シャルルは、慈悲深い聖者のような顔でグラスを空にした。
すぐさま、氷をたっぷり使って冷やされた発泡ワインが、滝のように注がれていく。
「それで? 舞台裏は、万全なんだろうね?」
「はっ。すべては殿下の描かれたシナリオ通りに」
近臣が這い寄って、耳打ちする。
「まず商談には、息のかかった老練な商人どもを潜り込ませました。アスタ男爵が何を並べ立てようとも、奴らが穴を突き、無知な若造の大ボラだと糾弾いたします。一度でも取引能力の欠如が、証明されれば一巻の終わりにございます!」
「ふふ、それはそれは可哀想に。……信用という外套を剥がされては、北風に凍えるしかないだろう」
「左様にございます。元より、ヤバマーズにろくな資産などないことは明白っ! そして……」
近臣の口元が、卑屈な三日月に歪んだ。
「商談が紛糾した頃――屋敷を『盗賊団』が包囲いたします」
「思わぬ偶然。恐ろしい不幸だね」
「いいえ! 領主が無能だから起きた必然、というものですよ。アスタ男爵は怠慢によって、治安どころか領主館すら守れず、招いた賓客を危険に晒すのです」
「そうかそうか、言われてみれば確かに。ならば、自業自得の不徳だ」
「然り! そんな男に、王国は領地を預けるべきでしょうか? 否っ、断じて否っ!」
シャルルは満足げに、ベルベットの椅子へと沈み込む。
「さらに追い打ちを。あの者は前当主の急逝後、未だ陛下への
「……王が遅滞を許しても、免除した訳ではないからね」
「然り。ヤバマーズの地は、未だ王の預かりもの。相続権の剥奪、および王家への直接帰属を命じるには、これほどない格好の理由となりましょう」
伝統ある貴族の椅子から、アスタという異端を蹴り落とす。
王家が領地没収に乗り出すという暴挙も、これほどの失態が重なれば、正当な処置として諸侯に認めさせることができるだろう。
「我が父上も甘いよ。書状一通で、あのような狂犬に猶予を許しているなんてね。……礼儀を知らぬ犬は、懲らしめてやらなきゃ」
楽しげに、シャルルは笑った。
春風のように爽やかに。舞う花びらのように軽やかに。
「とはいえ、あの者を無慈悲に殺すのは忍びないね」
「そうですな。名誉を完膚なきまでに剥ぎ取り、物乞いとして末永く生きながらえさせてやる。……それこそが王族としての慈悲かと」
「ああ。なればこそ――イリリク。君の役目が重要になるんだ」
シャルルの視線が、緊張に肩を震わせている一人の少年に向けられた。
アスタの実弟であり、王国直属軍の若き武官――イリリク・ド・ヤバマーズ。
「アスタが盗賊に怯え、商人に罵倒され、絶望の淵に立たされたその時。颯爽と現れ、領民と屋敷を救うのは、兄の不徳を嘆く“殊勝な弟”……イリリク、君の役目だよ。わかるね?」
「はいっ、シャルル殿下!」
「君の部隊は、偶然、巡回任務で近隣を通った。そこで盗賊を鮮やかに撃退し、混乱を収拾するために屋敷を確保。……あくまで治安維持のためだ、わかるだろう?」
「もちろんです! 王国を守る盾として、不肖の兄に代わり私がヤバマーズを再興し、王家への忠誠を……!」
震える声で少年が跪き、忠誠を誓う。
すると、サロンの貴族子息たちから、わざとらしい喝采が贈られた。
「素晴らしい! まさにヤバマーズに咲いた唯一の良心!」
「家名を汚す狂犬を排し、賢明な弟君が継ぐ。これこそがあるべき秩序というものっ!」
「アスタなどと言う空気の読めぬ不遜な輩は、社交界の汚物でしかないっ!」
大学での学術討論において、数多の令息たちの自尊心を木っ端微塵に砕いてきたアスタ。
彼らにとって、待ちに待った報復の時が来たのだ。
「ああ。多少、彼の頭が回ることは認めよう。……けれど、私がこれから創り上げる新体制、洗練された焔王国には不要だ」
シャルルの脳裏に、不快な記憶が蘇る。
(特に。私が公爵令嬢リュシエンヌを追放してから。……あの者は、いっそう苛烈に容赦がなくなった。実に、不愉快な男だ)
大学でのルールなど所詮は建前。
敷居を一歩出れば、そこは血筋と権力が支配する現実の世界。
アスタを評価していた教授や学生も確かにいるだろう、だが。
「私は、優れた能力を好むけれど……傲慢は美徳ではないからね。礼節は尊ばれるべきだ」
