まず、屋敷の匂いが変わった気がした。
「――そこ。左から三番目の窓枠、わずかに煤が残っています。やり直しですね」
「「「は、はいっ! 申し訳ございませんっ、マダム!」」」
廊下に響き渡る、毅然とした声。
村から通いで来ている女たちが、血相変えてキビキビと雑巾を走らせている。
今日のリュスも、いつもの法衣ではない。
なんと古い執事服をしつらえ直した、タイトな男装スタイル。
捲り上げた袖から覗く白い腕。手には羽ペンと帳簿。
公爵令嬢としては型破りすぎる。
だが、「わたくし、もう令嬢ではありませんので」と微笑む彼女には、どんな説得も無意味だった。
……恐ろしく頑固である。
「申し訳ありません、アスタ様。お見苦しいところを……」
「掃除の話? ……いやぁ、別にちょっとくらいなあ。そんなカリカリしなくても」
「いいえ。目の肥えた貴族や商人とは、そうした些細な弛みから、領主を値踏みするものです」
「そういうもんか……?」
「当然でしょう。埃だらけの屋敷を見て、誰が大金を預けようと思うでしょうか。清潔さは、信用の最低条件です」
「……仰る通りでございます」
かつては、「坊ちゃん、またそんな汚い格好してー」なんて、僕の頭をガシガシ撫で回していた肝っ玉母ちゃんたち。
それが今や、リュスが
(……ぐ、軍隊かよ。あの強情な母ちゃんたちが、なんて従順な姿に)
ネズミの運動場だった屋根裏は、根こそぎ掃討。
蜘蛛の巣がカーテン代わりだった大広間は、徹底的に磨き上げられていく。
「あー。リュス。その、あまり村の女衆をいじめないでやってくれよ?」
「いじめてなどおりません。彼女たちは、自身の労働に対し、正当な対価が支払われる
リュスが氷細工のような微笑を向ければ、女たちは「へいっ! 頑張りますだ、マダム!」と勇ましく返事。いっそう掃除に励む。
「いや、僕にすらそんな態度とったことないだろう、お前たちッ!?」
あまりの変貌ぶりに、驚愕を禁じ得ない。
すると、リュスは窘めるように物申してきた。
「それから、アスタ様。甘やかしは、かえって彼女たちの誇りを傷つけます」
「……誇り、だって?」
「ええ。対価を受け取り、主人の生活を支える。それは立派な職責であり、格式ある立場です」
「こんなボロ屋敷に、格式なんて――」
「それをおやめなさい。主人の卑下は、家臣を貶めます」
「うぐっ……!?」
……正論。
あまりに真っ当すぎて、ぐうの音も出ない。
「互いの善意に甘んじ、なあなあの関係で済ませることこそ、人間の資質を腐らせる行為に他なりませんよ」
「……はい。そう、ですね」
「なれば、この屋敷を格式ある職場にすることこそ、主たる貴方様の仕事ではありませんか?」
「……不徳の致すところでした。反省します」
「ご理解いただけたようですね。ヤバマーズの人々は、どうにも
正論コンボに、フルボッコにされた。
もはや再起不能。
リュスは満足げに頷くと、ふと顔を覗き込んでくる。
「わたくし、実は素直な男性が嫌いではありません。……ですが、その寝癖は直していただけますか? 男爵としての威厳が台無しです」
「あ、はい。……今すぐ直してきます」
「――お待ちを」
スッと、リュスが急接近。
細くてしなやかな指先が、襟元に触れてくる
「アスタ様。本来ならば、御着替えや御髪を整えるのも、仕える者の務め。……わたくしの裁量が至らず、申し訳ありません」
至近距離で、
ドギマギと鼓動が跳ね上がる。
(待て。至近距離、男装美女執事っ!? 破壊力がデカすぎないか!? これ以上、僕の新たな性癖を開拓するのは勘弁してくれ……!)
