まだ、
アスタが撫でてくれていた感触。その名残。
微かな風が、頬を撫でた。そうして、呼び覚ました――儚い錯覚。
「ん……あ、アスタ……様……」
リュシエンヌ――リュスは
ぼやけた視界。
雑然と積まれた帳簿の山、年季の入ったデスク。
そして――その華奢な身体に掛けられた、くたびれた男物の外套。
「ああ……わたくし、いつの間に」
記憶を手繰り寄せる。
ソファーから身を起こすものの、身体が妙に気だるい。
ここ数日の無理、回帰から戻った心労。
ヤバマーズ男爵領に差し迫る、危機への焦燥。
そうして、限界を迎えていた自分に、「どうか僕のために休んでくれ」と優しく撫でられて、深い眠りへと
アスタが好んで煎じる、野草茶の香りが仄かに残る。
「アスタ様……」
溢れ出す、愛おしさ。
思わず外套をぎゅっと抱きしめ、幸せな余韻を噛みしめる。
苦しい日々を忘れさせてくれるのは、いつも彼。
奇跡の再会を果たす前の、死と裏切りに満ちた
そう、数多の魔物を討ち果たすため放浪した。
積み重ねてしまった経験は――絶対に、口にしたくない血塗られた秘密。
「……今は、どちらにいらっしゃるのでしょう?」
当然、愛しの主人の姿はない。
穏やかだったはずの静けさが、冷たい蛇のように這い上がる。
心臓が、不吉なリズムを刻み始めた。何度も、何度も、心をズタズタにしてきた予感。
「アスタ様……どこにいらっしゃるのですか」
リュスは執事服の乱れも直さず、廊下へと飛び出した。
「あ、マダム・リュス! ちょうど良かった。探したんですよ」
鉢合わせたのは、事務官のヘイホー。
帳簿や冊子を抱えて、立ちふさがる。
「実はですね、急ぎお客様の件でご相談がありまして――」
「どきなさい、ヘイホー」
「え……?」
「アスタ様は……今どこにいるの?」
有無を言わせぬ語気。
「えっ? 男爵閣下なら、森の……『
「そんなこと、お前が対応しなさいッ!!」
一喝。ヘイホーは「ひぃっ!?」と悲鳴を上げて飛び退き、荷物を床にぶちまけた。
リュスは一瞥すらせず、オノレの私室へと駆け込む。
「オノレ様、アスタ様が向かわれた先の心当たりを、今すぐ教えてください!」
だが、ヤバマーズの森は、その必死さを嘲笑う。
無理やりにでも兵をかき集め、自分は未来を予知したのだと言い張った。
本当は、ただ愛する者を失う不安に駆られた。そんな暴走に過ぎなかったが。
「リュシエンヌ。そんなに焦ったところで、上手く行かないと思うんだけどね」
「あなた様には……あなた様には、おわかりにはなりませんよ! わたくしがどれだけ……あの御方をお慕いし、想っているかなど……っ!」
「へえ、そうかい。……まあ、頼まれた以上は手は貸すけどね」
オノレはぼやいた。
「まさか俺は、ダメなケースを引いたのか……はあ、これは運がないね」
彼の言葉にはどういうわけか、既に諦めが混じっていた。
進んだ兵たちは、
「うぎゃぁああっ!?」
哀れ、兵がひとり。
湿地の影から飛び出すカメの顎に、足を食いちぎられた。
さらには、木の上から落ちるスライムに、顔面を覆われ窒息する者まで現れる。
「どうして……? どうしてなのッ!?」
アスタがいた時には、進めたはずの道のりが酷く険しい。
「邪魔よッ、どきなさいッ!!」
恢復聖剣レストラシオンが、化けカエルの胴体を真っ二つ。
さらに、聖騎士ロダンの大剣が群れを粉砕する。
だが、倒せば倒すほど、血の匂いに誘われてさらなる魔物が集ってくる。
「クソッ、キリがない! 吾輩たちが近づくほど、魔物の密度が増している!」
「止まらないで! アスタ様が、きっと待っているの!」
また、どこかから悲鳴が聞こえた。
圧倒的なはずの戦力なのに、犠牲だけがどんどん積み重なる。
「なんだ、ありゃあ……うわ、やめ――っ!?」
兵士の絶叫もむなしく、水面の死神が串刺しにした。
あまりに巨大なアメンボが針を穿ったのだ。溶解液を注入され、ドロドロに溶かされた内臓が吸い出されていく。
あまりにも甚大な被害に、進軍は一時断念せざるを得なかった。
一日が過ぎ、二日が過ぎていく。
本来なら数時間でたどり着くはずの距離が、果てしなく遠い。
満身創痍。
リュスたちがダムに辿り着いたのは、三日目のことだった。
「信じられない、これは古代エルフが残した遺跡か? 巨大なダムに見えるけど……」
「そんなことより、アスタ様はどこにいらっしゃるの!?」
広がるのは、激しい戦闘の痕跡。
無惨に壊れた蒸気銃。引きちぎられたボウガン。ひしゃげたジルの工具。そして、散乱する魚の鱗。
だが、どれだけ見渡しても、生きた人間どころか、死体すらも存在しない。
「アスタ様! ジルっ!? ……いない。どこにも……どこにもいないじゃないっ!!」
返って来るのは、ゴォォォと鳴り響く落水音ばかり。
考えこむ、オノレ。
「このダムはまさか……巨大な魔導装置なのか? どこかへ、エネルギーを送り込むための? これから起きる災厄の手がかり……?」
「それならば、もしかしてアスタ様はこの内部にいらっしゃるのではありませんか?」
「リュシエンヌ、落ち着くんだ。……だけど、侵入する入り口なんてどこにも見当たらないよ」
オノレの言う通りだった。
いくら探し続けても、見つけられない。
次第に正気を失いかけたリュスは、聖剣を高く振り上げた。
「どきなさい、わたくしが壁を斬ります!」
「無茶だ、待つのだッ! リュス!」
聖騎士ロダンの制止を振り切り、体内の
眩い光を放つ刃を、分厚いコンクリートへと叩きつけるっ!
――ガキィィィィィンッッ!!!
「あ、が……っ!? ……あ゛っ……あ゛ぁぁぁあっ!」
衝撃。だが、不朽の石壁は、傷一つ負わない。
代わりに手首がメキリッと音を立て、あらぬ方向へと折れ曲がった。
「まだ……まだ、わたくしは……ッ!!」
「リュス、無茶だ! 手を引くのだ!」
「離してっ、ロダン! 開きなさいよ、この忌々しい壁をッ!! わたくしから、わたくしからあの人を奪うなぁぁああッ!」
皮膚の下で、折れた手首の骨が無理やり繋ぎ合わされる。
だが、その驚異的な回復が追いつかないほどの執念で、リュスは何度も壁を剣で殴り、蹴り、絶叫した。
――パシンッ!
ついに見かねたオノレが、その頬を強く叩いた。
「アスタはいないっ! ……ここに留まっても、君が壊れるだけだ。一度退くよ、無駄な消耗はやめよう」
「嫌です! あの人が、もしかしたらこの奥に――っ!」
だが、無情にも。
湖底から巨大な触手が――海魔クラーケンの巨躯が、水面を割って現れた。
絶体絶命の危機。
リュスたちは血を吐く思いで、命からがら撤退を余儀なくされた。
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