貶めた、最低最悪のクズ。俺たちが今苦労しているのは、全部アイツのせいなんだッ!”って耳元で怒鳴られて……」

 

 そうして、僕はどうしたか。

 

「そしたら僕は、必死に頷くんだ。“そうだよ、サキオンのせいだ、大嫌いだ”って」

「……」

「でもね、リュス。おかしな話だろ? 実は僕は……サキオンの顔すら知らないんだ。なにせ肖像画だって残ってない、大昔に残らず焼き捨てられてしまったから」

 

 強要された憎悪。

 幼い僕が、優しいおじさんやおばさんたちに“嫡男として愛されるための条件”として教え込まれたこと。

 

 同じ血を引く、顔も知らない先祖の一人をひたすらに呪うこと。

 曽祖父の兄を、唾を吐き捨てる連中と一緒に罵倒すること。

 

「そうやって、僕は一族の輪の中に入れてもらってたんだよ。……死者を口汚く罵って、その引き換えに……可愛い嫡男として扱われてきた」

 

 脳裏に浮かぶ呪詛のせいで。

 こうして触れ合っているリュスの冷たい掌でさえ、ひどく遠くに感じてしまう。

 

 “美しいまでの正しさ”なんてどこにもない。

 ……人として、あるべき規範から外れている。

 

「ねえ、リュス。わかったかい? ヤバマーズという土地では、死者を沼底に沈め、見下ろすように嘲笑うことで親睦を深めるんだよ」

 

 だから、どうか。

 貴女はヤバマーズを愛さないで欲しい。

 

 ……ヤバマーズなんかに、染まらないで欲しい。

 

「――僕らこそが、悪しき鉤爪(マレブランケ)の悪鬼みたいだ」

 

 遠い記憶、母上に読み聞かせられた。

 

『どれだけ偉くて強い人でもね。悪いことをしたら、そんな酷い悪魔たちのいる地獄に落ちるんだよ』

 

 捕えられた亡者は、永劫の責め苦を受け続ける。

 二度と、光を見ることもなく。

 

「ほら、そのお仕着せ(リバリー)を着ているのが嫌になっただろ?」

「……だから、わたくしに着て欲しくなかった、のですね」

「はは、バカみたいな感傷だと思うか? おかしければ、笑えよ。でも、そうだ。だから……君には、着てほしくなかった」

 

 高潔なる公爵令嬢リュシエンヌに……こんな薄汚いヤバマーズは相応しくない。

 心からそう言える。

 

 吐き出した。

 ドロドロしたものを、沸きあがる気持ち悪さのままに。

 

「はあ……僕が、公爵令嬢リュシエンヌを救わなかったのは……そんな、この土地での記憶が原因だ」

「わかりません、それがどうして……」

「“サキオンになるのが、おぞましいほど嫌だった”から」

 

 たった、それだけの理由だ。

 

「……嫌、だったから?」

 

 リュスに浮かぶ表情は、困惑。

 

「ああ。借金までして、都会に出て来て……ヤバマーズだと見下されながら、勉強をして……それでも、僕のなにかが変わるかもって思っていたのに」

 

 潜り込んだ……一番厳しくて、貴族令息には人気のない教室。

 それが、ラ・ボアジエ教授の教室だった。

 

 良くも悪くも、身分で差別しない教授だったが……孤独な時間は長かった。

 どうせ誰からも理解されないと、不貞腐れてもいた。

 

「王都は決して、僕に優しい場所じゃなかった。けれど……それでもヤバマーズよりはマシだと思った。でも……」

 

 僕は、親族や領民の悪口をこれだけ言っているのに……。

 彼らを死ぬほど、見下してきたのに……。

 

 いざという時には、周囲どころか自分すらも誤魔化して。

 ヤバマーズ(みんな)のためだと、勇気を引っ込めた。

 

「――本当に、僕はクソ野郎だッ!」

「お、落ち着いて、ください」

「決して、ヤバマーズが大事だからなんかじゃなかった。たった、それだけの嫌悪感が原因で……“気高く生きるリュシエンヌ”を救う努力すらまったくしなかった! 僕は、貴女のその生き方こそを美しいと思っていたのに!」

 

 かつての、リュス。

 僕が想い焦がれた、高嶺の花。

 

 いつだって正しさを貫こうとする女性。

 誰が相手でも、間違いは間違いだと貫いてしまうような危うさ。

 

 思えば、女主人代行(グヴェルナント)のリュスには……どこかその頃の面影がある。

 

「でも、僕はそうはなれない。所詮は、辺境の……ヤバマーズの人間だから」

「わたくしは……そのように立派な人間ではありませんでしたよ」

「少なくとも、僕にとってはそうだったよ。貴女を目標に努力していた」

「そう……ですか」

「本を読んで……僕は、古き人たちの“美しいまでの正しさ”に憧れた。その苦悩を乗り越えようとする気高さに……なのに……僕は、そうなれなかった」

 

