ヤバマーズ ~毒喰らい男爵の人生逆転劇~   作:裃 左右

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第72話 乙女心は、公式のない難問。カンニングさせろよぉぉぉっおっ!(前半)

 ――あ、死んだ。

 

 思えば、常に崖っぷちの人生だった。

 

 錬金術の実習中、フラスコが爆発して大やけどしたり。

 性格のねじ曲がった老教授に、街中での公開議論を挑まれたり。

 四面楚歌、味方ゼロで、この呪われた男爵家を継ぐ羽目になったり。

 飢え死にしかけて毒物を食べて、生死を彷徨ったり。

 ヤバマーズを滅ぼそうとする、強大な魔物と対峙したり。

 

 だが断言する。

 今この時ほど、全細胞が「逃げろ」と絶叫したことはない。

 

 ああ、彼女が間違いなく、僕の憧れ“貴婦人リュシエンヌ”であったとしても。

 同時に間違いなく、祓魔女(エクソシスター)でもあるのだ。

 数多の魔を屠り、絶望の淵から血反吐を吐きながら這い上がった――その激情と覚悟の化身。

 

「リュス、落ち着け。まずは深呼吸だ。話せばわかる」

 

 結論。

 魔人より、この状態のリュスは数百倍は怖い。

 

「深呼吸……。はい、しております。冷たい空気が、この肺に染み渡りますね」

「えっ、言うほど今日、空気冷たいかな!?」

 

 どっちかって言うと、湿度が凄い気がする。なぜか。

 

「はい、とても冷たいですよ」

「そ、そうか」

「ですが……胸の奥でドロドロと燃え盛る火は、一向に消えそうにございませんね」

「気象の問題じゃなくて、リュス自身が熱くなってるんじゃんっ!?」

「そう、かもしれませんね」

 

 カツン、と。

 リュスが、一歩、踏み出す。

 

「ええ、わたくしが熱いのです。考えるだけで」

「えと、何を考えたのかな?」

「……貴方様が、お好みの装いをあれほど情熱的に、誰かに強要なされたということが」

「お好みとか、僕の趣味とかじゃないっ! 戦術的必要性だっ!?」

「ああ、そうですか。ならば、わたくしは戦力外通告……いえ、それ以前の、対象外だと?」

「似合わないと言ったのは! 貴女が、その……あまりに高潔で、そんな卑俗な服装に、身を落とすべきではないという敬意からであって――!」

 

 必死の弁明。

 だが、今のリュスには、その“敬意”こそが不愉快らしい。

 

「敬意、ですか。……アスタ様は、今のわたくしを何者だと思いですか?」

「え?」

「今のわたくしは、着飾った淑女でも、高貴な公爵令嬢でもありません」

「いや、違う。そんな風に自分を貶めるな! 本当の貴女は誰よりも――」

「本当のわたくしなど、誰も知りません。……この世に存在しているのは、今、ここにいる、わたくしだけです」

「……ええと、そうだな。その通りだ、君が正しい。でも、僕が言いたいのは……」

 

 いつもなら、悪知恵も、屁理屈も、いくらでも頭が回るのに。

 リュスには、それがまるで出来なくなってしまう。

 

 ……どうしてなんだろう?

 

「本当は……その、リュスに似合わないとか、そういう意味じゃないんだ」

「では、似合うと?」

「……えと、うん。でも、着てほしくない。あんな下級の、労働記号を、貴女にお仕着せ(リバリー)してしまうのが、その、僕の……そう、僕の、気持ちに反するというか。……解釈違いというか」

「解釈」

「……うん、解釈」

「つまり、わたくしは自身の在り様を。アスタ様の解釈(・・)という枠の外へ出すことは、一切、許されない……そのようなことでしょうか?」

 

 あ、これアカンやつだ。

 論理が、明後日の方向に加速している。

 

(違うんだ、きっと貴女は何を着ても美しい! ぼろ布でも陰ることはないっ! でも、下級使用人の格好なんて、あの(・・)リュシエンヌを貶めたくないからっ! なにより……ヤバマーズなんかの紋章色(リバリー・カラー)なんて、まるで相応しくないからっ!)

 

 頭でグルグル回る、本音、建て前、崇拝心。

 でも、これを言ったら、リュスが今度こそ爆発する気がした。

 

 なにを言っていいのか、まるでわからないっ!?

 

「結局、否定なさいませんのね……」

 

 リュスの瞳が、ますます濁っていく。

 ああ、まずい、まずい、まずい。

 沈黙を肯定ととられた。なにも言わなくても、ダメなやつだ?!!

 

「アスタ様。わたくしは、受け入れます。……たとえそれが、幼く見える客人にメイド服を纏わせるという、歪な性癖であったとしても」

「だから趣味じゃないって言ってるだろ! 冤罪だ!」

「いえ、わかっております。わたくしには無邪気に笑うことも、無垢に甘えることも出来ません。……殿方の顔を立てられない可愛げのない女です」

 

 違う! 断じて違うっ! 逆だ、逆なんだよリュス!

 僕は、媚びて欲しくなんかないんだよっ。ただ、そこに凛とあってくれればいいんだ!

 

 ヤバマーズの血よ、先祖たちよ。

 なんで、こういう女性の取り扱いに関しては、まったく働かないんだよっ!!!

 

 僕がどうしたらいいのか、こういう時に囁けよぉぉおおっ!

 女心の公式を、カンニングさせろよぉぉぉっおっ!

 

 

***

 

 

 一方、その頃。

 戦慄の修羅場と化した廊下から、後ずさる二つの影があった。

 

「……ヘイホー、今のうちっす」

「言われなくてもわかってますよ……っ!」

 

 メイド服の裾を必死に抑え、忍び足で逃げるジル。

 続く、ヘイホーが白目(ピューター)トレイを小脇に抱えて、這いつくばる。

 

「アスタ先輩には悪いっすけど、尊厳破壊より命の方が大事っすからね」

「はい、ボクも同感です」

「……うちが言うのもなんすけど、仕えたばかりの主君を見捨てていいんすか? 家臣になったんすよね?」

「愛人との痴話げんかなんて、ボクが身に着けたマナーでは、対処不能な領域ですからねぇ……。背筋を伸ばして死ぬより、猫背で生き延びる道を選びますよ」

「ずいぶん、素敵な主従関係っす(皮肉)」

「事務官の領分は、盾になることではないので。戦いは、男爵閣下にお任せするものです(大学で習った修辞学(レトリック))」

「それもそうっすね。――というわけで、あばよっす。アスタ先輩っ!」

 

 二人は目配せ一つ。

 すぐさま、合意に達した。

 

 脱兎の如き速さで、裏口へと消えていく。

 

 人の才能は、どこでどう花開くかは、本当にわからぬものだ。

 ヘイホーが大学で培った“怖い人の不興を買う前に逃げる能力”は、見事に発揮されている。

 

 そんなヘイホーが、去り際に呟いた。

 

「アスタ様が大学で発揮した、負けなしの口喧嘩力。……実生活で活かせばいいのに(ボソリ)」

 

 人間、他人のことは何とでも言えるものである。




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