『村の少年アレン、気づけば勇者への道を歩いていました』   作:アイセ

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村の少年アレン

 朝の空は淡い青色で、雲がゆっくりと流れていた。

 村の畑を抜ける風はやさしく、どこか眠気を誘う。

 アレン・グラナードは、その空気の中を走っていた。

 昨日も寝坊して怒られたのに、今日もまた同じ結果である。

「はぁ……はぁ……絶対またレオンに笑われる……!」

 井戸の前で水を浴び、勢いよく顔を上げる。

 冷たい水滴が頬を滑り落ち、目がようやく起きた。

 今日の村では、王都の兵士が若者たちの体力試験を行う。

 まだ本格的なものではないが、将来戦士を志す者たちは気合いを入れていた。

 アレンは——別に戦士を目指しているわけではない。

 ただ友達に誘われたから参加するだけだ。

「アレーん! 遅いんだよ!」

 広場に着くなり、レオンに笑われる。

「ご、ごめん……!」

「ほんとお前は……まあ、遅刻で怒られても知らねーぞ」

 肩を叩かれ、アレンは情けなく笑った。

 走ったり、木剣を振ったり、押し合いをしたり。

 村にしてはなかなか本格的な試験だ。

 アレンは決して強くはない。

 だけど、ときどき木剣を落としかけた相手を咄嗟に支えたり、

 転びそうな子を助けたりして、逆に兵士を唸らせていた。

「お前……戦うより、人を助けるほうが向いてるんじゃないか?」

「え!? そ、そうなんですか?」

「悪くない資質だぞ。立派なもんだ」

 本人は褒められている実感がない。

 レオンは「ほんと無自覚だよな……」と呆れている。

 試験が終わり、村の人が広場の片付けを始めた頃だった。

 アレンはふと遠くの森に目をやった。

 風に揺れる木々の上——黒い煙が上がっている。

「……あれ?」

 最初は気のせいかと思った。

 でも、煙の筋は確かに太く、ゆっくり空へ伸びていく。

 ただの焚き火ではありえない。

「ねえ、レオン……森、なんか変じゃない?」

「え? どれ……って、煙? 誰か火を使ってるにしては……」

 レオンの声が途切れる。

 同じように気づいた村人たちがざわめき始めた。

「あれ、火事か!?」「いや魔物が……?」

 炭のような匂いが風に混じって流れてくる。

「アレン! 行くなよ!? 危ないって!」

 レオンの制止が響く。

 でもアレンはもう駆けだしていた。

「もし誰かが森にいたら……助けないと!」

「アレン!!」

 背後で叫び声が広がる。

 だがアレンの足は止まらなかった。

 怖い。

 でも、それ以上に——

 胸の奥が熱く、じっとしていられなかった。

 黒い煙が近づくにつれ、焦げた匂いが強くなる。

 森の入口が見えた頃、地面が小さく震えた。

「……なに?」

 木々の奥で、何かが動いている。

 太い枝が折れる音。土を踏みしめる重い音。

 アレンの喉が、ごくりと鳴る。

「……だれか……いるの……?」

 返事はない。

 代わりに、低く響く唸り声。

 森の影の中から——

 黒い姿がゆっくりと現れかけた、そのとき。

 アレンは足を固めた。

 恐怖で震えながらも、退く気配はない。

(来る……!)

 目の前の影が形を現し始め——

 

木々の影が揺れ、黒い形がゆっくりと姿を見せ始める。

 アレンは息を呑んだ。

 四つ足。

 体毛は墨をこぼしたように黒く、目だけが赤く光っている。

 牙は太く、口元から低い唸りがもれている。

「……魔物……だ……」

 実際に見るのは初めてだ。

 話には聞いていた。

 けれど“こんなに大きい”なんて聞いていない。

 足が震える。

 喉が乾く。

 胸が苦しいくらい脈打っている。

 それでも――アレンは逃げなかった。

(もし、森の奥に誰かがいたら……この魔物が向かうかもしれない)

 そんな考えが頭から離れない。

 魔物はアレンに気づいたのか、ゆっくりとこちらへ進んでくる。

 地面が踏みしめられるたび、土が揺れた。

「……っ、ご、ごめん……通して、って言っても……わかんないよね……」

 意味がないとわかっていても、声が出た。

 声が震えて自分でも情けない。

 魔物は低い唸り声をさらに深くし、牙を見せる。

 アレンは後ずさる。

 けれど足は木の根に引っかかって転びそうになった。

「うわっ――!」

 なんとか踏ん張ったその瞬間、魔物が一歩踏み込んだ。

 赤い目が近くなる。

(やばい……! 本当に……!)

