執務室に、衝撃が走った。
「えっ、そいつはどういうことなんですかあっ?!」
「湖が氾濫? 村が押し流されるったぁ穏やかじゃねえな、マダム・リュス」
ヤバい。
もしかしなくても、これって例のアレか!?
(この取り乱し方は、発作なんかじゃないぞ! リュスが持つ、聖王教会すら知らない不思議な力――『回帰』だ!)
死をトリガーに時間をやり直すその異能が、今まさに彼女の正気を削り取っている。
しかし、その異能の存在は秘密にしなければならなかった。
「落ち着け、リュス! 今は、他の人もいるから――」
僕は必死に現実に引き戻そうとする。
だが、そこに映っているのは今ではない“どこか”。
見ている相手も、僕であって“今の僕”ではない。
「わたくし、間に合いませんでした。わたくしが、わたくしが愚かだったから、また、あなた様を死なせてしまった……っ」
「生きてる。生きてるから、ほらっ! ちゃんと温かいだろ?」
「冷たい水の底へ、わたくしを庇って――ああっ!?」
リュスだけが体験した、凄惨な終わりの情景。
「ごめんなさい、お役に立てなくてごめんなさい……っ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
え、待って。だいぶ正気が削れてるんだけど。
大切な人の悲愴な有様に、僕まで心が痛む。そんな時だった。
「やれやれ。……はいはい、みんな空気を読もうね」
ふらりと立ち上がった、オノレ。
どこか軽薄な笑みを浮かべ、テキパキとヘイホーと
「見ての通り、男爵様は
「えっ、ああ……これって、そういうやつなんですか……?」
「あ、だから他の目があるとか気にしてんのか」
ちがーう!! そういうやつじゃない!!
「す、すごい変わったイチャつき方ですねぇ。あは、ははは、じゃボクは失礼しますっ!」
「昼間っからすげえなあ。……じゃ、あっしもこれで」
ヘイホーは顔を赤らめ、眼帯の
そのまま退出していく、一同。
( オノレのやつ、助かったけどさあ。さすがに機転の利かせ方が酷くないか? てか、お前ら、なんであっさりそれで誤魔化されてんだよ!)
バタン、と扉が閉まる。
部屋に残されたのは、震えるリュスだけだ。
「ああ、もうっ! リュス、聞け!」
ぎゅっと、力いっぱい強く抱きしめる。
執事服の堅い生地越しでも分かる、その華奢な身体つき。
「もう、大丈夫だ。僕がついてる」
「……アスタ、様……」
「そのまま、僕の心臓の鼓動を聞いてごらん」
「……心臓の音」
「そうだ、耳を澄ませて。――僕と君は、今ここにいる」
リュスは鼻先を擦り付けるようにして、深く、苦しげに息を吸った。
「アスタ様の、匂いがします……」
「匂い?」
「生きて……いらっしゃる。本当に……アスタ様……」
え、それって大丈夫な匂い?
いや、本人が嫌じゃないならいいんだけどさ。
指先が必死にしがみ付いてくるので、背中を撫でてあげた。
「あたたかい……冷たい、水の底じゃありません、ね」
「そうだよ、ここは執務室だ。えらいね、よく頑張ったね」
なにかあったかはわからない。
僕にわかるのは、リュスが苦しみを耐え抜いたことだけ。だから、ひたすらに肯定し続けた。
リュスは顔を埋めたまま、小さく呼吸を整えようと必死になっている。
「焦らないで、ゆっくりでいい。落ち着くまで、僕はいつまでもこうしていよう」
すると、過呼吸気味だった荒々しさが、徐々に規則正しいリズムを取り戻していった。
「申し訳……ございません……」
「なにが?」
「また、ご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんて思ったことないよ、僕は貴女の役に立てるのが嬉しい」
リュスはゆっくりと顔を上げた。
昏く淀んだ
僕は微笑みかけて、親指でその頬の涙を拭った。
「その、お話が」
「だから、焦らなくていいってば」
「……いえ、お伝えしたく」
「なら、ゆっくりな」
こくん、とリュスは頷いた。
「アスタ様は……再び、クラーケンを討伐しようとされて。追い詰めたものの逃がしてしまいました」
「……そうか」
「すると、さらに湖から魚人たちが現れ……」
「はあ? ぎょ、魚人……?」
「交戦の末、余力もなくなり、もはや近づくことも困難となりました」
「まあ、そんな状況になったら、攻略を見送るだろうな?」
「そうして、様子を見ている間に、突如として湖があふれ出したのです。逃げ場のない濁流がなにもかもを押し流して……」
おいおい、なんていうか……想像のナナメ上を飛んで来たな。
魔人が綿毛を降らし、盗賊が徒党を組んだかと思えば、今度はクラーケンと半魚人の軍勢、洪水パニックまで添えた水難フルコース?