そんな僕の内心など知る由もなく。
「……それでは、また後ほど」
リュスは一言告げて、鮮やかに転身。
風のように仕事へ戻っていった。
思わず見惚れたまま、目が離せない僕。
「ヤバマーズ男爵。そこをどけ、邪魔だ」
「うおっ!? なんだ、ロダンか」
「……む、このあたりの床板、僅かに軋むな。要修理だ」
廊下の角から現れたのは、聖騎士ロダン。
相変わらずの教会の居候だが、互いに協力し合う約束に基づき、まずは警備体制の見直しを、ゲロハルトと対応してくれている。
でも、それ、大工仕事じゃね?
「お前、なんで釘打ってんだよ? ゲロハルトはどうした」
「老執事殿か。リュスに、『執事の靴が汚れているのは、家主の恥です』と、指摘されたらしくてな。泣きながら磨いてたぞ」
「……本当に、リュスは容赦ないな」
「で、見てみれば、この屋敷。野良猫やらコウモリやらが侵入している有様。警備体制を語る以前の問題であったからな」
そう言うと、ロダンは巨躯を折り曲げ、ガタつく隙間を塞ぎ。
で、その後ろに孤児たちが付いて回り、甲斐甲斐しく手伝う。
「おじちゃん、これ使う?」
「いや、その隣の長い釘だ。よく見ろ」
微笑ましいのか、殺伐としているのか。よくわからない光景だ。
しかも、子供らの服も、心なしか小綺麗になっているように見えるし。
まさか、これもリュスの手配かな?
「……にしても、ロダン。お前、本当にマメだよな」
「騎士たるもの、陣地の死角を放置するなど万死に値するからな」
「そこの話じゃねえよ。そこもだけどっ!」
「ところで男爵、先ほどからリュスを目で追っているようだが、職務を忘れてはおらんか?」
「なっ……! 追ってない! 全然、見てない!」
「声がデカいぞ、青二才め」
鼻を鳴らして去っていく、ロダン。
クソ、舐められているっ。
お前なんか、お馬さんおじちゃんのクセに!
(だが、本当にリュスはどうやったんだ? ヤバマーズの連中は、余所者には石を投げるほど閉鎖的だったのに)
というか、女たちも農作業やら、それぞれ家の仕事があったんじゃなかろうか。
気になったので、休憩中に聞いてみた。
「ええ。ですので、
「……そんな管理、簡単に出来るものか?」
「いえ、思いつくのは簡単ですが、調整には少々骨を折りました」
「そりゃあ……そうだろうな」
「ああ、それと給金ですが。現状は現金が少ないですから……石鹸の残りや、古着の端切れ、塩や一部の香辛料。そして、『まかない』の持ち帰り権利。これらを提示しまして――」
「待てっ!? もしかして、既に備蓄量も把握してるのか!?」
「いいえ、未だ把握作業の真っ最中ですね。ですが、
村人どもの「ちょっと拝借、てへぺろ♪」という悪習を、速攻で防止してやがる!?
めっちゃ、ありがちなんだよ。ガチ頭痛の種。
アイツら、マジでモラルとかないからさぁっ!?
「ですが、在庫状況は問題ないかと思いますよ。もうすぐ、マッケンジー商会が到着するのですよね?」
「うちのキャラバンのスケジュールまで、理解してんの!??」
なんと完璧主義で、容赦のない献身だろう。
フルーレス公爵家、元令嬢としての手腕は、間違いなく本物だ。
わかった。
なぜ、誰もが彼女に従うのか。
洗練された所作と、毅然とした態度。
理路整然とした、一切の迷いがない命令。
リュスには、自然と『この人に従えば、自分たちの生活も、この領地の格も良くなるだろう』と思わせる、支配者のオーラが備わっているのだ。
(これが、人の上に立つために磨き上げられた、純血の格か。……僕のような辺境貴族とは、まさに生まれが違う、というやつだ)
そして、改めて確信した。
こんなにも優秀な
快刀乱麻を断つ、手際よさ。
――僕は、この敗北感に心地よさすら感じているというのに。
いつも応援ありがとうございます!
「面白かった」「ここが意外だった」といった一言だけでも、作者は画面の前で飛び上がって喜びます。
作品のお気に入り登録や評価も、執筆のガソリンになりますので、ぜひよろしくお願いします!