屋敷へと帰還し、ようやく一息ついた執務室。
だが、漂っているのは安堵ではなく、淹れたてのコーヒーが放つ芳醇な香りと――僕の正気を疑う、緊張感だった。
投影された、謎の幾何学模様が明滅。
オノレは眉間にしわを寄せたまま、特殊な解析用眼鏡を外して一息ついた。
「……なるほど。脈拍、瞳孔の反応、脳波も正常。魔素の異常蓄積による錯乱かと思ったけれど、生体反応は問題ないね」
「おいおい、ガチの診察じゃん」
「そりゃ、診察されてしかるべきだと思うけど? なんらかの精神干渉を受けている可能性も否定できないし、病気の兆候かもしれない」
「病気? 例えばどんなさ?」
「脳の損傷。君、あちこち派手にぶつけてるだろ」
「まあ……否定はできないな」
なんで、お前に診察なんて出来るんだよ。
そうは思ったが――。
「……そういえばお前、精神魔術もかじってるんだっけか」
「基礎だけね、あくまで魔導貴族の嗜みレベルだよ」
「そんな嗜みあってたまるか」
その上、毒物への対処も一級品。
逆にこいつ、なにが出来ないんだ? 天は二物も三物も、この容姿端麗な天才に与えすぎだと思う。
「で、つまり……アスタ。君はそこに、時代遅れのコートを着た不審者が見える。そう本気で主張するわけだね?」
「そうだ」
僕が、指し示す先。
オノレは、ふぃっと顔を向けた。
「お前の目線の先に、ドッカリ居座っているぞ。自分の名すら思い出せないくせに、態度だけは一丁前な
「『
そこには、ふてぶてしく足を組む例の男。
僕は、こいつを
古代哲学における、
俗に、幽霊を指す言葉でもあるが……そんなオカルト解釈は、後世の人間が作ったくだらない後付けである。
しかし、オノレはどこまでも素っ気ない。
「で、アスタ。まさか頭が変異したのかい?」
「バカにすんなよ!?」
「いや、今回は本気で心配してる。……極度のストレスが原因かな? あ、魔物食が原因かな?」
「それはそれで傷つくんだよなぁ!? 僕も、この現象を冷静に分析しようとしてるだろ?」
「弱っていても、責任感や自制心が働くんだな。……と、見えなくもない」
オノレは、哀れみを強めるばかり。不本意すぎる。
「ふーむ。深層心理の具現化、か……?」
「僕は、こんないけ好かない男を
「……改めて聞くけど、その不審者の特徴は?」
「顔は無駄に整ってるけど、とにかく態度がデカくて傲慢な奴だ」
「ふんふん?」
「で、どんな絶望が相手でも、最後には自分が勝つ! そう言わんばかりの、自信満々な笑みを絶えず浮かべている。そんな不愉快極まりない野郎だよ」
「よし、結論が出たぞ」
「おおっ! さすがは、オノレだな!」
オノレは、青い前髪を指でいじりながら述べた。
「――まさしく、君の特徴じゃん。自分自身を具現化しちゃってるね」
「僕じゃねえよッ!?」
「そうだね、君は顔が良くない。あ、つまり美化してるのか。……ナルシシズムの末期症状かな?」
「ぶっ飛ばすぞ、マジで!!?」
すると漂う男が、クツクツと喉を鳴らした。
「その青髪の若造……オノレと言ったか。なかなか思考の筋は悪くない。
「お前、存在を真っ向から否定されてるくせに、なんでそんな嬉しそうなんだよ」
「真理とは、時に残酷だ。
「黙れ、変態っ! こいつ、さてはややこしい輩だなっ!?」
僕が毒気づくと、オノレがビクリと肩を跳ねさせた。
「……今、誰もいない空間に向かって“黙れ、変態”と叫んだね。うん、この興奮状態……もうダメそうだな。アスタ、寝たほうがいい。睡眠薬を処方しよう」
「オノレ! 信じてくれよ、僕がこれまで虚言を振りまいたことがあったか!?」
「君は、ハッタリと称した嘘をまき散らす常習犯だろう。呼吸するように、人を担ぐじゃないか」
「確かにそうでした、それはすまん! でも、今は信じてくれ!(素直)」
「……別に、虚言を疑ってるわけでもないんだけどなあ」
僕が必死な形相で謝ると、わずかにオノレは身を引いた。
熱々のコーヒーを啜りつつ、考えこみ始める。
「なら仮に、それが精神症状じゃないとしよう……こういう仮説はどうかな?」
「仮説? どんな?」
「先日の戦いで、君は『鉄仮面のヤン』に左手を砕かれた」
「……ああ」
「そして今、異能の源であるウロコにはヒビが入り……自己修復しようとしている。その真っ最中だよね」
「そうだな。ズキズキ痛むが、だいぶ直ってはきている」
「魔素は、情報を蓄積する性質があると言われている。その情報の海に漂う、歴史の
「……ん? どういう、ことだ?」
オノレの立てた仮説は、いささか僕には難し過ぎた。
「ようするに、君の異能と脳が作用して、勝手につなぎ合わせて作り出した錯覚ってことだよ。大昔の誰かの記憶……その
「魔素が生んだ……錯覚」
「まあ、そういうこともありえるのかなって」
あまりに論理的で……そして、救いがない仮説。
僕の異能が、たまたま場に残っていた古い記憶に共鳴して起きた
となれば、この男、
結論は、存在しない『無』から変わらなかった。
より説得力が……増しただけ。
「興味深い仮説だ。……
しかし、
自分の存在が“歴史の
「おい、野暮ったいの」
「……その悪口をやめろ、アスタって呼べ」
「そこの青髪、オノレとやらに伝えてやれ。せっかくだ。錯覚にしては、有益なことを教授してやる」
「……なにをだよ」
僕は促されて、しぶしぶ通訳を始める。
「あのさ、オノレ。その
「なんだい、アスタ。まさか俺にかい?」
「そうだ、いいから聞け。……クラーケンが噴出した水流だが――」
「いきなり、何の話かと思えば……」
「――アレは本来、攻撃用途じゃないらしい」
呆れたように、コーヒーを啜っていたオノレだが。
さすがに、その動きを止めた。
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