『村の少年アレン、気づけば勇者への道を歩いていました』 作:アイセ
黒い靄は、ゆっくりと、まるで地面から形を掬い上げるように姿を整えていった。
まず腕のような影。
次に、揺れる脚のような影。
顔にあたる部分は黒い空洞のまま、何かがこちらを睨むように揺れている。
レオンが息を呑む。
「……やっべぇ……本当に形になってきてる……!」
リュシアは剣を前に構え、目線をそらさない。
「アレン、深呼吸しろ。お前の胸の光を意識しろ。
あれは“ただの影”じゃない。心を揺らせば飲み込まれる。」
「……はい!」
アレンは震える肩を抑えながら、大きく息を吸った。
(怖い……でも……もう引けない……!)
影の怪物は、口のような裂け目を広げて、低い音を漏らした。
それは咆哮ではない。
泣き声でも、笑い声でもない。
ただ――聞いた者の心を冷やす“音”だった。
「アレ……ン……」
「え……?」
アレンは一瞬言葉を失う。
黒い影の空洞が、こちらを向いたまま動かない。
レオンが叫ぶ。
「アレンの名前を……呼んだ!? なんでだよ!!」
「惑わされるな!」
リュシアの声が鋭く空気を裂く。
「あれは“心の影”。
誰かの声を真似して近づくこともある。」
アレンの背筋がぞくりと震えた。
(誰かの……声を……?)
影はアレンに向かって、ゆっくり一歩、また一歩と近づく。
森の地面が、影の周囲から黒く染まり始める。
「来る……!」
アレンは剣を構えた。
足は震えている。それでも退かない。
影が腕のようなものを振り上げた瞬間――
「アレン、右へ!!」
リュシアの叫びと同時に、アレンは横へ跳んだ。
影の腕が地面をえぐり、黒い跡が残る。
「う……わっ!」
転びそうになるアレンを、横からレオンが支えた。
「っと……アレン! 大丈夫か!!」
「ありがと……レオン!」
二人が構え直したその前で、影が再び形を揺らす。
次の攻撃がくる。
アレンの胸が脈打つ。
光が微かに広がる。
(守る……!)
影が再び腕を振り上げる。
「アレン、避けたら次は反撃しろ!」
リュシアの指示が飛ぶ。
「わかった!!」
影の腕が振り落とされる。
アレンは地面を蹴って左へ跳んだ。
腕が地面に叩きつけられ、黒い衝撃が土を広げる。
「今だ!!」
リュシアの声。
アレンは震える足を押して前へ飛び込む。
「うあああああああッ!!」
錆びた剣を、影の体へ叩き込んだ。
刃は深くは入らない。
しかし命中した瞬間――
光が弾けた。
影が苦しげに揺れる。
アレンは息を荒げながら叫ぶ。
「効いてる……! 効いてる!!」
「まだだ、下がれアレン!!」
リュシアの声が追う。
アレンは慌てて後退る。
影はふらつきながらも形を崩さず、再びこちらへ向いた。
今度はさっきよりも速い。
「速いッ――!」
レオンが叫ぶ。
(来る……!)
影の腕が真横に薙ぎ払われる。
咄嗟に避けたものの、風圧だけで身体が吹き飛びかけた。
「ぐっ……!」
アレンは木の根に足を引っかけ、倒れ込む。
「アレン!!」
レオンが駆け寄ろうとしたその時――
影がアレンへ飛びかかった。
アレンは剣を前に突き出す。
光がかすかに漏れる。
(くる……!!)
その瞬間――
「伏せろ!!」
リュシアが影の背後から飛び込み、
鋭い斬撃を叩き込んだ。
黒い影が大きく弾け、形を崩す。
森の空気が一瞬軽くなる。
リュシアは息を荒げながら言う。
「……アレン、よく耐えた。
だが、まだ終わっていない。」
黒い影は散らばったかと思うと――
地面に染み込むように消え、
別の場所でまた形を作り始めた。
「ちょ、ちょっと待てよ……倒しても倒してもキリがねぇじゃん!」
レオンが叫ぶ。
「影は“核”を壊さない限り再生する。」
リュシアが険しい顔で言う。
「核……?」
「どこかに“中心”があるはずだ。そこを断たなければ終わらない。」
アレンは息を乱しながら辺りを見渡した。
目の端に、何かが光った。
(……あれ……?)