 全身が悲鳴を上げる。

 恐怖で動かない。

 本当は逃げたい。

 それでも前を向いてしまう。

(だって……誰かが傷つくのは嫌だから!)

 心の底から出た叫びは声にならない。

 ただ胸の奥で燃えていた。

 魔物が喉を鳴らし、飛びかかろうと体勢を低くする。

「……っ!」

 アレンも思わず身を固める。

 その瞬間――

「アレン!!」

 背後から怒鳴り声が響いた。

 同時に、どこかで草を割る音。

 魔物が一瞬だけ視線をそちらへ向ける。

 アレンも振り返りかけた――が、その隙に魔物が動いた。

「っ来る――!」

 アレンの視界が黒い影で覆われる。

 足がすくむ。

 避けないと死ぬとわかっているのに、体が遅れる。

(――動け!)

 自分の心が必死に叫ぶが、身体は硬直したまま。

 魔物の牙が、迫る。

 鋭い風。

 重たい跳躍音。

 飛沫のように土が散る。

 アレンはただ目を見開いて、迫りくる影を見つめるしかなかった。

 そのとき。

 鋭い木の音が弾けた。

「アレン! 伏せろ!!」

 叫び声と同時に、何かがアレンの前へ飛び込む影があった。

 黒い魔物の体が、別の力に弾かれるように横へ吹き飛ぶ。

 地面に転がる音。

 魔物の怒りの咆哮。

 アレンの心臓は止まりそうなほど跳ねている。

「……え……?」

 目を開けると、アレンのすぐ前に立つ人影があった。

 肩で息をしながらこちらを振り返る。

 手には木の棒。

 村の服。

 怒ったような、でも心配で仕方ない顔。

「お前……なんで一人で来てんだよ、アレン!」

 その人物の名を、アレンは震える声で呼んだ。

「……レオン……?」

 森の空気が張り詰める。

 魔物は体勢を立て直し、二人を睨みつけていた。

 アレンは息をのむ。

(僕……助けられた……)

 まだ立ち上がれないまま、魔物の気配を感じる。

 レオンはアレンを庇い、木の棒を握り直した。

 その背中は、いつもよりずっと大きく見えた。

 だが魔物はまだ終わっていない。

 唸り声が荒く、地面を掘り返すような音を響かせる。

「アレン、逃げ道探せ! 俺が時間稼ぐ!」

「で、でも――!」

「いいから! 早く!」

 レオンの声が震えていることに、アレンは気づいた。

(……怖いのは、僕だけじゃない)

 震えながらも前に立ってくれた。

 アレンのために。

 胸が熱くなる。

(僕も……立たなきゃ)

 アレンはゆっくりと足を踏ん張った。

 魔物が再び、こちらへ向かってくる。

 レオンが木の棒を構え――

 アレンも必死にどこかを見渡した。

 何かないか。

 魔物を止められるもの。

 武器になりそうなもの。

 森の中に落ちているものでもいい。

(何か……!)

 その瞬間、アレンの視線がある一点へ止まった。

 太い木の根元に――

 古びた剣のようなものが刺さっている。

 柄だけが地面に出ていた。

 誰かが落としたのか、古いものなのかはわからない。

(あれ……使える……?)

 魔物が吠える。

 レオンが身構える。

 アレンは決意を込めて、一歩踏み出す。

 ――その一歩が、彼の運命を変えていくとも知らずに。

 

アレンの視線は、木の根元に突き立った古びた剣に吸い寄せられた。

 柄は土に汚れ、刃も錆びている。

 戦える武器とはとても言えない。

 けれど――今のアレンには、それしか見えなかった。

(あれを……取れば……!)

