そんなドタバタ劇について。
顛末をリュスに伝えてみれば、その美貌に浮かんだのは困惑よりも……あたたかい安堵の微笑みだった。
「では、アスタ様が虚空に話しかけていらしたのは、幻覚症状などではなく、本当に対話可能な“何者か”が、そこにいらっしゃるのですね……?」
「たぶん、な。……だって、僕が知りようもない知識をスラスラ話してくるし」
「――ああ、本当に。本当に良かったです。アスタ様の御身に、取り返しがつかない大事が起きたわけではなかったのですね」
陰りのある、
そこに確かな喜びを宿しながら、ふわりと微笑むリュス。
え、なに。この包み込むような優しさは? まさか慈愛の女神かな?
いや、知ってたけどな。僕にとっては、出会った日からずっと特別な女神様だったからな!
(誰もいない空間に叫ぶ僕を見て、軽蔑するどころか本気で心配してくれてたなんて……ああもう、尊すぎる。もう一生、傍にいて欲しいなあ)
晩年、父上が狂気に沈んでいったからこそ、痛いほどよくわかる。
発狂した姿を見せても、見捨てず寄り添い続けてくれる。
それがどれほど尊く、素晴らしい価値があるのかを。
(まあ、僕にはそんな未来は無理だろうけどな。身の程知らずにも程がある。でも、夢を見るだけならタダだからな……)
だが、いつまでも感傷に浸っている暇はない。
クラーケンを討伐するための知恵が揃ったとしても、実行に必要なのは手駒だ。
「先の戦いで、
「現在、ヤバマーズでは開拓の働き手だけでなく、戦闘員も人手不足ですからね」
「ああ。せっかく、キャラバンが通るようになって領地は活気づき始めている。だからこそ……交易路の安全確保が最優先になっちゃったんだよなあ」
まさに、嬉しい悲鳴。
だが、いかんせん我が領地は悪路が多い上に、獰猛な魔物が飛び出す危険地帯。
護衛や巡回に、人手を割かざるをえない。
「前線拠点の警備すらも、人員がギリギリ。本当に皆、忙しい状態ですから……」
「その上で、より本格的なクラーケン討伐作戦を立てるとなると……頭数が限られるな」
「……どこから手を付けますか? アスタ様」
「そう、だなぁ」
僕は、机に突っ伏した状態で考えた。
一見、手詰まり。
けれど、こんな状況ですら判断を下すのが、上に立つ者の仕事。
「……せめて、湖周辺の地図が欲しい。どうにかして地形の利だけでも活かさないと、検討しようがない」
机にぐったりしたままぼやくと、
「なんだ、地図がないのか? 貴様が統治する地だろうに……管理不届きだな」
「悪かったな。なぜかは知らんが、ごっそり遺失してるんだよ。昔の資料や地図もなにもかもがな」
「なぜか、だと?」
「正確な理由はわからないけどさ。たぶん、ヤバマーズの爵位が降格した時の、ドタバタが原因だと思うんだ。あの騒ぎで、王都から兵士まで押し寄せて来たと言うから……持ち去られたのか、燃やされたのか」
「爵位が降格……それはまた、珍妙極まりない話だな」
「そも爵位とは、王から叙爵されるか、罪により剥奪されるものであって。
「いや、言葉の綾だってば」
「言葉の綾?」
「ああ。大昔にうちの先祖がとんでもないスキャンダルをやらかしてさ、大事な領地が没収されたってわけ」
そう、
爵位が
まあ、よくある話だ。
かつてヤバマーズ家は、広大で豊かな子爵領と、僻地の男爵領の両方を有していた。
貴族は普通、保有する複数の
だから、昔の当主は誇らしげに『ヤバマーズ子爵』と自称した。
「で、残ったのがこの不毛な男爵領ってだけだよ。でも、“爵位が降格した”の方が、世間にはよっぽどわかりやすいだろ? だから、そう言われてんの」
「……ふむ。ヤバマーズの領地が没収された、か」
何事か、深く考えこむ素振りを見せる
いつもの不敵な笑みが……ふっと消えた。
「おい。もしかして……なにか思い出したか?」
「さあな。だが、その“遺失した情報”を探したいのならば……貴様は地元の教会とはどの程度、懇意にしている?」
「教会? ……なんだよ、急に。どうして、そんなことを聞く」
「少しは頭を使え。もし、なんらかの騒動で、屋敷に強制捜索が入るとする――当時の領主が選ぶ、一番の隠し処はどこだ?」
「……一番の隠し処」
「必ず荒らされるであろう屋敷、その隠し部屋に潜ませるか? 没収されるかもしれない、その私有地の何処かに埋めるか? ……
「え? ――あっ!?」
その発想は、まったくなかった。
目から鱗が落ちるような思いで、僕はそのままリュスへと説明する。
すると、リュスもまた、ハッとしたように深く頷いた。
「確かに、それは盲点でした……王命を帯びた兵や役人であっても、聖王教会の敷地内に踏み込んでの強制捜査は行えません。宗教上の禁忌に触れますから、書類一枚すら手出しできませんわ」
「でもさ、リュス。貴女は以前、うちの教会を調査したんじゃなかったか……?」
「当時のわたくしは、外部から来た“中央側の調査員”という余所者でした。正式な聖王教会の人間であっても、開示はしてくれないでしょう」
「どうして? 同じ教会の人間なのに?」
「信徒の秘密を守ることは、教会における神聖な役目だからです。懺悔を漏らす聖職者がありえぬように。……ましてや、相手が代々の墓を預かる領主が相手ならばなおさら」
「いや、だが。……相手は王都から派遣された者たちだぞ?」
「王よりも、権威は神が上ですよ。そして、信徒の秘密を守るのは、神への誓い。……神の法は誰にも曲げられません。それこそが
リュスは僕をまっすぐ見つめて、にっこりと笑う。
麗しい唇が、三日月を形作った。
「むしろ、アスタ様こそ、なにかお心当たりはないのですか?」
「いや、僕だって……ちょっと前に、父の急死で家督を継いだばかりの若輩者だ。本当になにも知らないんだ」
「……そうですか。となると――」
「でも、待ってくれ。……マグダリアとは幼い頃からの付き合いだが、そんな大層な秘密があるとは教えてくれなかったぞ」
シスター・マグダリア。あの人はいつだって穏やかに、僕の成長を見守ってくれていた。
時には、母のように。時には、年の離れた姉のように。
……そんな日々の裏に、僕への隠し事なんて本当にあったのだろうか?
「いいえ、アスタ様。仮に、そのような『一族の遺産』が教会に眠っているとして……シスター・マグダリアから話を切り出してくるとは、到底考えにくいことなのです」
かつて、元公爵令嬢という最上級の高みにいたからこそ。
陰謀と策略の渦巻く、貴族社会にいたからこそ。
リュスは強い確信を以て、断言する。
「地元教会による機密管理とは、それほどまでに強固なものなのですよ、アスタ様。そう、下手をすれば――総大司教猊下が直に問い詰めたとしても、沈黙を貫きかねないほどに」
つまり、僕が正当なるヤバマーズ現当主であったとしても。
自ら門を叩き、確信を以て“あれを出してくれ”と命じない限りは、秘密を明かすはずがないのだと言う。
(すべての謎を解く鍵が……あの寂れた古教会にあるかもしれない?)
その予感に思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。
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