影が散った地面の奥。
森の根元に、小さな“赤い光”が瞬いた。
「リュシアさん……!
あれ……!」
アレンが指さした方向に、影の中心は確かに“心臓のように”脈打っていた。
リュシアの目が鋭くなる。
「……見つけた。
アレン、いい目だ。」
影がアレンたちへ向き直る。
その背後で、赤い光が脈打つ。
アレンの胸の灯が応えるように強く鳴った。
(あれを……壊せば……!)
リュシアが言う。
「アレン、行けるか?」
アレンは汗を拭い、震える手で剣を握り直す。
「行きます……!
僕が……!」
レオンが叫ぶ。
「おいアレン! 一人で突っ込むなって!!」
「わかってる……! でも、僕が行かないと……!」
影が唸り、三人へ襲いかかる。
リュシアが叫ぶ。
「アレン! 道はあたしが開く!
赤い光を目指せ!!」
アレンは全力で走り出した。
黒い影と光の中。
胸の奥の灯が、これまでで一番強く輝いていた。
アレンは、息が切れそうなほど必死に地面を蹴った。
森の影がうねり、黒い腕が左右から襲いかかってくる。
「どけぇッ!!」
叫びながら剣を振る。
金属音は鳴らない。影だからだ。
だけどアレンの剣が通るたび、淡い光が弾け、影の一部が散って消える。
(道を……開け!!)
胸の奥の灯が、熱く脈打つ。
それに呼応するように手が勝手に動く。
前方でリュシアが影を切り裂き、短い号令を飛ばした。
「アレン! 右! 影が来る!」
「うっ……!!」
アレンが身を翻すと、右側から伸びてきた黒い腕が地面をえぐった。
避けきれなければ、命はなかった。
「まだだ! 止まるな!!」
「はいッ!!」
心臓が痛いほど走り、足がもつれそうになる。
でも――“赤い光”は確かに目の前にある。
脈打ち、揺れ、影が守るようにその周囲を覆っている。
(あれが……核……!
僕が壊さなきゃ……!)
レオンが背後から叫ぶ。
「アレン、急げ!! 影が増えてきてる!!」
振り返ると、レオンの周囲にも影が溢れ出している。
リュシアも必死に動いているが、押し返しきれない。
(早く……!)
アレンは歯を食いしばる。
“怖い”
“逃げたい”
その本能が何度も喉まで込み上げてくる。
でも――
(守護獣が……レオンが……リュシアさんが……!
僕がやらなきゃ……!)
胸の灯が、さらに熱くなった。
「うおおおおおおおッ!!」
アレンは渾身の力で影の壁に飛び込む。
黒い靄が体にまとわりつき、心を締め付けようとしてくる。
『たすけられない』
『にげだせ』
『おまえにはむりだ』
影の声が耳に響いた。
でも――
「うるさいッ!!」
アレンは叫んだ。
「僕は逃げない!!
守りたいから、ここにいるんだ!!」
剣を振り下ろすと、胸の灯が一気に輝いた。
光が剣に流れ込み、剣身が淡い白光を帯びる。
「……っ!? アレンの剣が……光って……!」
レオンが驚きの声を漏らす。
リュシアも息を呑む。
その目は驚愕と、どこか確信に似た色を宿していた。
「行け、アレン……!」
影の壁が光に押しのけられ、道が開いた。
アレンは赤い光の核へ――腕を伸ばした。
「これで……終わらせるッ!!」
剣を振り上げ、全力で叩きつける――
ガンッ!!
金属のような、石のような音が響き、衝撃が腕をしびれさせた。
だが、割れない。
「っ……!?」
核はびくともしなかった。
(そんな……!)
影が怒り狂うように揺れ、アレンに殺到する。
「アレン! 避けろ!!」
リュシアの叫び。
だが影が速い。
アレンは剣を構える余裕もなく、覆いかぶさる黒に飲み込まれ――
「ぐ……あぁっ!!」
影が胸に入り込もうとする。
冷たく、重く、心臓を握りつぶされるような感覚。
(やばい……!)
