逃げ込んできた難民たち。
彼らに追手が掛かるまで、そう時間はかからない。
数日後には、ヤバマーズ領の境界線に殺気が満ちた。
「ヤバマーズ男爵に告ぐ。我が領から逃亡した農奴どもを、直ちに引き渡せ! ここに逃げ込んだのはわかっておるぞ!」
馬上でふんぞり返る男の姿。
派手な羽飾りのついた兜が、激昂に合わせて揺れている。
そう、彼こそがドラクロワ男爵だ。
ドラクロワの私兵たちも、ガシャンガシャンと不揃いな音を立てて威圧。
「農奴らは、我が領の『財産』である! 隠匿は明確な侵犯行為、ひいては焔王国の法への挑戦と見なすものである! この正義の槍が、貴様の喉笛を突き破ることになるぞ!」
僕は思わず独りごちた。
「おー、おー。デカい声でそれっぽいこと言ってくれるなあ」
農奴は、土地に紐づく財産に等しい扱い。
奪えば窃盗扱い。そこは特に間違ってなかった。
すると、ビクビク怯えるヘイホーが不思議そうにした。
「あれれ、変ですねぇ……」
「ん? なにがだ、ヘイホー」
「いや、だって男爵閣下。あの方は“魔物を退治する余力はない”って仰ったそうじゃないですか」
「らしいな」
「なのに、兵を率いて隣領まで走ってくる余裕はあるんですね……?」
ヘイホーは、実に素っ頓狂なことを言った。
純朴な平民でしかない彼には、心底不思議だったらしい。
思わず、僕は吹き出した。
「お前、それさぁっ! すごい煽ってんじゃん!」
ヘイホーだけが、なぜ笑われたかわからないと冷や汗をかく。
「あれ?! あれれ!?? ボク、なにか変なこと言っちゃいましたか!?」
「いやぁ、変っていうか。ははっ、腹痛い。お前のその天然具合、大学の議論で活かせればよかったのにな」
「えっ!? ええっ!?」
僕は、笑いをなんとか鎮めると。
隣の女性へ、「どう思う?」と投げかけた。
佇むのは、凛々しく執事服を着こなし、聖剣を佩いた
「簡単なことですよ、アスタ様。こんな大規模な逃亡を許してしまえば、他の村々でも連鎖反応が起きる。それを恐れているのでしょう」
「まっ、あっちのオヤジも必死なわけだな」
「それに、我が方は盗賊団を撃退したばかり。満身創痍と踏んでいるのでしょうね」
「実際、負傷兵もちらほらいるし、僕もこの通り。まあ、ナメられてるってことだな」
「……そのようにも言えるかもしれません」
リュスは言いにくそうにしたが、否定しなかった。
向こうは、こっちが退くと思っている。
つまり、勝てる喧嘩だと。
「アスタ男爵、聞こえているか! 直ちに返却せよ、それは窃盗であるっ! さもなくば、宣戦布告と見なすぞっ!」
再び吠える、ドラクロワ男爵。
やっぱり、随分と強気だ。
さてさて、ここはドカンと一発。舌戦と洒落こもうか。
なんて、大声を張り上げようとした途端。
「ゲホッ、ゴホッ!! ……痛ってぇ」
「アスタ様っ!!」
「くっ……さすがに大声量は出ないか」
「ご無理を為さらないでください。まだ癒えていないのですから」
「だが……」
リュスがそっと抱き着いてくる。
むぎゅ、と柔らかな温もりが、僕の焦燥を宥めようとする。
って、人前なんだけど!?
「はい、アスタ様。無論、ヤバマーズの正当性は示すべきですね。……あなた様の勇姿が見られないのは残念に思いますが――」
リュスの瞳に、どろりとした
それは、どこか悦びに満ち溢れていた。
「どうか、わたくしを頼りにしてはいただけませんか?」
「え、でも……」
「……“なりふり構わず、君を頼りにしてしまう”では、なかったのですか?」
ドキリ、とした。
確かに僕の罪を受け入れてくれたら、そう望んでしまうとは言ったけど!?
「ほうら、わたくしが代わりを務めるだけではありませんか。……どのような論法を、お使いになられるおつもりでしたか?」
僕は迷ったが、リュスに耳打ちした。
すると、彼女はくすり、と悪戯っぽく微笑む
「――さすがはアスタ様。法と慣習を熟知されていらっしゃいます。……心得ましたわ」
リュスは僕の腕から離れると、優雅な足取りで一歩、また一歩と踏み出す。
――その、瞬間。
戦場の空気が一変した。
背筋を伸ばし、顎を引く。
染め上げられた黒髪が、眩き陽光を受けて神秘的な光沢を放ったかと思うと……圧倒的な
王都の社交界で、数多の貴族をその一瞥だけで跪かせてきた――フルーリス公爵家令嬢としての、眩いばかりの輝き。
「ドラクロワ男爵とお見受けいたします。……わたくしはヤバマーズ家が
通る声。
清流のように清らかでありながら、雷鳴のように芯を穿つ。
「……だ、弾劾?」
「ドラクロワ男爵よっ! 貴殿は民を魔物の牙へと晒し、統治者としての聖なる義務を放棄した!」
「なにを……!? 私は農奴に“待て”と言っただけだ、今は領地を守るために手が離せぬと……」
「わたくしは起きた『事実』を述べているまでっ! そう、事実だ! 助けを求めたはずの民は傷つき、不作為によって犠牲となった。統治を怠りし領主よ、その罪こそ神の御前で裁かれるべき不徳!」
「な、なんなんだ……この女は……っ!?」
ドラクロワ男爵は気迫に押され、馬上の手綱を引き絞った。
「自らの民を救う剣は持たずして、逃げた資産を連れ戻す槍だけは速やかに振るう。実に滑稽ッ! 領地を任せた王に、どう申し開きをするおつもりか!」
「ぬぐぐぐ……」
王妃となるべく、法と秩序を学んできた彼女にとって。
田舎貴族の言い訳を捻り潰すなど、実に容易きこと。
統治能力の欠如は、領地を没収される理由となりえる。
「我らヤバマーズは、農奴たちの命を保護したに過ぎませんっ! 貴殿らの不始末によって、我々は既に損害を被っている。むしろ償うべきなのは貴殿の方だ!」
チャキン、と。
リュスが恢復聖剣レストラシオンを抜き放てば。
青白い刀身が反射し、ドラクロワの兵たちの目を灼き。
「改心のつもりがあれば武器を捨て、頭を垂れて民に詫びよ。……さもなければ、悪しき領主に天誅を下すっ! 」
切っ先が、ドラクロワ男爵へと向けられた。
「――返答やいかにっ!」
目を焼くほどの、苛烈なる輝き。
それが……僕の目の前で蘇っている。
(リュシエンヌだ。これが、まさにあの頃の……リュシエンヌだッ!)
そう、僕が憧れた公爵令嬢リュシエンヌとは……まさにこのような女性だったのだ。
ドラクロワの兵たちは、そのあまりの神々しさに。
また一歩、また一歩と後退り始めていった。
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