さすがに、ヘイホーは気付くか。
こいつは、
てか、懐かしいな……リュシエンヌの、そのいかつい異名。
普通の令嬢につく、あま~い呼称じゃないもんなあ。
「……で、なぜそう思った?」
「前々から薄々と。ですが……オコトギ・マッケンジー氏をねじ伏せ、それから、ドラクロワ男爵を言い負かすあの姿……」
「面影があったか」
「はい。あの風格が、一介の聖職者にあるはずもありませんから」
そうか、やはり隠しきれるものじゃなかったか。
髪を黒く染め、瞳から光が失われ、どれほど粗末な衣を纏おうと。
昏く淀んだ影が、落ちていたとしても。
その高貴なる威光は、まごうことなき統治者のもの。
「気付いたなら仕方ない。だが、他言無用だ」
「では、やはりっ!?」
「ああ。……今、うちが抱えている秘密のなかでも最上級のものだ」
「まさか、ヤバマーズにおられたとは……しかし、なぜ
「知らん、聖王教会の都合だろう。理由なんて僕が聞きたいくらいだ」
「……他に、どなたがこの事実を?」
「僕以外ではロダン、オノレ……それだけだ。ジルにもまだ話していない」
「……左様ですか。しかし、屋敷の者も、領民たちも……あの方がただ者ではないことだけは、肌身で感じておりますよ」
ヘイホーの言葉に、苦笑するしかない。
不毛の地に咲く、あまりに場違いな大輪の薔薇。
それを無理やり、ヤバマーズの雑草のフリをさせる。まさに、僕の不手際だった。
「ま、そうだろうな。誰だって、おかしいと思うさ」
「しかし、まさか。男爵閣下が、あのリュシエンヌ様と恋仲だったとは……これは、内密にせねばなりませんね」
「――は? それは違う」
「えっ?」
なにを言っているんだ、こいつ。
「えっ、じゃないよ。滅多なことを言うな、畏れ多いだろ」
「ですが……毎晩のように、マダム・リュスは閣下の部屋へとお渡りになっているではありませんか」
「いや、変なこととかしてないから!?」
「屋敷の使用人の間では、あの方は閣下の
「いや、それは誤解なんだって!」
お渡り。
つまり、リュスが“夜伽を務めてるのではないか”と指摘されているってわけ。
確かに、ハグはしているよ。密着もむぎゅむぎゅしてる。
でも、そうじゃないんだ。
(世間から見たら、十分アウトかも知んないけどさぁっ! それでも、キスすらないからね、僕ら!)
しかし、ヘイホーは納得しない。
「ええっ……? あの見てられないくらいの距離感なのに?」
「距離感もなにも。……だいたい、僕はそんな世俗的な目で彼女を見ていないぞ?」
「……では、一体どのような対象なのですか?」
そんなもの決まっている。
僕は、胸を張って答えた。
「
「あこがれぇ……?」
ヘイホーが、本日一番の間抜けた声を上げた。
「そうだよ、
「と、尊いのはわかりますけど……」
「いや、お前はわかってない! 彼女がそこに在り、美しく凛としているだけで、僕は救われるんだ。恋愛などというドロドロとした欲望を向けるなんて、解釈違いも甚だしい!」
そう、僕はあくまで、彼女の活躍が見たい。幸せになって欲しい!
そんな一介の
力説する僕を、ヘイホーはなんとも言えない顔で見ている。
やれやれ、これがわからないなんて。
……まったく、本当にヘイホーはまだまだだな?
***
――ある夜。
廊下を歩くリュスの足取りは、どこか夢見心地で浮ついていた。
「……ふふ」
アスタを、これでもかとたっぷり甘やかし。
その体温を心ゆくまで貪る……そんな至福の一時を終え。
屋敷を抜ける空気は、火照った頬にはいささか冷たすぎた。
肌を介して感じていた切実な熱は、未だなおシャツの奥で燻っている。
「……でも、“もっとお役に立ちたい”とお伝えしましたのに。なかなか、頷いていただけないことも多いですね。もどかしいものです」
ふわりと唇から零れたのは、恋を知ったばかりの少女のような――そんな溜息。
だが、その微かに残る甘やかさを切り裂くように、声が響いた。
「随分と上機嫌だね、リュシエンヌ。それとも――“マダム・リュス”と呼ぶほうがお好みかな?」
曲がり角の影。
月光を背負い、礼装を崩した貴公子が一人。
オノレ・ド・ラプラスはコーヒーを揺らしながら、佇んでいた。
「オノレ様。……いささか、夜更かしが過ぎるのではなくて?」
「別に、遊んでいたわけじゃない。今まで働いていたのさ、君の“愛しの主人”の無茶ぶりのせいでね」
「どうでしょうか。わたくしを監視していたのではないですか」
「はは。――それもある」
リュスの声に、歓迎の色はまったくない。
しかし、それはオノレも同様だった。
「いやあ、どうにも悪友の身の上が心配でね。そうせざるを得ないんだよ」
「心配? ……あなたが、アスタ様を?」
「おっと心外だな。これでも俺は、友情に厚いつもりなんだ」
靴音を響かせて。
優雅にゆったりと……近づいていくオノレ。
「なにせ、君のような劇物が屋敷の鍵を握っているんだ。家主が無事かどうか、注意を払う義務が……俺にはある」
「信じられませんね、あなたが一族以外に興味があるだなんて。いざとなれば、ラプラス伯爵家の利益を最優先にするに決まっています」
「手厳しいね。でも、それはお互い様だ。――俺も、君のことが信じられない」
オノレの目が、スッと細められた。
そこにあるのは友愛でもなければ、同情でもない。
「君から見たら――アスタのやり方も、ヤバマーズの血も、法と秩序から外れた“間違い”だろ?
どんなに親しい相手でも、たとえ同じ派閥の者でも。
わずかでも不正があれば、断罪と告発を繰り返してきた“
「人間ってそう変わるもんじゃない。……俺はそう思ってる」
そんな公爵令嬢リュシエンヌへの、最大級の警戒。
オノレはさらに距離を詰め、彼女の首筋――先ほどアスタの吐息が触れていた部分を、不躾に一瞥した。
「それにしても驚きだ。まさか、王太子の婚約者だった君が、そんな
「……不愉快な言い草ですね。わたくしをここから排斥したいのですか?」
「いいや。正直なところ、判断に困っている」
「なぜ?」
「アスタは――確かに、君を大切に思っているから」
その名が出た途端。
リュスは小さく息を呑む。
「実は、彼を焚きつけたのは、この俺だって記憶もあるんだ。……大学にいた頃にね、覚えがある。だから、友人として責任はとらないとなぁ、って」
「あなたが……アスタ様を焚きつけた?」
「そう。君が消えてからのアスタは……ちょっと見ていられないほどだったから」
オノレはひどく不本意そうにしながらも、微妙な心境を吐露した。
「そりゃあ、色々なリスクを天秤に掛ければ、君を綺麗さっぱり消した方が、アスタのためになる気がしてならない。……はあ、どうしてくれようかな」
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