 僕に優しいはずのおじさんや、おばさんたちが。

 悪鬼マレブランケのような形相で死者を傷つけ、呪う。

 

 公爵令嬢リュシエンヌの危機に、立つべきかどうかの状況で。

 思い浮かんでしまったのは、そんな光景。

 

「幼い頃から、ずっとそうだったんだ。それが、僕には……」

「怖かった、のですね」

 

 遮るように。

 唐突に、絹のように柔らかい声に包まれて――。

 

「もしかして、怖かったのではないのですか? 幼い頃から今まで……アスタ様は、ずっと……」

「……怖い?」

「アスタ様のお気持ち。……それは、サキオン様への嫌悪感ではなく。愛されたいと願う人々から、永劫の生贄のように扱われる。そんな光景への恐怖(トラウマ)だったのではないですか?」

 

 僕はどうしたらいいか、わからなくなった。

 

 ずっと胸の奥に閉じ込めていた、幼い心。

 その震える感情に……そっと、嫌悪感以外の名前が付けられてしまった。

 

「サキオン様は、わたくしの曾祖母を……リュディヴィーヌを救ってくださいました。わたくしたちは、あの御方にとても感謝しているのです」

「か、感謝……?」

「はい。かつて、多くの者が救われました。今でも感謝している者は、数多い。ですが……ヤバマーズでは、そのような存在だったのですね」

 

 真っ白い、細い指が……。

 恐る恐る、僕の頭上へと伸びていく。

 

「ヤバマーズとて、なにか事情があったのかもしれません。立場が異なりますから。ですが……わたくしは今聞いたお話を……とても悲しく思います」

 

 サキオンが受けた仕打ちを、悲しいと言いながら。

 髪へと、ふれられる。

 

 それはあまりに……優しすぎる感触。

 

「あなた様が仰ってくださった、“君がためのサキオンになりたい”というお言葉は……とても過酷で、だからこそ尊きものと思っておりました」

「尊い……だなんて」

「ですが、わたくしは……わかっておりませんでしたね。もっともっとそれ以上に、わたくしには想像つかぬほどの覚悟が必要だった」

「そんなことは、ない。……僕は、覚悟が決められない、卑怯者で……」

「いいえ」

 

 そこだけは、強くきっぱりと。

 リュスははっきり言った。

 

「親族から生贄のように扱われたい子供など、この世にいないはずですよ」

「……」

「あなた様はそんな幼いころからの、心の傷を。……その癒えぬ恐怖に立ち向かってでも、わたくしを救おうと――葛藤してくださったのです」

 

 ああ、そうか。

 そうだ、僕は……子供の頃から、ずっと怖かったんだ。

 

 サキオンになりたくないというおぞましさ、その忌避感。

 僕があんなにも否定し、軽蔑し、呪い続けていた――忌まわしき男。

 

 僕は、サキオンを嫌悪しているはずだ、と。

 

 ……そう信じ込もうとしていたけれど。

 

(僕を愛してくれているはずの、親族たち……。あんな恐ろしい悪鬼のような形相で、永遠に呪われ続ける……憎悪の生贄。見知らぬ、サキオン)

 

 でも、僕は本当は……。

 顔も知らぬ死者を……僕に本を残してくれた先祖の一人だと知っていた。

 

 残された蔵書に……痕跡を消されたはずの、名前があったんだ。

 

「――僕は、サキオンを嫌いになりたくなかった」

「はい」

「……僕は、誰とも価値観が合わなくて。でも、遠い時代のサキオンを……同じ本を読んだ、どこか友達みたいにすら思っていて」

「大事な友達を罵倒しないと、皆様に愛してもらえない。お辛かったですね」

「辛いなんて、卑怯者が言っちゃいけない。……僕はいつも、身が竦んでしまった」

 

 このこびりつく罪悪感は……公爵令嬢リュシエンヌへのものだけじゃなかったのか。

 

 いつも、彼を瀝青(タール)の黒池から、救い出してあげたかったのに。

 みんなに逆らえなくて、見捨てていた。

 

 同じように、気高いリュシエンヌのことも。

 

「でも、僕は、君になにも出来なかった。……正しくありたかったのに」

「葛藤してくださって……ありがとうございます」

「なにを……?」

「少なくとも、二年前の……わたくしのなかの公爵令嬢リュシエンヌは……それだけで十分だと申していますよ。だから、ありがとうございます」

 

 僕は、もはや言葉を失ったまま。

 その優しく撫でられていく感触に……もう身を委ねるしかなかった。




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