リュスが去った執務室は、酸素を失ったみたいに息苦しい。
左手には、細い指の痕がくっきりと。赤紫色の
「……強く握りすぎだろ、リュス」
脳裏に焼き付いて離れない、リュスの表情。
『見て見ぬフリをしたでしょう』
呟いた彼女には、かつての公爵令嬢としての誇りなど微塵もなく。
――己の潔白さを呪う、暗い炎が宿っていた。
(あの顔は……なんだ。あんな顔をさせるために、僕は彼女を救ったのか?)
僕は、いったい何を間違えた?
どうにもならない気分のままで、翌朝を迎えた。
***
「皆様、おはようございます。ご朝食の準備が整いました」
「おっ、アスタ先輩! おはようっす! 見て下さいよ、このスープ。具が入ってないっす!」
「あわわわ! ジルっ! 男爵閣下がご用意した食事に失礼ですよ!」
騒がしい食堂を仕切るのは、いつものリュス。
パリッとアイロン掛けされた執事服を隙なく着こなし、濡羽色の髪は一本の乱れもなく結い上げられている。
昨夜の、はだけた白シャツ姿も。
理性を焼き切るような、縋る眼差しも。
……すべては月夜が見せた幻だったかのように。
食卓を共に囲うこともなくなり、一緒にいた時間が消えていく。
「なあ、リュス」
――スッ。
ろくに目を合わせようともしない。
明らかに避けられている、と思った。
(前は休憩の時間には、傍にいたのに……?)
僕が、いったい何を間違えたと言うのだろうか。
そんな日が続き。
コーヒーを啜るオノレが、僕の顔を見るなり片眉を上げた。
「やあ、アスタ。どうにも酷い顔だね。いや、君の顔が酷いのはいつも通りなのだがね」
「……放っておけ。僕は、今、忙しいんだ」
「ふーん」
オノレの透徹した視線から逃げるように、机に向かう。
「リュシエンヌとなにかあったかい?」
「なっ、なぜそれを!?」
「隠し事が下手過ぎるだろう。前までは、コソコソ陰でベタベタくっつき合って、甘ったるい空気を垂れ流していたじゃないか」
「……見られていたのか」
「逆に、なぜ見られていないと思ってたんだい? この狭い屋敷で」
オノレは、前髪をいじる。
「……数日前、夜に少し、リュスと話をしたんだ」
「そうなのか。じゃあ、君が悪いに決まってるから、四の五の言わずに今すぐ謝ってきたらどうだい?」
「話を聞く前に決めつけるなよな!?」
いや、たぶん僕が悪いのだろうけれど!
理不尽だが、反論できないのが辛い。
「何が悪かったのか、さっぱりわからないんだよ! リュスがいきなり、卑下を始めたんだ。お前やジル達を比較して、自分なんか友達ですらなかったって」
「やれやれ。……俺、痴話げんかの解説なんて、頼んだ覚えはないんだけど」
「いいから聞けって! 女の扱いなら、お前の方が何倍も詳しいだろうが!」
「君の経験不足を理由に、俺に迷惑を掛けないでくれたまえよ」
「経験不足だと!? 王都の令嬢たちなんて、近付くだけで扇子で顔を隠され、揃って不快そうな顔をするんだぞ! 辺境男爵ってだけで、ひどすぎんか!?」
「……君って、嫌な女性経験が豊富だね。それは俺の人生に必要ないデータだ」
「僕だって、そんな経験したくなかったよ! 酒場の町娘たちの方が、よほど人間らしい温もりがあったね!」
オノレに、ものすごく嫌そうな顔をされた。
でも、話すのは止めてやらん!
