「そこからは、だいたい酒が入る。酔っ払い共が顔を真っ赤に腫らし、額に青い血管をピキピキ浮き上がらせて……“あの色ボケだ! あいつが女に狂わなければ、俺たちの人生はこんなはずじゃなかった!”って。唾を撒き散らしながら、何度も、何度も、テーブルを叩き割らんばかりの勢いで……」
王都の貴族みたいな、洗練された宴じゃない。
ひどく下品で、痛ましい集まり。
リュスのような高貴な
……憧れの貴婦人には、一生見せたくない光景。
「その辺、次男のイリリクは上手くやってたな。適当に合わせて、抜けるのが上手い。でも、僕は次期当主だからね。絶対に、ずっとそこに居合わせないといけない。時には、世話になってる親戚の隣に座らせられた」
「……気が進まないどころではないでしょうね」
「うん、嫌だった。僕の肩が、骨がきしむほど強く掴まれたこともあった。痛くて、痛くて……鼻につく、安酒のむせ返るような臭い息。逃げ出したくても、その毛むくじゃらの指が食い込んで動けなくってさぁ」
「……アスタ様、もうそのお話は――」
「ごめん。不愉快だろうけど、もうちょっとだけ聞いてくれ」
リュスが耐えかねて遮ろうとするが、僕は続けた。
こんなくだらない話が、僕が“公爵令嬢リュシエンヌ”を救わなかった理由。
そこに繋がるからだ。
「自分でも上手くまとまらなくて、こうしないと話せないんだ」
「でも、アスタ様が苦しそうで……」
「耳元で怒鳴られたんだ」
「え?」
「“いいか、アスタ。サキオンだ、あいつこそが本物のクズだ。このヤバマーズを貶めた、最低最悪のクズ。俺たちが今苦労しているのは、全部アイツのせいなんだッ!”って耳元で怒鳴られて……」
そうして、僕はどうしたか。
「そしたら僕は、必死に頷くんだ。“そうだよ、サキオンのせいだ、大嫌いだ”って」
「……」
「でもね、リュス。おかしな話だろ? 実は僕は……サキオンの顔すら知らないんだ。なにせ肖像画だって残ってない、大昔に残らず焼き捨てられてしまったから」
強要された憎悪。
幼い僕が、優しいおじさんやおばさんたちに“嫡男として愛されるための条件”として教え込まれたこと。
同じ血を引く、顔も知らない先祖の一人をひたすらに呪うこと。
曽祖父の兄を、唾を吐き捨てる連中と一緒に罵倒すること。
「そうやって、僕は一族の輪の中に入れてもらってたんだよ。……死者を口汚く罵って、その引き換えに……可愛い嫡男として扱われてきた」
脳裏に浮かぶ呪詛のせいで。
こうして触れ合っているリュスの冷たい掌でさえ、ひどく遠くに感じてしまう。
“美しいまでの正しさ”なんてどこにもない。
……人として、あるべき規範から外れている。
「ねえ、リュス。わかったかい? ヤバマーズという土地では、死者を沼底に沈め、見下ろすように嘲笑うことで親睦を深めるんだよ」
だから、どうか。
貴女はヤバマーズを愛さないで欲しい。
……ヤバマーズなんかに、染まらないで欲しい。
「――僕らこそが、
遠い記憶、母上に読み聞かせられた。
『どれだけ偉くて強い人でもね。悪いことをしたら、そんな酷い悪魔たちのいる地獄に落ちるんだよ』
捕えられた亡者は、永劫の責め苦を受け続ける。
二度と、光を見ることもなく。
「ほら、その
「……だから、わたくしに着て欲しくなかった、のですね」
「はは、バカみたいな感傷だと思うか? おかしければ、笑えよ。でも、そうだ。だから……君には、着てほしくなかった」
高潔なる公爵令嬢リュシエンヌに……こんな薄汚いヤバマーズは相応しくない。
心からそう言える。
吐き出した。
ドロドロしたものを、沸きあがる気持ち悪さのままに。
「はあ……僕が、公爵令嬢リュシエンヌを救わなかったのは……そんな、この土地での記憶が原因だ」
「わかりません、それがどうして……」
「“サキオンになるのが、おぞましいほど嫌だった”から」
たった、それだけの理由だ。
「……嫌、だったから?」
リュスに浮かぶ表情は、困惑。
「ああ。借金までして、都会に出て来て……ヤバマーズだと見下されながら、勉強をして……それでも、僕のなにかが変わるかもって思っていたのに」
潜り込んだ……一番厳しくて、貴族令息には人気のない教室。
それが、ラ・ボアジエ教授の教室だった。
良くも悪くも、身分で差別しない教授だったが……孤独な時間は長かった。
どうせ誰からも理解されないと、不貞腐れてもいた。
「王都は決して、僕に優しい場所じゃなかった。けれど……それでもヤバマーズよりはマシだと思った。でも……」
僕は、親族や領民の悪口をこれだけ言っているのに……。
彼らを死ぬほど、見下してきたのに……。
いざという時には、周囲どころか自分すらも誤魔化して。
「――本当に、僕はクソ野郎だッ!」
「お、落ち着いて、ください」
「決して、ヤバマーズが大事だからなんかじゃなかった。たった、それだけの嫌悪感が原因で……“気高く生きるリュシエンヌ”を救う努力すらまったくしなかった! 僕は、貴女のその生き方こそを美しいと思っていたのに!」