メンツを潰された特権階級たちの結束は、鋼よりも硬い。
「然り然り。シャルル殿下の仰る通りにございます」
「貴族たる者、皆、礼儀と謙虚さを知らねばなりませんからな!」
「生意気な小僧など、新たな焔王国に不要っ!」
粋がった愚者の人生が、王太子の指先ひとつで音を立て崩れていく。
そんな喜劇を肴に葡萄酒を呷る。ああ、実に格別だった。
「イリリクが代官となれば……領地から『不正の証拠』が、山ほど発見されることになるだろうしね」
シャルルは、残酷な子供のように目を輝かせた。
(そうとも。貴様の議論の強さなど、現実には何ら価値がない。私が味わった敗北に、意味などまるでなかったのだと証明してやろう)
実権を握れば、法的な相続無効など赤子の手をひねるより容易い。
シャルルは、ようやく胸が晴れたような気持ちになった。
(あまりに簡単なゲームだ。……目障りだったリュシエンヌを、消した時と比べれば)
だが、場にいた軍家系の子息が一人。
とある問いを投じた。
「恐れながら、シャルル殿下。もし、アスタ男爵が盗賊団へ自ら戦いを挑んだとしたら……いかがなさるのですか?」
無粋だ。シャルルはそう思った。
「多勢に無勢だ、ありえないよ。そう、あの者も勝てぬ戦を挑むほどのバカでは
「それは……男爵の死も想定内、ということで?」
「さてね。それこそ、神のみぞ知る運命の悪戯だろう」
「左様ですか。では、さらに億が一。……男爵が盗賊団を打ち破ったとしたら?」
さすがに、サロンの空気は冷え切った。
それでも表面上、シャルルは穏やかな笑顔を見せたが。
「それこそ、ありえない」
「アスタ男爵は、寡兵で魔人を討ち取った男では?」
「それは違う。魔物を倒すのと、人の軍を破るのは理屈が異なるものだ。第一、客観的に見て、あの者が魔人を討ち取るなどありえぬ。そうだろう?」
然り、然り。
さらには、そこにイリリクまでも追従した。
「兄アスタは、いつもへっぴり腰で、剣から逃げ回るのだけが得意な男です。指揮官として優秀とも聞いたことがない! ただの卑怯者です!」
「実弟が言うのならば、確実だね。……聖戦士の勲功におこぼれを預かっただけだろう」
「そうだと思います! アイツは大声で相手を言いくるめ、机にかじりついているだけのゴミ虫ですっ!」
実弟イリリクの言葉に、ドッと笑い声が弾けた。
軍家系の子息は、ますます肩身を狭くしながらも、もう一つだけ尋ねた。
「……では殿下。協力者によって、盗賊団を退けた場合は?」
「くどい。よしんば破ったところで、外部の協力なくば屋敷も守れぬのなら、それこそ領主たる資格なし! 付け込む隙だと転じ、イリリクを推そう」
その程度のことなど考えているぞ、シャルルは即座に応じる。
シャルル王太子は、議論では負けなしなのだ。
そう、アスタ・ド・ヤバマーズという例外を除いては。
「それにだ。今回の仕掛けには“とっておき”を仕込んであるはずだ。……そうだね?」
「はっ、間違いございません。僻地男爵ヤバマーズ如きには、逆立ちしても抗えぬ戦力差です」
家臣が深く頭を下げ、ようやくサロンに安堵の笑みが戻る。
とうとう、子息は肩を落として引き下がった。
「ならば、問題は起きようはずもないのでしょう」
「無論だとも。不徳な兄から、王権によって領地を回収。忠実な弟イリリクに再封授する。……これでヤバマーズは救われるだろう、かの地には真の清廉が芽吹くことになる」
シャルルはグラスに映る、完璧に整った己を見つめた。
「あの呪われた、けれど資源価値だけは無視できなくなったヤバマーズを……正当なる、我々の管理下に置くとしようじゃないか!」
祝杯を挙げる、華やかなサロン。
だがその影で、戦史を学んできた軍家系の子息たちだけが、拭い去れない胸騒ぎに襲われていた。
確かに、今のアスタは、戦場での功がない若造に過ぎぬかもしれぬ。
だが、それでも、と思う。
戦史上幾度も、数多の敵軍を戦慄させてきた『狂犬ヤバマーズ』の血筋が、易々と
そう一度、頭を
戦争は、チェス盤ではなく。
いつだって、血生臭い迷霧にて行われるのだから。
――開戦の角笛は、もうすぐ鳴らされる。
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