「…………アスタ様?」
ひどく
村の女たちを鮮やかに取り仕切った、あの凛とした響きはどこへやら。
今まさに、陽の届かぬ井戸から這い出して、鼓膜にべったり粘りついたのかと思うほどの湿度。
おそるおそる、ジルの肩から手を離し。
ギギギ、と振り返る。
「世界一愛しい? お前のことを考えていた? あげくに……会いたかった?」
「あ、いや。リュス。……なんか顔が怖いぞ?」
リュスの瞳は
この世の終わりでも見たかのよう。怨念じみてさえいる。
手にした帳簿が、ミシミシと悲鳴を上げて
「……アスタ様が、それほどまでに“お好きな御方”、なのですか」
「待て! よくわからんが、とりあえず待てっ! その端折り方は、誤解を招くからっ!」
理由が不明だが、間違いなく怒ってる。
だが、ジルはなにも気にせず、喜んで自己紹介をぶちかました。
「えへへ、そうっすよ。アスタ先輩の、最愛の後輩こと、ジル・ドゥル・マクスウェルっす!」
「……
ぴたり、とリュスの殺気が止まった。
訝しげに、独特な音節を反芻する。
「まさか、かの
「正解っす! 最高の技術者にして、最高のパパっすよ!」
「しかし、ジルなどという名には、聞き覚えが……」
リュスは、困惑した。
無理もない。彼女が王都から放逐されたのは、二年前のこと。
当時はまだ、この名が社交界にのぼることはなかったはずだ。
僕は、そっと耳打ちする。
「リュス。こいつはちょっと特殊だ。君が去った後に、ドラン卿の養子になったんだよ。元は、数いる若弟子の一人だったらしい。ドワーフには、半世紀爵位が適用されるから――」
「……ああ、そういうことでしたか。つまり、血筋によらない貴族」
リュスは値踏みするように、上から下までジルを観察。
機能性優先の
脂汚れも厭わない簡素な装いだ。その上、腰には使い込まれた工具ベルト、指先のタコ。
見るからに、貴族としての洒落っ気など微塵もない。
「へへ。うちは人間っすけど、親方の後を継ぎ、マクスウェル家を背負って立つ予定っす。まあ、今は修行の身っすけどね!」
「おい、ジル。一応、公では義父を“親方”と呼ぶなよ」
「んー。でも、うちにとってはすべてを教えてくれた師匠っすから。恩返しのために、一日でも早く一人前になって安心させるっす!」
「……その、志はいいと思うけどな。期限があるし」
半世紀爵位法。
当主がドワーフのような長命種である場合、人間社会のサイクルに合わせて、およそ五十年前後で次代に席を譲らねばならない。
そんな情け容赦のない法律だ。
ドラン・ドゥル・マクスウェルは、卓越した工学技術と外科医の腕前を融合させ、戦場での生存率を劇的に上げた。
それも、
歴史的に見ても、類するものがいない新興ドワーフ貴族。
それこそが、マクスウェル子爵家であり……ジルはそこに組み込まれた、人間の養子だったのだ。
「で、先輩。この超絶美人な男装お姉さんは誰っすか? あ。もしかして、先輩の愛人?」
「そのネタはもう、お腹いっぱいなんだよ……っ!」
「えっ、もういいってどういうことっす??? あ、つまり……一通り堪能した後ってことっすか!?」
「ちげーよ、バーカッ!!?」
未だにその単語ひとつで心拍数が跳ね上がる、
「……アスタ様とは、随分と仲がよろしいのですね。――羨ましいほどに」
「アスタ先輩がいなきゃ、平民上がりのうちは大学でやっていけなかったっすから! これでもすげー尊敬してるんす!」
「大学での、生活……」
「だからこうして、最新工具一式担いで、超特急で駆けつけたわけっすよ!」
ジルは自慢げに、大きな背負い袋を叩いた。
しかし、その視線の先では、オノレが優雅に手を振る。
「でも、オノレ先輩は……え、さすがに到着早すぎないっすか? 魔術で飛んできたんすか?」
「あはは。俺は目的のためなら、手段を選ばないからね」
「うへー。……ガチ勢、マジパないっす。引くっす」
ドン引きする、ジル。
なんだよ、そのガチ勢って。
でも、内心同意もする。
オノレは、この不毛の地へ来るハードルを、小石を跨ぐ程度の感覚で飛び越えているわけで。
……ホント、なんだこいつ。
「おうすっ! 立ち話もいいが、この山積みの荷物、いつまで馬車に積ませておく気だ?」
そこに割って入ったのは、日焼けした精悍な顔立ちの中年男――オコトギ・マッケンジーだ。
ヤバマーズ男爵家の傍流にして、領地の経済を支えるマッケンジー商会の主。
その絶妙な距離感と来たら――。
「なあ、坊ちゃん……じゃねえや。ご当主様よぉ。いつもより、多めに積んできたんだがなあ?」
ほら。早速、親戚特有の馴れ馴れしさ混じりに、マウントを入れてきやがった。
だが、僕が王立大学で学べたのは、オコトギが学費を融通してくれたおかげでもあるわけで……。
「オコトギ! 本当に、よくぞ連れてきてくれた……!」
色々と飲み込み。僕は笑顔で礼を言い、労うように肩を叩いてやった。
すると、オコトギは、なんとも言えぬ渋い顔をする。
「ふん、客人のことか? なら、もう一人隠れてるぞ。ほおれ、出てこい」
馬車の影から、おずおずと、今にも消え入りそうな雰囲気で顔を出したのは――。
どこか鬱々とした、線の細い青年だ。
「あれ、ヘイホーじゃん。お前まで来たのか?」
「お前までって、ひどくないですか!? 手紙をくれたのはアスタ様じゃないですかぁっ!」
「冗談だよ。でも、手紙に書いた通り、今のヤバマーズにまともな給金もメシもないぞ?」
「そこは冗談であってほしかったんですけどぉぉっ!」
相変わらず、イジリ甲斐がありそうなやつ。
ヘイホーは……まあ、ぶっちゃけ、ただの平民だ。
(ああ。でも、来てくれたんだな。その、気持ちがありがたい!)
再会の喜びを噛みしめながらも、ちょっとした違和感を覚える。
(ん? でも、リュスは
そこで、空気をぶち壊す一声。
オコトギだった。
「それより、ご当主様よ。
やはり、来たか。
オコトギは不機嫌を露わにする。ほら、気を使え、と言わんばかりに。
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