ヤバマーズ ~毒喰らい男爵の人生逆転劇~   作:裃 左右

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第179話 よくある破滅ケース。あの人がいない。(後半)

 ――四日目、崩壊は加速する。

 雨など一滴も降っていないというのに、湖は水位を跳ね上げていく。

 青々と茂っていた森の木々が、水に飲まれ始めている。

 

 領民は、まだ異常を認識していない。認識した頃には遅いのだ。

 

 迫る危機。

 しかし、彼女たちをまとめられる者はどこにもいない。

 

 ヤバマーズ、ラプラス、マクスウェルの三家同盟も、中心人物が二人欠けたことによって、成立しなくなりつつある。

 

 老執事ゲロハルトが、杖を突きながら声を絞り出す。

 

「リュス、もう限界ですぞ。……領民を率い、高台へと避難させねばなりませぬ」

 

 かつての覇気は見る影もなく、背は痛ましいほどに丸まっていた。

 しかし、リュスは首を振る。

 

「ダメ、です。今、屋敷を捨ててしまえば、アスタ様の帰る場所がなくなってしまうではありませんか……」

「これこそが若様の御命令です。まさか、蔑ろにするおつもりか?」

「……あなたへの命令はそうなのでしょう。ですが、わたくしは違います」

 

 取りつく島もない。

 結局、リュスは誰の言葉にも耳を貸さなくなった。

 

「わたくしは、アスタ様を探しに行きます。……どこにいらっしゃるかさえわかれば、きっと……解決します」

「リュシエンヌ、冷静になるんだ。君が命を落とすことを、アスタが望むと思うのかい!?」

 

 オノレが声を荒らげ、肩を掴んで揺さぶった。

 

「……やめて。あの人を失って生き永らえて、それがなんだと言うの? そんな未来に価値なんてないわ」

「俺が――俺がなんとかするっ! 君が君らしく、輝く場所で生きられるように……! それが、俺が彼に託された願いだからっ!」

「……なんとかする? ふふ……」

 

 リュスの唇から、乾いた笑みが漏れる。

 

「面白いことを仰るのですね、オノレ様。わたくしたちは、結局……なにも為しえなかったというのに? アスタ様とは違って」

 

 オノレは、目を見開く。

 彼女を繋ぎ止める言葉など、どこにも残されていなかった。

 

 暗渠(あんきょ)の瞳は、いまや底なしの虚無に沈み。

 ただ一点、愛するアスタが消えた湖の方角だけを、じっと見つめていた。

 

 そして、ただ一人。

 

「吾輩も共に行こう、リュス。……ああ、男爵は無事に違いないとも」

 

 聖騎士ロダンだけが、彼女に同行すると決める。

 それが彼にとっての相応しい、最期の在り方だった。

 

 ……そして、五日目。

 結局、残された者たちの意志はバラバラのまま、ひとつにはならなかった。

 それぞれが交わらぬまま、それぞれの立場で足掻いただけだった。

 

 ついに、正午過ぎ。

 湖から溢れ出した濁流は、ヤバマーズのすべてを飲み込んでいく。

 

 家々が砕け、叫びが水底に消える中。

 波に乗って現れたのは醜悪な魚人の軍勢だ。彼らは逃げ惑う人々を無慈悲に刈り取り、蹂躙していく。

 

「アスタ、様……?」

 

 無惨に沈みゆく世界に、残り続けたリュスは……“それ”を見た。

 

 人の世を蹂躙し、殺戮を繰り広げる不気味な軍勢。

 その頂点に立つ、魚人の王。

 

 ――その怪物は見覚えのある、禍々しい黒いウロコに覆われていた。

 

 リュスには、一目でわかった。

 その異形こそが、愛する人(アスタ)の変わり果てた姿だと。

 

「……見つけましたわ、確かに。次は……次こそは、絶対に」

 

 リュスは、狂おしいほどの悦びに身を震わせながら。

 迷うことなく自ら首筋に、聖剣の刃を押し当てる。

 

 ドクドクと頸動脈を流れる、かつて救われた熱い血潮を感じながら。

 

「――迫り来る地獄すら、追い越してみせますわ」

 

 その動作は、痛々しいほどに手慣れた(・・・・)ものだった。

 これまでも、いつだってこの最も確実な方法で“過去”へ舞い戻っていたから。

 

 ――ブッシャアァアアッ!