 魔物が再び地を蹴る。

 低い唸り声とともに、レオン目がけて突進した。

「来るぞ、アレン!!」

 レオンの叫び。

 アレンの身体が反射的に動く。

 剣までの距離は短いが、魔物の速度はもっと速い。

 木々の影が揺れ、地面の土が跳ねる。

(間に合え……!)

 アレンは息を飲みながら全力で駆けた。

 転びそうになる。

 心臓が痛い。

 それでも走る。

「レオン! 踏ん張って!!」

「わかってる!!」

 レオンは木の棒を振り上げ、必死で魔物の牙を受け止めた。

 衝撃で腕が痺れ、足が地面にめり込む。

「くっ……!」

 木の棒がきしみ、折れそうになる。

 アレンは手を伸ばした。

 剣の柄に指が触れる。

(届いた――!)

 その感触に安堵の息が漏れた。

 だが、柄は想像以上に重い。

「う……!」

 抜けない。

 全体重をかけても、まるで根が生えているようにびくともしない。

(なんで……!? 今は、抜けてよ……!)

 レオンが押し返される悲鳴が聞こえる。

 木の棒にひびが入り、魔物の牙がさらに食い込む。

「アレン!! 早く!!」

「わかってる……! でも……!」

 アレンは歯を食いしばった。

 怖い。

 泣きたい。

 でもレオンを見殺しにするなんてできない。

(抜け……! 抜けぇッ!!)

 叫びながら柄を握り直し、思い切り引いた。

 その瞬間。

 手の中で、剣がわずかに動いた。

「……え?」

 驚きで力が抜けかける。

 だが、ほんの少し動いたことで気づく。

(抜ける……!)

 アレンは息を吸い、両足を踏ん張った。

 全身の力を腕へ集める。

「頼む……動いてくれ!!」

 ギィッ、と金属の軋む音がした。

 この剣が長く眠っていた証のような音。

 そして――

「――ッ!!」

 剣が、抜けた。

 勢いでアレンは尻もちをついたが、

 手には確かな重みが残っている。

「抜け……た……!」

 その喜びも束の間。

 魔物がレオンを押し倒しかけていた。

「アレンッ!!」

 レオンの叫びが、森の空気を震わせる。

 アレンは立ち上がる。

 足は震えているのに、前へ出る気持ちだけは揺らがない。

(レオンを……守るんだ!!)

 錆だらけの剣を握りしめ、アレンは魔物へ向かって走った。

 踏み込み。

 息を止める。

 魔物の背中が迫る。

「うぁああああああああッ!!」

 気合とも悲鳴ともつかない叫び声が、喉の奥から迸った。

 振り下ろした剣が、魔物の肩口に当たる――

 刃が鈍い音を立て、少しだけ肉を裂いた。

 魔物が苦悶の声を上げる。

 レオンがその隙に体勢を立て直した。

「アレン!! やったぞ!!」

「まだ……まだ終わってない……!」

 魔物は怒りで目を血のように赤く光らせ、

 今度はアレンへ向き直る。

 その殺意に、アレンの背筋が凍りついた。

(次は……僕が狙われる……)

 手が震える。

 足がこわばる。

 それでも剣を離さない。

 魔物は、低く身を沈めた。

 今度こそ――飛びかかってくる。

 風が止まり、森が息をひそめる。

 アレンと魔物の距離が、一気に縮まる。

 跳ぶ――!

 牙が、アレンの喉元へ迫る。

 その瞬間。

 森の奥から、鋭い金属音が響いた。

 何かが飛んできた。

 キン、と魔物の額に当たり、軌道を逸らす。

「……え?」

 アレンは目を見開いた。

 魔物も混乱したように体勢を崩す。

 レオンが叫ぶ。

「誰だ!? 今の――!」

 アレンは、魔物越しに森の奥を見つめる。

 木々の影に、一つの人影が立っていた。

 フードを深くかぶり、姿はよく見えない。

 だけど――確かにアレンたちを助けた。

 人影が、静かに手をあげた。

 まるで「下がれ」と示すように。

「……だれ……?」

 アレンは思わず呟く。

 森の緊張が、さらに高まった。

 魔物はまだ倒れていない。

 人影は正体不明。

 アレンは剣を握りしめたまま、息を止める

 