(ヤバマーズに降りかかる災難は、いつだって僕の想像力とキャパを、全力でブチ抜いてきやがる)
で、リュスはあえて隠してるが……この憔悴具合。
その戦いで、僕が何度か死んでそうだな。きっと、不甲斐ないところを見せたに違いない。
思わず自分の情けなさに、歯を食いしばる。
「……アスタ様。わたくし、もう大丈夫です。ですから、その」
「ん? ああ、悪い。つい力が入りすぎた」
名残惜しさを感じながらも、そのぬくもりを手放す。
リュスは顔を伏せて、背中を向けると乱れた髪を整えていた。
指先は……まだ幽かに震えていた。
「で、どれくらい急ぎだ? 期限は?」
「……洪水が起きたのは、ええと。ううっ……!?」
「え、おい。本当に大丈夫か?」
リュスは、日付感覚がなくなっているらしい。精神が不安定になりかけたので、頭を撫でながら一緒に暦を確認していく。
「確か、五日後の昼過ぎ……だと思います」
なるほど。ゆっくりしてられるほどでもないが、焦るべきでもない。
綿毛の魔人エグレットの時は、三日後だったからそれより猶予はあるな。
(いや、我ながらマヒしてるだろ。滅亡を告げられたことには変わりないぞ)
変に慣れてしまった自分に、呆れる。
「とりあえず、原因を探るか。自然災害ならどうしようもない、土地を捨てて避難させるしかない、が……」
「未来のアスタ様は、湖の調査を第一にしました。そのためにクラーケンをお討ちになる、と」
「まあ、怪しすぎるもんな」
そもそも避難させたところで、土地がダメになったら……さすがに餓死者が出る。
防げるものなら、防ぎたい。
だけど、この状況を一番、分析出来そうな奴ってこの場合さぁ。たぶん、リュスじゃねえよな。
「……はあ」
地下の
僕に失望しちゃったのかな、サキオン。「大っ嫌いだ」なんて言っちゃったしな。
(いや、まあ。……正直、ムカつく奴には違いないんだが)
頭が冷えると、色々と思うところが出来てしまったのだ。
僕も、あんまりアイツのこと言えないじゃんかって。
「んー。ひとまず、あれか」
僕は扉に歩み寄り、勢いよく開け放った。
「おい、自称スパイのオノレ! 隠れてないでさっさと戻ってこい! お前の知恵が必要なんだ!」
すると廊下の影から、「やれやれ」と肩をすくめながら誰かが現れる。
正体は、もちろんオノレだ。しっかり、聞き耳を澄ませていたらしい。
「早かったね、アスタ。……え、ちゃんと女性を満足させてあげられてる?」
「ジルみたいにふざけたこと抜かすな、ぶっ飛ばすぞ」
「まあ、俺をぶっ飛ばしたところで、明日には君の評判が香ばしいことになってるんだろうけどね……」
「ふざけんな、お前の誤魔化し方のせいだっつの!!」
なんでこいつ、ちょっと余裕あり気なんだよ!?
このままだと、ヤバマーズが滅びるんだっつの!
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