「――で、しまいには『もしも、私が無能だったら傍に置かなかったか』なんてまで言い出すから、僕は事実を言ったんだよ。『もしも』なんて無意味だと。本来の道を進んでいれば、僕らは交わらなかっただろうから、今ある現実を大事にしようって。前向きだろ?」
今、僕が、高根の花だった公爵令嬢ではなく。
泥にまみれた
それは――もう、奇跡のようなものだから。
「本当に、それだけかい?」
「ああ。僕は、そのつもりだったが……」
「……アスタ。君は、本当に救いようのないバカだね」
「なんだよ、何が悪かったんだ」
「いいかい。女性が『もしも』の話を持ち出すとき、それは論理的なシミュレーションや正解を求めているんじゃない。感情の肯定を求めているんだよ」
「感情の肯定? だが、彼女は感情だけで物事を判断するような、浅はかな人じゃないぞ」
「困ったものだな……さすがに、リュシエンヌを神格化しすぎだ。こういうのも、愛は盲目というのかな」
オノレは、めんどくさそうにする。
「アスタ。君は、リュシエンヌが無能だったら、傍に置かなかったのかい?」
「いいや、それは因果が逆だ。再び、リュスとなって巡り合えた彼女が、たまたま有能だったに過ぎない」
「つまり、彼女が無能の極みだろうが、世界中を敵に回す覚悟で守り抜くわけだね?」
「当然だ。語るまでもない」
「語るまでもない、じゃなくてね。……それを改めて、脳髄に響くほど甘い言葉で語るべきだったんだよ」
「甘い言葉って……僕とリュスはそんな関係じゃないぞ。それに……そんなことはもう知ってるはずだ」
どうにも納得がいかない。
何度、僕が、リュスの目の前で啖呵を切ったことか。
「……さては、その調子で何か余計なことを言ったね。なにか、変な例え話でもしただろう」
「なぜわかる?」
「口が達者な人間は、その口数の多さで墓穴を掘るものだ」
「……そうだ、僕はこんな例え話をした」
僕は、改めて口にする。
「仮定の話など意味がない。もしリュスが王妃になっていたなら、没落した僕を見捨てただろう。……だが、そうならなかった今、僕らはここにいる。だから未来を見ようってね」
聞いたオノレは、コーヒーを盛大に吹き出した。
「げほっ! ごほっ、ごほっ……! あ、ははは! 君、本気で、大真面目にそれを言ったのかい!?」
「何がおかしい。事実だし、論理的だろ」
「まあ、論理的だよ。王妃という存在が、一介の没落男爵を贔屓にできるわけがないからね」
「だろう?」
「だが、代わりに。君は“女心の算数”を数百桁単位で間違えてるね」
「女心は……算数で解けるのか? 頼む、その公式を教えてくれ!」
「……感動した顔をしないでくれ、今の皮肉が理解できない時点で、もう手遅れだよ」
オノレはハンカチで口元を拭い、哀れむような目を向けてきた。
「『君が正しく輝いていたなら、僕を見捨てていたはずだ』と宣告するのは……リュシエンヌにとって“今の自分を支える過去の善性”を、否定されたも同然じゃないのかい?」
「そんなつもりじゃないっ! 王妃となったリュシエンヌがそのように判断しても、立場上、正しいことだ!」
「ああ、そういうことか。……君は、リュシエンヌに見捨てられても『立場上仕方ないね』と笑って許せるから言えるんだな。実に問題だ」
「……何が問題なんだよ」
僕は、首を傾げた。
「アスタ。俺もまた、君にどう説明していいかわからない。今のリュシエンヌは、君を拠り所にしている。わかるかい?」
「ああ、さすがにな」
「そして、君は自分が安泰でも、リュシエンヌのために立場を危うく出来る」
「……今はな」
「でも、リュシエンヌは、かつての自分が、今の君がしてくれるほどには尽くせなかったと――そんな不均衡に気付いてしまった」
「そりゃ当然だろう。だって、王妃候補だぞ? あの
オノレは、もうつける薬がないと首を左右に振った。
「わかった、こうしよう。もし話せる機会があったら、正直に、君の胸の奥にある
「
「君がこの二年間、ずっと心臓を焼かれ続けてきた、あの後悔を」
「…………なぜ?」
僕の、唯一と言っていい……ないものねだり。
もしも、あの弾劾の日に、僕が立ち上がっていれば。
領民も、立場も、未来も。
なにもかもを、殴り捨てて。
三代目サキオン以来。
「ヤバマーズはやっぱり色ボケの血筋だ」と国民から親族たちにまで、軽蔑される覚悟さえあれば。
僕は――すべてを投げ打ってでも、リュシエンヌの手を取るべきだった。
当時、
「たぶんね、アスタ。君が語るべきなのは未来じゃなかった。今も疼いている、『臆病だった過去の告白』だ」
「……僕の不実を。臆病さを伝えろ、と?」
「たぶんね。かといって……仲直りできる保証も、関係が良くなる保証もないんだが」
「……今の僕は、あんな後悔をしないように、ようやく前を向こうとしていると言うのに?」
「でも、リュシエンヌは……それを知らない。だから、不均衡に見えている」
不均衡。
まるで、意味の分からない理屈だった。
僕には読み解けない、女心の方程式。
「アスタ。きっと、その後悔を知ってさえいれば。君の、例え話は……より、違った響きで聞こえたはずだよ。リュシエンヌの心にね」
結局、何も理解できないまま。
出されてしまったのは、途方もなく恐ろしい宿題。
(もし、今度こそ軽蔑されたら。……僕は、どうしたらいい? ああ、でも。もしかしたら――)
どうにも僕が、誰かの裏切りについて責める気になれないのは。
僕自身が、「何もしなかった」という最大の裏切りを犯した自覚が、あるからだ。
果たして、僕には――彼女の傍にいる資格があるのか?
オコトギを思い出す。
もしかしたら、僕は……裏切りを、裁かれるべきなのかもしれない。
他にでもない、リュスに。
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