「そうだ、戻りなさい。
「……僕は」
「お前が真に望んでいた安息を授けよう。……その魂に相応しい、正しい価値を刻んでやるから」
これまで人生で受けたなかでも、最大級の肯定だった。
王国最高峰の権威。智の頂点から、正式に認められる立場になれる。
炎蛇眼のゾルジュによる……そんな猛毒めいた誘惑。
僕の渇望を、これほどまでに深く理解した人間が、他にいただろうか。
深夜の図書室、突き刺さる寒空、かじりついた残飯。
ずっと、血を吐く思いで手を伸ばそうとしていた。
あの日々への遅すぎる救済。
(そうだ、今までで一番だ。お前にはそれだけの価値がある、金でも名誉でもくれてやる。……この怪物はそう言ってくれている)
ヤバマーズという呪いを背負わされる前――。
ただの子供だった僕は、ひたすらに祈り続けた。
その答えが今、目の前にある。
願ってもない奇跡。
これに乗れば、領地のみんなだって幸せになれるんじゃないか?
けれど――たった一つ。
たった一つだけ、欠けている。
「嫌です」
「……ほう、今、なんと言ったかね?」
「い・や・だ……と、そう言ったんです」
その美しき檻には、僕の憧れた『光』がいない。
……リュスが、いないのだ。
そして、僕を慕ってくれている人たちも……誰もいない。
ラ・ボアジエ
光も、きっと失われてしまう。
だって、教授にとって……それはどうでもいいことだから。
僕の魂が半分だけ、ぽっかりと欠け落ちたままの未来。
――そこに、これまでの過去が重なった。
僕が、リュスを見捨てた未来。リュシエンヌを見捨ててしまった過去が。
「おかしいな。間違いなくお前が切に望んだ救いであり、渇きを癒やす幸福である。……そう踏んでいたのだがね」
「ええ、なにも間違っていませんよ。……僕を釣る撒き餌としては、これ以上ない最高の一品です」
「ならば、なぜ受け入れようとしないのかね」
「僕に、欲が生じたからです」
「……ほほう?」
ああ、そうか。
ようやく理解できた。
日が暮れようとする今、
「今、わかりました……僕が無理やり、民衆の前に引きずり出された意味が。なぜ、僕に出されたのが――あの理不尽極まりない試験だったのかをっ!」
最悪な学術試験。
日が落ちて、闇に染まっていく王都の広場。
精も根も尽き果てて、喉を枯らしながら挑まされた大討論。
不利なテーゼをひたすら守り抜く戦い。
「そういう……ことだったんですか。ずいぶんと酷い試練を与えてくれましたね、ラ・ボアジエ
けれど、アレは本当に……必要な『通過儀礼』だったんだ。
教授が僕に、俗世への未練を捨てさせるための……修士へと至るための。
「あれで、僕の気持ちにケリをつけろってことだったんだ……?」
どう足掻いても、裁かれる罪人であったとしても。
それが掛け替えのないものなら、無罪だと言い張って守り抜く。
まさしく、だってそれは――っ。
「世の中や自分自身ですら間違っている、そう疑いたくなる不利な
僕は、本当に口先だけの子供だったんだ。
弾劾の日、僕が公爵令嬢リュシエンヌに対してできなかったこと。
不利なテーゼを死守する弁論は――まさに、その過去の清算そのもの。
僕はその試練をやり遂げた。
……意味にも気付かず、やり遂げてしまったっ!
「なにが議論に手を抜くな、だ。偉そうにっ! 僕こそ……僕こそが、公爵令嬢リュシエンヌの危機に、手を抜いていただけだったんだっ!」
この場に、リュスがいるのに思わず口にしてしまった。
僕は、自分自身で証明していた。
その罪の重さを。
本当は、必死になれば救えたはずじゃないか?
努力した僕は最後まで立っていられたのに、なぜ諦めた?
そして、なにより……なぜ、試練の意味から目を逸らしていた?
「僕が、今までのうのうと気づかなかったこと! それこそが最大の罪だっ!」
「おやおや。今さら、あの日が堕ちた夕の果て、『星』が視えたかね?」
「……はい、今さら視えました」
「そうかね」
ラ・ボアジエ
「随分と遅かったのだね、
「ええ、遅かったです。僕は死ぬほど愚鈍だった」
「しかし、もはやお前にそこに立つ資格はないのではないか。その未練を抱え続ける資格が本当にあるのかね? お前にはなにも出来なかったどころか、まるで気付きすらしなかったのだよ」
突き付けられる。
目を逸らせる程度の未練だったろう、と。
捨てても構わない程度の大切さだっただろう、と。
「さあ、高みにおいで。“私はお前を捨てない”よ」
「でもっ! 僕は……それでも領主になって見つけたんですよ、やらなきゃならないことを。誰かに任せるんじゃなくて、自分でやらなきゃならないことなんだって!」
「かつて望んだ安寧は不要だと? 私に任せた方が、大多数の幸福に繋がるやもしれぬというのに?」
「他人任せの大多数? ……そんなの領主じゃないっ!」
今の僕は……ヤバマーズ男爵でいたいんだ。
そう名乗るのに、相応しい男でいたいと思うんだ。
「自分の足と考えで立とうとする奴だけが、領主を名乗っていいんですよ。誰かに尻尾を振って、口を開けて与えられるのを待つような――そんな腰抜けはなるべきじゃないっ!」
「ほほう、ずいぶんと
「いいやっ、僕は雛鳥なんかじゃないぞっ! 僕は羽ばたく! どんな猛毒めいた誘惑だって、もう僕を仕留められやしない! なぜなら僕は――」
そう、なぜなら僕は。
僕はもう誰かに救われるのを待つだけの、無力な子供ではなく。
「――――毒喰らいのヤバマーズ男爵だからだっ!」
与えられなかったという渇きを癒すために、生きてるわけでもない。
大人たちに押し付けられた正義とか、誰かが作った『こうあるべき』という
代わりに……自分で、決めなきゃならないんだ。
たとえ身勝手だと罵られようとも。みんなに迷惑をかけようとも。
僕がどんな領主で、どんな男で在り続けたいかという
「僕だ! 僕こそが、僕を慕ってくれる人々に……居場所と明日をくれてやるっ! 毒を喰らってでも、命を賭して守り抜く。そんな男に、ならねばならないっ!」
すると、老いた怪物はひどく酷薄に嗤った。
「二年前。打ちひしがれたお前に芽吹き、形を成さんとする執着――私はアレを、
「誰かに愛でられて喜ぶ立場じゃないんですよ、男爵ってのはね」
「そうか。……絵空事をとるか、なんたる傲慢」
「その傲慢さと向き合う、明日を信じる勇気が……きっと、僕には足りなかった」
「いいだろう、足掻くがいい。お前が辿る結末を、ここで愉しみに待っていよう」
平然とお茶を啜ると、給仕のヘイホーへ追加の一杯を命じた。
ああ、
俗世の動乱も、僕の葛藤も……なにもかもが。
――パシンッ!
僕は両頬を、力の限り叩いた。
迷う必要などない。用意された安息など、こちらから願い下げだ。
僕が立ち向かうべきは、今なんだ。
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