――四日目、崩壊は加速する。
雨など一滴も降っていないというのに、湖は水位を跳ね上げていく。
青々と茂っていた森の木々が、水に飲まれ始めている。
領民は、まだ異常を認識していない。認識した頃には遅いのだ。
迫る危機。
しかし、彼女たちをまとめられる者はどこにもいない。
ヤバマーズ、ラプラス、マクスウェルの三家同盟も、中心人物が二人欠けたことによって、成立しなくなりつつある。
老執事ゲロハルトが、杖を突きながら声を絞り出す。
「リュス、もう限界ですぞ。……領民を率い、高台へと避難させねばなりませぬ」
かつての覇気は見る影もなく、背は痛ましいほどに丸まっていた。
しかし、リュスは首を振る。
「ダメ、です。今、屋敷を捨ててしまえば、アスタ様の帰る場所がなくなってしまうではありませんか……」
「これこそが若様の御命令です。まさか、蔑ろにするおつもりか?」
「……あなたへの命令はそうなのでしょう。ですが、わたくしは違います」
取りつく島もない。
結局、リュスは誰の言葉にも耳を貸さなくなった。
「わたくしは、アスタ様を探しに行きます。……どこにいらっしゃるかさえわかれば、きっと……解決します」
「リュシエンヌ、冷静になるんだ。君が命を落とすことを、アスタが望むと思うのかい!?」
オノレが声を荒らげ、肩を掴んで揺さぶった。
「……やめて。あの人を失って生き永らえて、それがなんだと言うの? そんな未来に価値なんてないわ」
「俺が――俺がなんとかするっ! 君が君らしく、輝く場所で生きられるように……! それが、俺が彼に託された願いだからっ!」
「……なんとかする? ふふ……」
リュスの唇から、乾いた笑みが漏れる。
「面白いことを仰るのですね、オノレ様。わたくしたちは、結局……なにも為しえなかったというのに? アスタ様とは違って」
オノレは、目を見開く。
彼女を繋ぎ止める言葉など、どこにも残されていなかった。
ただ一点、愛するアスタが消えた湖の方角だけを、じっと見つめていた。
そして、ただ一人。
「吾輩も共に行こう、リュス。……ああ、男爵は無事に違いないとも」
聖騎士ロダンだけが、彼女に同行すると決める。
それが彼にとっての相応しい、最期の在り方だった。
……そして、五日目。
結局、残された者たちの意志はバラバラのまま、ひとつにはならなかった。
それぞれが交わらぬまま、それぞれの立場で足掻いただけだった。
ついに、正午過ぎ。
湖から溢れ出した濁流は、ヤバマーズのすべてを飲み込んでいく。
家々が砕け、叫びが水底に消える中。
波に乗って現れたのは醜悪な魚人の軍勢だ。彼らは逃げ惑う人々を無慈悲に刈り取り、蹂躙していく。
「アスタ、様……?」
無惨に沈みゆく世界に、残り続けたリュスは……“それ”を見た。
人の世を蹂躙し、殺戮を繰り広げる不気味な軍勢。
その頂点に立つ、魚人の王。
――その怪物は見覚えのある、禍々しい黒いウロコに覆われていた。
リュスには、一目でわかった。
その異形こそが、
「……見つけましたわ、確かに。次は……次こそは、絶対に」
リュスは、狂おしいほどの悦びに身を震わせながら。
迷うことなく自ら首筋に、聖剣の刃を押し当てる。
ドクドクと頸動脈を流れる、かつて救われた熱い血潮を感じながら。
「――迫り来る地獄すら、追い越してみせますわ」
その動作は、痛々しいほどに
これまでも、いつだってこの最も確実な方法で“過去”へ舞い戻っていたから。
――ブッシャアァアアッ!