 

 思い切り腕を引けば、熱さが吹き出す。

 視界が赤に染まる。

 

 再生は……機能しなかった。

 

(ああ、たとえ記憶がどれほど混濁しようとも。……この宿る決意だけは、どうか忘れることがありませんように)

 

 薄れゆく意識の淵。

 そう願いながら――世界が、緩やかに反転する。

 

 

***

 

 

「はっ、……ぁ、……く、はぁっ!!」

 

 リュスは、ソファから跳ね起きた。

 すぐさま、喉を狂ったように手繰り寄せる。指先が触れたのは弾力のある、傷一つない白磁の柔肌。

 

「生きて、る……?」

 

 だが、首筋に当てた聖剣の、あの凍てつくような冷たい感覚。吹き出した熱さが、まだこびり付いている。

 

 握りしめる拳が、小刻みに震える。

 掴んでいたのは、アスタが掛けてくれたくたびれた外套だった。

 

 頭に場面が映る。

 晴れた空、ヤバマーズを飲み込んだ泥の濁流。そして――。

 

(……あの、眼)

 

 黒きウロコの怪物、魚人の王(アスタ)の濁った瞳。

 

「――いやぁぁぁあああああッ!!!」

 

 フラッシュバック。“自分ではない自分”の記憶が、一気に流れ込んでくる。

 回帰前に聞いたありとあらゆる音が、一斉に耳奥で鳴り続ける幻聴。

 とっさに耳を塞ぐが、なんの効果もない。

 

 痛み、嗅いだ臭い、味まで次々に広がる。心臓が、肋骨の裏側から突き破らんばかりに暴れ狂う。

 意識が混濁。現在、過去、未来へと意識が飛び、今いる時間がいつなのか、ここがどこなのかすらわからない。

 

「あがががががッ!?」

 

 もがいているうちに、外套を跳ね除けて床へと滑り落ちた。

 正気など脆き薄氷に過ぎない、パキパキと精神が割れていく。

 

「……はあ、はあ、はあっ! ……アスタ様っ」

 

 記憶の干渉によって、精神が凌辱される。

 現実と虚構が入り混じり、自己の境界が猛烈に溶かされた。

 

(ああ、あの方を救わなきゃ……。でも、間に合うの? 今なら、今ならまだ……間に合う?)

 

 辛うじて、自我を繋ぎとめる楔は――死に際の、強い決意。

 

「壊れても、いい。わたくしが、行かなきゃ……」

 

 自らの正気が、うわべを取り繕う仮初に過ぎないことは、リュス自身が一番理解していた。

 この地に辿り着くまでの、二年間は――リュシエンヌという公爵令嬢を既に壊している。

 

「まず、は……今……は……い、つ? いつ、なの……?」

 

 問いかけても、一緒に確認してくれる優しい声はどこにもない。

 リュスは執事服が乱れたまま、構わず廊下へと飛び出した。

 

 しかし、今回は――アスタの外套を固く抱きしめたままだ。

 この手触りを失えば、二度と立てなくなる気がしたから。

 

「あ、マダム・リュス! ちょうど良かった。探したんですよ」

 

 廊下で鉢合わせたのは、やはり事務官のヘイホーだった。

 帳簿や冊子を抱え、再び立ちふさがる。

 

「実はですね、急ぎお客様の件でご相談がありまして――」

 

 そして、理解してしまった。もうアスタは屋敷にいないのだ。

 

 頭がグルグルした。自分一人ではどうにもならない。

 でも、オノレやロダンが居合わせたところで結果は駄目だった。ゲロハルトは尽力しても届かない。

 

(ああ、アスタ様に今すぐ会いたい。……今すぐ、あの人に)

 

 どうして、自分がこんな目に遭わなければならないのか。

 

「……ねえ。どうして、わたくしなの?」

 

 誰かに、答えを求めたわけでもなかった。

 あまりの理不尽に耐えかねて、つい、唇から漏れた恨み言。

 

 しかし、ヘイホーはそれが質問だと思った。

 

「えっ? その、男爵閣下がお見えにならないので、実質的な責任者である貴女に――」

「本来は、アスタ様に相談すべきほどの内容なのですね?」

「は、はいぃ……」

 

 宿った異常な圧。

 ヘイホーは喉を引きつらせながらも、なんとか頷いた。

 

「……今度は聞きます、話しなさい」

「今度は? ……えと、実はですね、男爵閣下と直接お話しされたいという方々が二組。一つは、ボリマッシェ商会の護衛たちをされていた方々です。ほら、先日の商談で……巡礼冒険者の」

「わかりますよ、もう一組は?」

「もう一組は、新しく青灰リスの靴(パントゥフル・ド・ヴェール)商会の方々が来ておられまして。ボクではどうしたらいいか、わからなくて……」

「……青灰リスの靴(パントゥフル・ド・ヴェール)商会」

 

 どちらも聞き捨てならなかった。

 前者は、先の商談で警戒していた者たちであり、そして後者は――。

 

「ブランシュ・ド・サンドリルズ。……どうして、彼女の手の者がここにいるのですか……?」

 

 シャルル王太子の婚約者、伯爵令嬢ブランシュ。

 彼女が、配下の名を借り取り仕切る……まさに飛ぶ鳥落とす勢いで台頭した、有力商会だった。




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