ヤバマーズ ~毒喰らい男爵の人生逆転劇~   作:裃 左右

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第73話 乙女心は、公式のない難問。カンニングさせろよぉぉぉっおっ!(後半)

「わたくしは……アスタ様をお慕いしています」

 

 唐突に。

 廊下に、ひどくみっしり重たい響き。

 

「ああ、うん。……ありがとう。前にも、言ってくれたな」

 

 返した言葉が、情けないほど上滑りする。

 あの時も、どう答えていいかわからなかった。

 

 今だって、喉がカラカラに乾き、心臓が肋骨を裏側から叩いてくる。

 焦り、困惑、そして――。

 

(ああっ、この会話、誰かに聞かれていたらどうしようっ!? リュスの名誉に傷がつかないだろうか!!?)

 

 この期に及んで、保身にも似た雑念が止まらない。

 焦って、きょろきょろと見渡してしまうほどに。

 

 が、ぱたり、と。

 冷たい掌が、僕の頬を挟みこむ。

 

 ぐいっ。

 

 抗えない力で固定。

 急接近。視界が、影ある美貌で埋め尽くされる。

 

 熱い息が、鼻先に……かかるほどの距離。

 

「……よそ見を、なさらないでください」

「はっ、はいっ!! すみませんっ!!?」

 

 肌は、驚くほどきめ細やかで、滑らかだ。

 

「アスタ様は、とても勇敢で義侠心にあふれたお方です。……わたくしのために、立場どころか、命まで危険にさらしてくださいました」

「あ、いや……」

 

 違う、誤解だ。

 僕は勇敢なんかじゃない。臆病者だからこそ、策を弄する。

 いつだって、また貴女を失うんじゃないかって、震えながら。

 

(僕は――リュスだから、ここまでしているんだ。他の誰かに、同じことが出来るかと問われたら“否”だ)

 

 君は例外なんだよ、リュス。

 貴女を見ただけで、計算なんてぶっ飛んでしまうくらいに。

 

「実は、わたくし……アスタ様が、特別に扱ってくださっているのだと。傲慢にも、そう感じていたのです」

 

 ドキリとした。

 まさに今、考えていた僕の核心。心が丸裸にされたような気がした。

 

 だが、それが錯覚だったのは、続く泣き出しそうな声ですぐ気づく。

 

「ですが――」

「うん? ……ですが?」

「アスタ様は優しいから。誰にでも、いつも似たようなことを仰っています。ジル様にも、ヘイホーにも」

「そ、そうかなっ!? そんなことないと思うけど!?」

 

 僕は、そんなに安売りする男じゃない、はず。

 

「もう……一人で、悶々と悩むのに疲れました。はっきり仰ってください」

「なにを、だ」

「わたくしのために、これほどまでに頑張ってくださっているのは。アスタ様がお優しいからで……他の方にもなさる程度のこと、ですか?」

 

 向けられた問いは、あまりに彼女らしく率直で。

 自らの逃げ場すら、断つような鋭さを持っていた。

 

「もし、そうであるなら……もう、割り切ります」

 

 リュスの潤んだ瞳が、底知れぬ深淵へと沈んでいく。

 どうしようもない、悲しみと諦観に満ちながら。

 

「わたくしは、貴方様が手ずから、切りわけてくださる肉を食べ。その(リバリ―)に染まりたい。今は、そう生きたいのです」

 

 淑女としての距離など、とうに逸脱。

 

 じっとりと、じわじわと。

 指先が僕の頬を這い、耳元をかすめる。

 

「でも、それすら許されないのでしたら――あなた様のお好きなように。どうぞ、解釈されながら生きますから。いかようにでも」

 

 リュスの吐息は、僕の唇に触れ続けていた。

 

「求める資格がないのなら、それで幸せだと。……そう思うことにしますから」

 

 脳が溶けそうだ。

 生々しい、女の、匂い。

 清純な公爵令嬢でも、苛烈な祓魔女(エクソシスター)でもない。

 

 僕が、一生かけても解き明かせない。

 女心という名の方程式の――匂いだ。

 

(議論が通用しないのも当然だ。この女心という変数には、論理も合理性もない。ひどく、ひどく理不尽な方程式なんだ)

 

 その上、沈黙を続ければ、彼女の意思を否定したことになってしまう。

 

(……どうにも、わからないぞ)

 

 わずかに残った理性。

 微かによぎる、オノレの忠告。

 

『いいかい。女性が“もしも”の話を持ち出すとき――感情の肯定を求めているんだよ』

 

 でも、この感情を肯定して……本当に良いのか?

 憧れの女性から、未来を奪うことにならないか?

 弱っている彼女を、自分の都合よく閉じ込めようとしているんじゃないか?

 

 どうしようもなく、怖いのだ。

 その先に、後悔が待ち構えている気がして。

 

(でも、今のリュス(・・・)は、僕の“敬意ある解釈”こそを拘束のように言う。どちらを選んでも、どう足掻いても、僕が縛り付けているみたいになってしまうんだ)

 

 本当に理不尽、八方ふさがり。

 

(よど)みを。君がこの二年間、ずっと心臓を焼かれ続けてきた、あの後悔を』

 

 悪友(とも)の言うことが、正しいかなんてわからない。

 

 でも、思えば。

 僕はもう後悔をし続けていたじゃないか。

 

 未来を奪ったことにではなく――。

 

 領民も、立場も、未来も。

 なぜ、なにもかもを、殴り捨てなかったのかって。

 

「勘違いじゃ……リュスの思い込みじゃないんだ」

 

 僕は、震えながらも、その細い手首を掴んだ。

 やはり、冷たい。

 

 だが、気付く。

 震えているのは、僕だけじゃなかったんだ。

 

 リュスは、じっと待っている。

 

 ゴクリ。

 乾いた喉へと、唾を流し込んでから続けた。

 

「ジルは優秀な技師だ。ヘイホーは信頼できる事務官だ。……でもな」

 

 僕もまた、顔を近づける。

 後頭部を支えるように、変わり果てた黒髪を慈しむように。

 

「……んっ」

「間違いないぞ、リュス。貴女は僕にとって特別だ」

「本当、ですか」

「ああ、嘘偽りはない。すべてを投げ出してでも、守りたいのは、貴女だけだ」

「――ああっ、そんな……」

 

 僕は臆病だ、逃げていた。

 

 ほら、見ろ。

 

 リュスの頬を涙が伝っている。

 彼女は、怖くても。自分の逃げ道を塞ぐことになっても。勇敢に、向き合おうとしているというのに。

 

「……僕は、サキオンになりたかったんだよ。リュス」

 

 後悔について語るなら、僕はもう手遅れ。




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