夜の帳が下りた執務室。
橙色のランプに照らされた机の上に、書状が広げられていた。
そこには、七大神が一人。
太陽の女神シャムスへ捧げられた誓いの祝詞が記されている。
そして、間違いなく。
末尾には、ドラクロワ男爵のサインもされていた。
「これでよし……。報復も異議申し立てもしないと、神の
どんな貴族でも、七大神の名に掛けた誓いには背くことはできない。
……神は決して、容赦をしてくれないから。
「アスタ様。あまり根を詰めると、また目が冴えてしまいますよ?」
涼やかな声。
そこには、パリッと糊のきいた執事服を着こなしたリュス。
「また、って……」
「考え事に夢中になると眠れなくなる。それがあなた様の悪い癖ではありませんか」
「いや、まあ。……そうなんだけどさ」
僕は言葉を濁した。
思わず、目を逸らす。
「その……リュスこそ、まだ仕事か?」
「わたくしは、さきほどひと段落ついたところですよ。だから、ご様子を見に来たのです」
「そ、そうか」
でも、もうっ!
そんなことされると、違う意味で眠れなくなりそうだよね!?
正直な話。メイド服で甘えてくるリュスも捨てがたいよ、そりゃ?
でもさ、タイトな執事服に身を包んだ、凛々しくも美しい彼女の姿。
これが、一番僕の心臓に悪い。
捲り上げられた白いシャツ袖からのぞく手首。
細いウエストを強調するベスト。
しなやかなヒップライン。
その隙のない機能美が……ヤバい。
(うん、直視できないほどに格好いいし、最高だ。絶対に口には出さないけど。……口にしたが最後、間違いなく変な奴だと思われる!)
邪念よ、消えろ。去るのだ!
「えーと、難民の受け入れ状況はどうだ? やはり、揉めているか?」
「いいえ、驚くほどスムーズに進んでおりますよ。……ゲロハルトのおかげです」
「うちの爺がどうしたって?」
リュスは歩み寄ると、柔らかな所作で書類の整理をし始めた。
どうやら僕の仕事を、強引に切り上げさせようとしているらしい。
「あの方は、憤る領民たちを前に、こう説かれたのです。――我らが祖を忘れたか、と」
「ああ……そういう話、か」
僕は、あるフレーズを口にする。
「我らが祖を想え。魔物の住まう森を切り開き、不毛の地を耕すしかなかった我らが祖を」
すると、リュスは瞳を見開いた。
「……もしや、ヤバマーズ男爵家に伝わるお言葉でしたか」
「ああ。皆、毒気を抜かれたように大人しくなっただろ」
「はい」
「“我らは持たざる者として始まった”だ。僕も……父上に、耳にタコができるほど聞かされたのさ」
曰く、この不毛の地を最初に切り拓いたのは、栄光ある英雄でも高潔な騎士でもなかったそうな。
故郷を失い、どうにか生き延びるしかなかった――難民たちなのだ、と。
でも、そんな惨めさが、いつしかヤバマーズの意地になり矜持となった。
「それを言われてしまえば……領民たちも“同じことをすれば認めてやる”くらいには、態度を軟化させざるを得ないよな」
「……」
『そんな領民たちに、一族は生かされてきたのだ』
それが父の口癖だった。
生かしてきたのではない、生かされてきたのだ、と。
――むぎゅ。
唐突な感触に、思考が霧散した。
「リュ、リュス!?」
なんと彼女は躊躇なく、僕の膝へと腰を下ろしてきたのだ。
慌てる僕の首に腕を回し、リュスはくすくすと笑う。
「仕事中、仕事中だってば!?」
「いいではありませんか。……難しいお話は、もう終わりましたもの」
「そういう問題じゃなく……!?」
僕の邪念がぁあああっ!?