思い切り腕を引けば、熱さが吹き出す。
視界が赤に染まる。
再生は……機能しなかった。
(ああ、たとえ記憶がどれほど混濁しようとも。……この宿る決意だけは、どうか忘れることがありませんように)
薄れゆく意識の淵。
そう願いながら――世界が、緩やかに反転する。
***
「はっ、……ぁ、……く、はぁっ!!」
リュスは、ソファから跳ね起きた。
すぐさま、喉を狂ったように手繰り寄せる。指先が触れたのは弾力のある、傷一つない白磁の柔肌。
「生きて、る……?」
だが、首筋に当てた聖剣の、あの凍てつくような冷たい感覚。吹き出した熱さが、まだこびり付いている。
握りしめる拳が、小刻みに震える。
掴んでいたのは、アスタが掛けてくれたくたびれた外套だった。
頭に場面が映る。
晴れた空、ヤバマーズを飲み込んだ泥の濁流。そして――。
(……あの、眼)
黒きウロコの怪物、
「――いやぁぁぁあああああッ!!!」
フラッシュバック。“自分ではない自分”の記憶が、一気に流れ込んでくる。
回帰前に聞いたありとあらゆる音が、一斉に耳奥で鳴り続ける幻聴。
とっさに耳を塞ぐが、なんの効果もない。
痛み、嗅いだ臭い、味まで次々に広がる。心臓が、肋骨の裏側から突き破らんばかりに暴れ狂う。
意識が混濁。現在、過去、未来へと意識が飛び、今いる時間がいつなのか、ここがどこなのかすらわからない。
「あがががががッ!?」
もがいているうちに、外套を跳ね除けて床へと滑り落ちた。
正気など脆き薄氷に過ぎない、パキパキと精神が割れていく。
「……はあ、はあ、はあっ! ……アスタ様っ」
記憶の干渉によって、精神が凌辱される。
現実と虚構が入り混じり、自己の境界が猛烈に溶かされた。
(ああ、あの方を救わなきゃ……。でも、間に合うの? 今なら、今ならまだ……間に合う?)
辛うじて、自我を繋ぎとめる楔は――死に際の、強い決意。
「壊れても、いい。わたくしが、行かなきゃ……」
自らの正気が、うわべを取り繕う仮初に過ぎないことは、リュス自身が一番理解していた。
この地に辿り着くまでの、二年間は――リュシエンヌという公爵令嬢を既に壊している。
「まず、は……今……は……い、つ? いつ、なの……?」
問いかけても、一緒に確認してくれる優しい声はどこにもない。
リュスは執事服が乱れたまま、構わず廊下へと飛び出した。
しかし、今回は――アスタの外套を固く抱きしめたままだ。
この手触りを失えば、二度と立てなくなる気がしたから。
「あ、マダム・リュス! ちょうど良かった。探したんですよ」
廊下で鉢合わせたのは、やはり事務官のヘイホーだった。
帳簿や冊子を抱え、再び立ちふさがる。
「実はですね、急ぎお客様の件でご相談がありまして――」
そして、理解してしまった。もうアスタは屋敷にいないのだ。
頭がグルグルした。自分一人ではどうにもならない。
でも、オノレやロダンが居合わせたところで結果は駄目だった。ゲロハルトは尽力しても届かない。
(ああ、アスタ様に今すぐ会いたい。……今すぐ、あの人に)
どうして、自分がこんな目に遭わなければならないのか。
「……ねえ。どうして、わたくしなの?」
誰かに、答えを求めたわけでもなかった。
あまりの理不尽に耐えかねて、つい、唇から漏れた恨み言。
しかし、ヘイホーはそれが質問だと思った。
「えっ? その、男爵閣下がお見えにならないので、実質的な責任者である貴女に――」
「本来は、アスタ様に相談すべきほどの内容なのですね?」
「は、はいぃ……」
宿った異常な圧。
ヘイホーは喉を引きつらせながらも、なんとか頷いた。
「……今度は聞きます、話しなさい」
「今度は? ……えと、実はですね、男爵閣下と直接お話しされたいという方々が二組。一つは、ボリマッシェ商会の護衛たちをされていた方々です。ほら、先日の商談で……巡礼冒険者の」
「わかりますよ、もう一組は?」
「もう一組は、新しく
「……
どちらも聞き捨てならなかった。
前者は、先の商談で警戒していた者たちであり、そして後者は――。
「ブランシュ・ド・サンドリルズ。……どうして、彼女の手の者がここにいるのですか……?」
シャルル王太子の婚約者、伯爵令嬢ブランシュ。
彼女が、配下の名を借り取り仕切る……まさに飛ぶ鳥落とす勢いで台頭した、有力商会だった。
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