――あ、死んだ。
思えば、常に崖っぷちの人生だった。
錬金術の実習中、フラスコが爆発して大やけどしたり。
性格のねじ曲がった老教授に、街中での公開議論を挑まれたり。
四面楚歌、味方ゼロで、この呪われた男爵家を継ぐ羽目になったり。
飢え死にしかけて毒物を食べて、生死を彷徨ったり。
ヤバマーズを滅ぼそうとする、強大な魔物と対峙したり。
だが断言する。
今この時ほど、全細胞が「逃げろ」と絶叫したことはない。
ああ、彼女が間違いなく、僕の憧れ“貴婦人リュシエンヌ”であったとしても。
同時に間違いなく、
数多の魔を屠り、絶望の淵から血反吐を吐きながら這い上がった――その激情と覚悟の化身。
「リュス、落ち着け。まずは深呼吸だ。話せばわかる」
結論。
魔人より、この状態のリュスは数百倍は怖い。
「深呼吸……。はい、しております。冷たい空気が、この肺に染み渡りますね」
「えっ、言うほど今日、空気冷たいかな!?」
どっちかって言うと、湿度が凄い気がする。なぜか。
「はい、とても冷たいですよ」
「そ、そうか」
「ですが……胸の奥でドロドロと燃え盛る火は、一向に消えそうにございませんね」
「気象の問題じゃなくて、リュス自身が熱くなってるんじゃんっ!?」
「そう、かもしれませんね」
カツン、と。
リュスが、一歩、踏み出す。
「ええ、わたくしが熱いのです。考えるだけで」
「えと、何を考えたのかな?」
「……貴方様が、お好みの装いをあれほど情熱的に、誰かに強要なされたということが」
「お好みとか、僕の趣味とかじゃないっ! 戦術的必要性だっ!?」
「ああ、そうですか。ならば、わたくしは戦力外通告……いえ、それ以前の、対象外だと?」
「似合わないと言ったのは! 貴女が、その……あまりに高潔で、そんな卑俗な服装に、身を落とすべきではないという敬意からであって――!」
必死の弁明。
だが、今のリュスには、その“敬意”こそが不愉快らしい。
「敬意、ですか。……アスタ様は、今のわたくしを何者だと思いですか?」
「え?」
「今のわたくしは、着飾った淑女でも、高貴な公爵令嬢でもありません」
「いや、違う。そんな風に自分を貶めるな! 本当の貴女は誰よりも――」
「本当のわたくしなど、誰も知りません。……この世に存在しているのは、今、ここにいる、わたくしだけです」
「……ええと、そうだな。その通りだ、君が正しい。でも、僕が言いたいのは……」
いつもなら、悪知恵も、屁理屈も、いくらでも頭が回るのに。
リュスには、それがまるで出来なくなってしまう。
……どうしてなんだろう?
「本当は……その、リュスに似合わないとか、そういう意味じゃないんだ」
「では、似合うと?」
「……えと、うん。でも、着てほしくない。あんな下級の、労働記号を、貴女に
「解釈」
「……うん、解釈」
「つまり、わたくしは自身の在り様を。アスタ様の
あ、これアカンやつだ。
論理が、明後日の方向に加速している。
(違うんだ、きっと貴女は何を着ても美しい! ぼろ布でも陰ることはないっ! でも、下級使用人の格好なんて、
頭でグルグル回る、本音、建て前、崇拝心。
でも、これを言ったら、リュスが今度こそ爆発する気がした。
なにを言っていいのか、まるでわからないっ!?
「結局、否定なさいませんのね……」
リュスの瞳が、ますます濁っていく。
ああ、まずい、まずい、まずい。
沈黙を肯定ととられた。なにも言わなくても、ダメなやつだ?!!
「アスタ様。わたくしは、受け入れます。……たとえそれが、幼く見える客人にメイド服を纏わせるという、歪な性癖であったとしても」
「だから趣味じゃないって言ってるだろ! 冤罪だ!」
「いえ、わかっております。わたくしには無邪気に笑うことも、無垢に甘えることも出来ません。……殿方の顔を立てられない可愛げのない女です」
違う! 断じて違うっ! 逆だ、逆なんだよリュス!
僕は、媚びて欲しくなんかないんだよっ。ただ、そこに凛とあってくれればいいんだ!
ヤバマーズの血よ、先祖たちよ。
なんで、こういう女性の取り扱いに関しては、まったく働かないんだよっ!!!
僕がどうしたらいいのか、こういう時に囁けよぉぉおおっ!
女心の公式を、カンニングさせろよぉぉぉっおっ!
***
一方、その頃。
戦慄の修羅場と化した廊下から、後ずさる二つの影があった。
「……ヘイホー、今のうちっす」
「言われなくてもわかってますよ……っ!」
メイド服の裾を必死に抑え、忍び足で逃げるジル。
続く、ヘイホーが
「アスタ先輩には悪いっすけど、尊厳破壊より命の方が大事っすからね」
「はい、ボクも同感です」
「……うちが言うのもなんすけど、仕えたばかりの主君を見捨てていいんすか? 家臣になったんすよね?」
「愛人との痴話げんかなんて、ボクが身に着けたマナーでは、対処不能な領域ですからねぇ……。背筋を伸ばして死ぬより、猫背で生き延びる道を選びますよ」
「ずいぶん、素敵な主従関係っす(皮肉)」
「事務官の領分は、盾になることではないので。戦いは、男爵閣下にお任せするものです(大学で習った
「それもそうっすね。――というわけで、あばよっす。アスタ先輩っ!」
二人は目配せ一つ。
すぐさま、合意に達した。
脱兎の如き速さで、裏口へと消えていく。
人の才能は、どこでどう花開くかは、本当にわからぬものだ。
ヘイホーが大学で培った“怖い人の不興を買う前に逃げる能力”は、見事に発揮されている。
そんなヘイホーが、去り際に呟いた。
「アスタ様が大学で発揮した、負けなしの口喧嘩力。……実生活で活かせばいいのに(ボソリ)」
人間、他人のことは何とでも言えるものである。
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