木々の奥にぼんやりと立つ人影は、微動だにしなかった。

 フードの奥は暗く、顔は見えない。

 だが、その静けさだけで魔物の警戒を引きつけているようだった。

 魔物は低い唸り声を漏らすと、わずかに後ずさる。

 アレンとレオンは、息を呑んだまま動けない。

「アレン……あれ、村の人か?」

 レオンが震える声で問う。

「わかんない……でも、助けてくれたのは確かだよね……?」

 アレンは剣を握りしめた手に汗を感じながら答える。

 しかし、相手が味方かどうかはまだわからない。

 人影がわずかに腕を動かした。

 その仕草ひとつで、魔物が強く反応する。

「……!」

 魔物の耳が伏せられ、背中の毛が逆立つ。

 威嚇しているのか、恐れているのか判断できない。

 だが次の瞬間――

 人影は静かに地面を蹴った。

 ふっと風が抜ける音。

 影が一瞬で近づく。

「は、速っ……!」

 レオンが目を見開く。

 アレンも息を止めた。

 その動きは、まるで風そのもののようだった。

 村の大人たちでも真似できない速度で、魔物の前へと滑り込む。

「ガアアアアッ!!」

 魔物が大きく口を開く。

 牙が闇の中で光る。

 だが――人影は小枝ほどの細い棒を魔物の懐に突き入れた。

 力任せではない。軽い動き。

 けれどその一撃で、魔物が大きくよろめく。

「えっ……!?」

 アレンもレオンも、声にならない声を漏らした。

 魔物は苦しげに唸りながら後退した。

 その隙に人影はすっと後ろへ下がり、両少年から見える位置に立つ。

 アレンは恐る恐る呼びかけた。

「あ、あの……助けてくれたんですか?」

 人影はすぐには答えなかった。

 森の風が、布を揺らす。

 ようやく小さく顎を動かし、

 言葉になるかならないかの声が返る。

「……下がっていろ」

 低い声だった。

 大人か若者か、判断がつかない。

「危険だ。二人とも、すぐ村へ戻れ。」

「で、でも……魔物が……」

「私が止める。お前たちは逃げろ。」

 簡潔で、反論を許さない声音。

 アレンは一歩踏み出しかけ――足を止める。

(逃げろって……でも、レオンだって……僕だって、まだ……)

 胸の奥が波打つような感じがした。

 怖いのに、離れがたい。

 身体は震えているのに、足は前へ出ようとする。

「アレン! 言うとおりにしよう!」

 レオンが腕を掴んだ。

「今の魔物、俺たちじゃ勝てねぇよ! 戻らないと!」

「……でも……」

 アレンの視線は、魔物へと向かう人影に吸い寄せられる。

 あの人は強い。

 さっき助けてくれた。

 でも――

(本当に、一人で大丈夫なの?)

 そんな不安が胸に広がる。

 人影は魔物をじっと見据え、わずかに肩を落とした。

 その姿は戦士のようであり、同時にどこか疲れた影も差していた。

(ひとりにしちゃいけない……)

 アレンの胸が熱くなる。

 怖い。

 本当に。

 けれど、“見捨てる”という選択肢だけは、彼の心には存在しなかった。

「……僕も……残る!」

「アレン!? 正気か!? 死ぬぞ!」

「それでも……逃げられないよ!」

 声が震えていた。

 それでも言葉には確かな意思があった。

 人影がわずかに振り返る。

 布の影から、アレンを見つめる気配がした。

「少年。お前はまだ……」

 言葉の途中で、魔物が再び地を蹴った。

「グアァァァァ!!」

 咆哮とともに黒い影が迫る。

「アレン!! 下がれ!!」

 レオンが叫び、アレンの腕を掴む。

 だがアレンは踏ん張ったまま動かない。

「僕だって……何かできるはずだ……!!」

 魔物の迫り来る気配。

 人影の一瞬の溜め。

 レオンの震える声。

 すべてが重なり――

 アレンは錆びた剣を、震える手で構えた。

 その姿を見た人影は、かすかに目を見開いたように見えた。

(あぁ……来る……!)

 魔物が跳ぶ。

 風が裂ける。

 アレンは――目を逸らさなかった。

 そして――その瞬間。

 

 

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