かつての、リュス。
僕が想い焦がれた、高嶺の花。
いつだって正しさを貫こうとする女性。
誰が相手でも、間違いは間違いだと貫いてしまうような危うさ。
思えば、
「でも、僕はそうはなれない。所詮は、辺境の……ヤバマーズの人間だから」
「わたくしは……そのように立派な人間ではありませんでしたよ」
「少なくとも、僕にとってはそうだったよ。貴女を目標に努力していた」
「そう……ですか」
「本を読んで……僕は、古き人たちの“美しいまでの正しさ”に憧れた。その苦悩を乗り越えようとする気高さに……なのに……僕は、そうなれなかった」
僕に優しいはずのおじさんや、おばさんたちが。
悪鬼マレブランケのような形相で死者を傷つけ、呪う。
公爵令嬢リュシエンヌの危機に、立つべきかどうかの状況で。
思い浮かんでしまったのは、そんな光景。
「幼い頃から、ずっとそうだったんだ。それが、僕には……」
「怖かった、のですね」
遮るように。
唐突に、絹のように柔らかい声に包まれて――。
「もしかして、怖かったのではないのですか? 幼い頃から今まで……アスタ様は、ずっと……」
「……怖い?」
「アスタ様のお気持ち。……それは、サキオン様への嫌悪感ではなく。愛されたいと願う人々から、永劫の生贄のように扱われる。そんな光景への
僕はどうしたらいいか、わからなくなった。
ずっと胸の奥に閉じ込めていた、幼い心。
その震える感情に……そっと、嫌悪感以外の名前が付けられてしまった。
「サキオン様は、わたくしの曾祖母を……リュディヴィーヌを救ってくださいました。わたくしたちは、あの御方にとても感謝しているのです」
「か、感謝……?」
「はい。かつて、多くの者が救われました。今でも感謝している者は、数多い。ですが……ヤバマーズでは、そのような存在だったのですね」
真っ白い、細い指が……。
恐る恐る、僕の頭上へと伸びていく。
「ヤバマーズとて、なにか事情があったのかもしれません。立場が異なりますから。ですが……わたくしは今聞いたお話を……とても悲しく思います」
サキオンが受けた仕打ちを、悲しいと言いながら。
髪へと、ふれられる。
それはあまりに……優しすぎる感触。
「あなた様が仰ってくださった、“君がためのサキオンになりたい”というお言葉は……とても過酷で、だからこそ尊きものと思っておりました」
「尊い……だなんて」
「ですが、わたくしは……わかっておりませんでしたね。もっともっとそれ以上に、わたくしには想像つかぬほどの覚悟が必要だった」
「そんなことは、ない。……僕は、覚悟が決められない、卑怯者で……」
「いいえ」
そこだけは、強くきっぱりと。
リュスははっきり言った。
「親族から生贄のように扱われたい子供など、この世にいないはずですよ」
「……」
「あなた様はそんな幼いころからの、心の傷を。……その癒えぬ恐怖に立ち向かってでも、わたくしを救おうと――葛藤してくださったのです」
ああ、そうか。
そうだ、僕は……子供の頃から、ずっと怖かったんだ。
サキオンになりたくないというおぞましさ、その忌避感。
僕があんなにも否定し、軽蔑し、呪い続けていた――忌まわしき男。
僕は、サキオンを嫌悪しているはずだ、と。
……そう信じ込もうとしていたけれど。
(僕を愛してくれているはずの、親族たち……。あんな恐ろしい悪鬼のような形相で、永遠に呪われ続ける……憎悪の生贄。見知らぬ、サキオン)
でも、僕は本当は……。
顔も知らぬ死者を……僕に本を残してくれた先祖の一人だと知っていた。
残された蔵書に……痕跡を消されたはずの、名前があったんだ。
「――僕は、サキオンを嫌いになりたくなかった」
「はい」
「……僕は、誰とも価値観が合わなくて。でも、遠い時代のサキオンを……同じ本を読んだ、どこか友達みたいにすら思っていて」
「大事な友達を罵倒しないと、皆様に愛してもらえない。お辛かったですね」
「辛いなんて、卑怯者が言っちゃいけない。……僕はいつも、身が竦んでしまった」
このこびりつく罪悪感は……公爵令嬢リュシエンヌへのものだけじゃなかったのか。
いつも、彼を
みんなに逆らえなくて、見捨てていた。
同じように、気高いリュシエンヌのことも。
「でも、僕は、君になにも出来なかった。……正しくありたかったのに」
「葛藤してくださって……ありがとうございます」
「なにを……?」
「少なくとも、二年前の……わたくしのなかの公爵令嬢リュシエンヌは……それだけで十分だと申していますよ。だから、ありがとうございます」
僕は、もはや言葉を失ったまま。
その優しく撫でられていく感触に……もう身を委ねるしかなかった。
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