「わたくしは……アスタ様をお慕いしています」
唐突に。
廊下に、ひどくみっしり重たい響き。
「ああ、うん。……ありがとう。前にも、言ってくれたな」
返した言葉が、情けないほど上滑りする。
あの時も、どう答えていいかわからなかった。
今だって、喉がカラカラに乾き、心臓が肋骨を裏側から叩いてくる。
焦り、困惑、そして――。
(ああっ、この会話、誰かに聞かれていたらどうしようっ!? リュスの名誉に傷がつかないだろうか!!?)
この期に及んで、保身にも似た雑念が止まらない。
焦って、きょろきょろと見渡してしまうほどに。
が、ぱたり、と。
冷たい掌が、僕の頬を挟みこむ。
ぐいっ。
抗えない力で固定。
急接近。視界が、影ある美貌で埋め尽くされる。
熱い息が、鼻先に……かかるほどの距離。
「……よそ見を、なさらないでください」
「はっ、はいっ!! すみませんっ!!?」
肌は、驚くほどきめ細やかで、滑らかだ。
「アスタ様は、とても勇敢で義侠心にあふれたお方です。……わたくしのために、立場どころか、命まで危険にさらしてくださいました」
「あ、いや……」
違う、誤解だ。
僕は勇敢なんかじゃない。臆病者だからこそ、策を弄する。
いつだって、また貴女を失うんじゃないかって、震えながら。
(僕は――リュスだから、ここまでしているんだ。他の誰かに、同じことが出来るかと問われたら“否”だ)
君は例外なんだよ、リュス。
貴女を見ただけで、計算なんてぶっ飛んでしまうくらいに。
「実は、わたくし……アスタ様が、特別に扱ってくださっているのだと。傲慢にも、そう感じていたのです」
ドキリとした。
まさに今、考えていた僕の核心。心が丸裸にされたような気がした。
だが、それが錯覚だったのは、続く泣き出しそうな声ですぐ気づく。
「ですが――」
「うん? ……ですが?」
「アスタ様は優しいから。誰にでも、いつも似たようなことを仰っています。ジル様にも、ヘイホーにも」
「そ、そうかなっ!? そんなことないと思うけど!?」
僕は、そんなに安売りする男じゃない、はず。
「もう……一人で、悶々と悩むのに疲れました。はっきり仰ってください」
「なにを、だ」
「わたくしのために、これほどまでに頑張ってくださっているのは。アスタ様がお優しいからで……他の方にもなさる程度のこと、ですか?」
向けられた問いは、あまりに彼女らしく率直で。
自らの逃げ場すら、断つような鋭さを持っていた。
「もし、そうであるなら……もう、割り切ります」
リュスの潤んだ瞳が、底知れぬ深淵へと沈んでいく。
どうしようもない、悲しみと諦観に満ちながら。
「わたくしは、貴方様が手ずから、切りわけてくださる肉を食べ。その
淑女としての距離など、とうに逸脱。
じっとりと、じわじわと。
指先が僕の頬を這い、耳元をかすめる。
「でも、それすら許されないのでしたら――あなた様のお好きなように。どうぞ、解釈されながら生きますから。いかようにでも」
リュスの吐息は、僕の唇に触れ続けていた。
「求める資格がないのなら、それで幸せだと。……そう思うことにしますから」
脳が溶けそうだ。
生々しい、女の、匂い。
清純な公爵令嬢でも、苛烈な
僕が、一生かけても解き明かせない。
女心という名の方程式の――匂いだ。
(議論が通用しないのも当然だ。この女心という変数には、論理も合理性もない。ひどく、ひどく理不尽な方程式なんだ)
その上、沈黙を続ければ、彼女の意思を否定したことになってしまう。
(……どうにも、わからないぞ)
わずかに残った理性。
微かによぎる、オノレの忠告。
『いいかい。女性が“もしも”の話を持ち出すとき――感情の肯定を求めているんだよ』
でも、この感情を肯定して……本当に良いのか?
憧れの女性から、未来を奪うことにならないか?
弱っている彼女を、自分の都合よく閉じ込めようとしているんじゃないか?
どうしようもなく、怖いのだ。
その先に、後悔が待ち構えている気がして。
(でも、今の
本当に理不尽、八方ふさがり。
『
でも、思えば。
僕はもう後悔をし続けていたじゃないか。
未来を奪ったことにではなく――。
領民も、立場も、未来も。
なぜ、なにもかもを、殴り捨てなかったのかって。
「勘違いじゃ……リュスの思い込みじゃないんだ」
僕は、震えながらも、その細い手首を掴んだ。
やはり、冷たい。
だが、気付く。
震えているのは、僕だけじゃなかったんだ。
リュスは、じっと待っている。
ゴクリ。
乾いた喉へと、唾を流し込んでから続けた。
「ジルは優秀な技師だ。ヘイホーは信頼できる事務官だ。……でもな」
僕もまた、顔を近づける。
後頭部を支えるように、変わり果てた黒髪を慈しむように。
「……んっ」
「間違いないぞ、リュス。貴女は僕にとって特別だ」
「本当、ですか」
「ああ、嘘偽りはない。すべてを投げ出してでも、守りたいのは、貴女だけだ」
「――ああっ、そんな……」
僕は臆病だ、逃げていた。
ほら、見ろ。
リュスの頬を涙が伝っている。
彼女は、怖くても。自分の逃げ道を塞ぐことになっても。勇敢に、向き合おうとしているというのに。
「……僕は、サキオンになりたかったんだよ。リュス」
後悔について語るなら、僕はもう手遅れ。
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