視界が、どんどん赤く染まる。
自分の身体のはずなのに、感覚は他人事みたいに遠い。
次第に、意識が遠のく。
宙を舞い、猛攻をいなし、刹那を見切る。
サキオンがもたらしてくれた殺しの旋律も、宿主たる僕の肉体が限界を迎えれば、無様な足掻きに成り果てた。
振るう剣の軌道が鈍り、生まれるのは致命的な隙。
――シュッ。
「しまっ――」
足掻こうとするが、もう力は入らない。
スタミナが枯渇、肺は酸欠、脳は意識を保つだけで精いっぱい。
迫りくる、海魔クラーケンの巨大な吸盤。生え揃った鉤爪。
「ぐ、あああっ……!」
激痛。
僕の肩に、脇腹に、逃れられぬ力で喰い込んでいく。
「クソ……やっぱ、最期まで……カッコ悪い、な」
逆さまになった視界の下。
必死に手を伸ばし、絶叫するジル。眼帯の
(……みんな、ごめん)
肺が潰され、ほとんど声が出ない。
目の前が暗く、虚無へ沈んでいく。思い浮かぶのは、やっぱり――。
「――アスタ様、お気を確かにっ!」
あれ、どうしてだろうか。
ありえないのに、ここにいるはずがないのに。誰より焦がれた声がした。
いや、きっと……それは幻聴だ。
死ぬ間際、僕の未練が見せた錯覚。
けれど、その声を聴いて、ちょっとだけ。
本当にちょっとだけ、僕は満ち足りた気分になった。
(ああ、やっぱり。貴女の声は、いつだって心地が良いよ……僕の
少しは、貴女のように気高く在れただろうか。
意識は、そこでぷっつり。深い闇へと途絶えていった。
***
疲れている時に、目を覚ますのは不快さを伴う。
ここ数年、気分爽快で目覚めた記憶なんてありゃしない。
家督を継いで、飢えながら走り続けて来たこの数か月も。
いつも、どこかで責任の重石を、抱えて眠っている。
ああ、重い。重すぎる。
身体も、瞼も、頭も、なにもかもが重い。
「もっと、寝かせてくれ……」
ずっと、眠っていたい。夢なんか見たくない。
僕は夢の中ですら、やらなきゃならないリストに追われている。
けれど。
不意に、どこか切ない甘やかな香りがしたから。
「……アスタ様。どうか、目を開けてくださいますか」
布が擦れる、音。今にも消えてしまいそうな祈る声。
誰なのか思い出せなかったけど。
僕は、微睡みから覚めないといけない。
この声の主を、一人きりにはしてはいけない。
……そんな気がしたんだ。
「だ、れだ……?」
「ああっ!!」
直後、凄まじい圧迫感が僕を襲った。
むぎゅぅぅうううううううううううううっっ!!
「ごふっ!? ちょ、まっ、苦し……っ!!」
「アスタ様っ! よかった……本当に、本当によかった……っ!! わたくし、もうっ……!!」
伝わってくる、あらがえない弾力。肌に吸い付くような熱。
そして……肋骨が軋むほどの、猛烈な抱擁の力。
いや、マジで、シャレになんない。ガチで死ぬよ?
よく考えてよ、
肋骨が、折れるっ!
「リュ、ス、くるし、い……死ぬ、マジで死ぬ……っ!」
「死なせませんっ! 離しません! もう、二度と……二度と、あんな思いはしたくないのですっ!」
「そう、じゃなくて、今、死ぬっ!!?」
泣きじゃくりながら、名を何度も何度も呼ばれた。
目に入る。あの日、僕が“解釈違いだ”と拒否しながらも結局は認めた。紅白の
髪は乱れ、瞳の下には深い隈。昏く堕ちた
「まだ……僕は、生きてるんだな」
なんで、その恰好をしてるんだろう。聞ける雰囲気じゃなかった。
「はい、生きてらっしゃいますよ。わたくしが、絶対に……死なせないと、誓いましたから。地獄まで追いかけてでも、引き摺り戻すと決めたのです」
さすがに、察する。
どうやら、またもや助けられたらしい、と。
借りが山脈のように積み重なって、一生返せる気がしない。
申し訳なさと、愛おしさがこみあげて……そっと、頭を撫でようとした。
「あ……」
そして、気付く。
僕の左手の、その甲にびっしり漆黒のウロコが生えていた。肌を覆う禍々しさ。
「アスタ様?」
「……いや、ごめん。これじゃあ、気持ち悪いよな。まるで――」
――魔物だ。
口にはしないけど、そう思った。自分でも嫌悪感がある。
だけど、リュスはそれを許さなかった。
その異形の手を、大切そうに包み込み、自らの柔らかな頬へと押し当てていく。
冷たい肌。けれど、伝わるのは想いの熱量。
僕はたじろぐ。
「気持ち悪くなどありませんよ。だって、あなた様の手ですもの」
「……あの、リュス」
「嫌です、離れません。……どこにも行かせません」
「まだ、なにも言ってないだろ?!」
さらに、抱く力を強めるリュス。
彼女の執着は、以前よりもずっと苛烈に、鋭利になっていた。
「なにも言わず、ただ約束してくださいまし。どうか、二度とわたくしを置いて行かない、と。……黙って、いなくならないで」
瞳から、大粒の涙がこぼれる。必死に縋る眼差し。
僕はたどたどしく、その背を撫でた。
「ごめん……僕が悪かった、本当に悪かったよ」
ちょっとの時間でも、休ませてあげようと思ったとか。
時間がないから、素早く行ってこようと思っただとか。
まさかあんな場所とは、思わなかっただとか。
正当化する言い訳はたくさん思いつく。ああ、いくらでも。
けれど、僕のシャツに染みこんでいく、この涙の重さを知れば。
どれほど、リュスを追い詰め傷つけたかを痛感せざるを得なかった。
独りよがりな言い訳は、口にすべきでない。
「よしよし。……また、頑張ってくれたんだな。ありがとう、リュス」
「えぐっ、うう……アスタ様ぁ……アスタ様……っ!」
暫し室内に、リュスの嗚咽だけが響いていた。
僕からも、そっと抱きしめる。
ひさしぶりに、時間がゆっくり流れた気がした。
やがて、リュスは震える呼吸を一度吐き出し、どこか虚ろに語り始めた。
「アスタ様。わたくし……勝手なことをいたしました」
「勝手なこと?」
「はい、お叱りはいくらでも受けます。……でも、どうしても他に方法がなかったのです」
「……なにがあった?」
問いかける。
僕が彼女を叱るなんて、ほとんどあり得ないことだろうに。
「実は――」
すると、リュスが言葉を続けようとした、その時。
――コン、コン。
無遠慮に扉を叩く音。
返事を待たずに、開け放たれる。
「よう、魔人殺しの男爵殿。いや、百人斬り――と呼んだ方が良いか?」
刃のような鋭さを孕んだ声。
立っていたのは、墨色髪を無造作に遊ばせた、一人の男。
見覚えがある。
バルトロメウス率いる、ボリマッシェ商会。その護衛として並んでいた――巡礼冒険者だ。
「無事に目を覚ましたようで何よりだ。あんたがくたばったら、オレの寝覚めの方が悪くなる」
「お前っ、なんでここに!?」
僕は思わずベッドの上で身を乗り出す。
だが、男は不敵な笑みを浮かべたまま。
「おっと。病み上がりだろ、そう殺気立つなよ」
流れるような所作で、室内に入ると。
あろうことか、リュスの肩に親しげに手を置いたのだ。
理解より早く、口が動いていた。
「――おい、てめぇ。今すぐ、その手を退けろ」
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