「お父君のお話をされる時、アスタ様があまりに寂しそうだったもので、つい。……わたくし、我慢ができませんでした」
「そう、か。……そんな顔をしていたか」
いつもと少しだけ違う、執事服の硬質な生地越しに伝わる体温。
「“なりふり構わず、君を頼りにしてしまう”のでしょう? アスタ様も、もっとわたくしに甘えて欲しいです」
「そんなの。……一度甘えたら、二度と立てなくなるんじゃないかって」
「その時は……わたくしが、あなた様を背負いますよ」
今まさに、崩れてしまいそうになり……思わず、黙り込む。
すると、光を失った
リュスは“僕の弱さ”を、至上の宝物であるかのように慈しむ。
「あなた様が日頃、どれほど心を砕かれているか。わたくしがよく知っています。……ですから少しだけでも、わたくしに甘えてくださいませんか?」
絡みつく細い指先、首筋をなでる吐息。
執事服のクールな外見と、向けられる熱い情愛のギャップ。
僕の理性を、じわじわと削り取っていく。
「ねえ、アスタ様。お父君の教えがあったから、アスタ様は難民たちをお助けになったのですか?」
「……別に、それだけじゃないが」
「ならば、なぜお助けになったのです。利益のため? それとも同情したから?」
リュスは僕の本質を、一滴も残さず飲み干そうとしてくる。
「……ただの腰抜けだったら、助けなかったかもな」
人手が欲しかった、それもきちんとある。
別に、慈善事業のつもりはない。
「領主に見捨てられたと彼らは思った……それでも、魔物に立ち向かって生きようとしたんだ。そんな奴らなら、この地でやっていけるかもしれないだろ」
「ですが彼らは失敗し、死にかけていましたよ」
「確かにな。でも、負けた人間に価値はないのか?」
負けた人間は、劣ってる。神に選ばれなかった。
僕は、そんな風に考えたくなかった。
「必死に頑張っても、上手くいかない時なんて誰にでもあるだろ」
「……頑張っても、上手くいかない時」
突如、リュスは僕の肩へ、コテンと顎を預けた。
彼女の黒髪が、僕の頬をくすぐる。
……耳元に吐息が当たり、切なげな声が響いた。
「お優しいですね、アスタ様は」
「そんなことは――」
「また、わたくしに気を遣っていらっしゃるのでしょう?」
見抜かれた。
僕があえて触れたくなかったこと。
そう、僕はどこかで、難民たちとリュスの境遇を重ね合わせている。
負けた人間が、愚かで間違った存在であるという
政治に敗れ、追放された“公爵令嬢リュシエンヌ”は救う価値のない人だったということになる。
絶対に、そんなことは認められない。
「その、優しくて甘いところ。……わたくし、ちょっとだけ“嫌”です」
「……ごめん」
謝りながらも、僕はその細い腰に腕を回す。
「……でも、“嫌い”とは、申し上げておりませんよ」
マダム・リュスとしての仮面は、とろりと溶けて崩れている。
震える声が、あまりに愛おしかった。
暫し、互いの温もりを感じ合った。
「……ヤバマーズの当主はどうだったのですか?」
「ん? どういう意味だ?」
「ヤバマーズ家のルーツです。まさか、居場所を失った難民ではないのでしょう?」
問われた僕は、椅子に深く背をもたれる。
「初代はな……王様とカードで賭けをしたんだよ」
「賭け、ですか?」
「ああ。そこで、あろうことかイカサマをしようとしてバレて……その罰に、こんな不毛の地を押し付けられた。そんなペテン子爵だよ。ヤバマーズらしい、バカな始まり方だと思うだろ?」
「……王とカードを」
リュスは、急に身体を離す。
引っかかりを覚えたように、目を細めた。
「アスタ様……
「え? あ、ああ……そう伝わっているが」
「それは――ずいぶんと仲がよろしかったのですね」
リュスの言葉に、僕は虚を突かれた。
初代と、当時の王の関係性?
「そう、なのかな。……どうだったんだろ」
「王はイカサマを見逃さず、けれど無礼だと首を刎ねるわけでなく……魔物を封じる任地に『
「まあ、そうだな。でも、損な命令だろ?」
「……確かに過酷な任地ではありますが、所領と使命を与えられたことに変わりはないのではありませんか? そのような訳ありの領民たちを束ね、“魔物から王家を守れ”と」
言われてみれば、変な話なのかな。
そんな考え方、一度もしたことがなかった。
ヤバマーズの系譜、不運の始まりでしかないと思っていたから。
すっかり、キリリとした表情に戻ったリュス。
彼女は僕の手をギュッと握り締めながら、切り出した。
「アスタ様。今すぐにとは参りませんが――」
「うん」
「ヤバマーズの歴史を、わたくしと一緒に紐解いていきませんか? 初代様が何を託されたのか。そして――サキオン様が、本当はどのような真実を背負っていたのかを」
それが、僕の新たな物語の始まり。
毒喰らい男爵としての……これまでの人生が、逆転するまでの。
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