身体が動かない。
影の声が頭の中に響く。
『だれもまもれない』
『おまえではむりだ』
『むのう』
アレンの目が揺れる。
(僕……僕は……)
その瞬間。
背後で叫ぶ声があった。
「アレンッ!!!」
レオンの叫び。
「アレン! まだ立てるはずだ!!」
リュシアの声。
そして――
弱りきっていたはずの守護獣が、苦しみながらも咆哮を上げた。
「グアアアアア!!」
三つの声が、アレンの胸に突き刺さる。
(僕を……呼んでる……?
僕を……信じて……!)
胸の灯が、強く強く脈打つ。
アレンは歯を食いしばり、影に包まれた腕を動かした。
「僕は……!」
剣がわずかに持ち上がる。
「守りたい……!!」
叫びと同時に、胸の光が爆ぜた。
影が弾け飛ぶ。
アレンは膝をつきながらも、剣を離さなかった。
赤い核が、脈を速めている。
(壊せる……!
でも、どうやって……!?)
その時。
リュシアが叫んだ。
「アレン!!
“核”は心で断つんだ!!
お前が抱いた“守る覚悟”を――剣へ流せ!!」
「心で……?」
「頭で考えるな!
感じろ!! 胸の灯を――剣へ!!」
胸がまた熱くなる。
影の囁きが遠のく。
(僕の……心……
僕の……覚悟……)
アレンは剣を胸に引き寄せた。
小さく息を吐く。
(守りたい……
助けたい……!
誰も傷つけたくない……!!)
光が剣へ流れ込む。
かつて錆びただけの剣が――淡い白光を帯びた。
アレンは立ち上がる。
「うおおおおおおおおッ!!」
その叫びとともに、剣を赤い核へ叩きつけた。
――パキッ。
小さな音。
続いて、ヒビが走る。
「……割れた……!?」
レオンの驚きの声。
アレンは全力で押し込んだ。
「これで……終われぇッ!!」
光が爆発。
赤い核が砕け散る。
影が苦しむように歪み、黒煙となって空へ散っていった。
森の闇が晴れ、空気が戻る。
アレンはその場に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……っ……!」
リュシアが駆け寄る。
「よくやった……アレン。」
レオンは涙を拭きながら笑った。
「お前、すげぇよ……!」
アレンは息を切らし、ぼんやりと空を見上げた。
(僕……守れた……?
本当に……?)
胸の灯が、静かに優しく脈打っている。
その時、守護獣がゆっくりと近づき、
アレンの頭へそっと鼻を寄せた。
まるで「ありがとう」と言うように。
アレンの目に涙が溢れた。
「よかった……本当に……よかった……」
森に、静かな光が差し込んだ。
だが――
リュシアが森の奥を鋭く睨む。
「……アレン。レオン。
これは“災い”のほんの欠片にすぎない。」
「え……?」
「本体はまだ……遠くで目覚めている。」
アレンの胸が強く鳴る。
「……僕……」
その声は震えていたが、決意が宿っていた。
「もっと……強くならなきゃ……」
リュシアは静かに頷いた。
「その覚悟があれば、道は開く。」
森の風が、三人の周りを優しく通り抜けた。
影の消えた森には、静けさが戻っていた。
さっきまでの冷たい気配は消え、代わりに柔らかな風が吹き抜ける。
アレンはへたり込んだまま、両手を見つめた。
(僕……本当に戦ったんだ……
本当に……守れたんだ……)
胸の奥の灯は、さっきの激しい脈動が嘘みたいに穏やかだった。
リュシアがそっと近づいてくる。
「アレン。」
呼ばれ、アレンは顔を上げた。
リュシアは優しい笑みを浮かべながらも、瞳には深い思索の色がある。
「君が“核”を断ったのは偶然じゃない。
あれは、心を試す試練だ。
恐怖に負ければ影に飲まれた。
覚悟を貫いたから、砕けた。」
「試練……僕の……?」
「ああ。だが――まだ入り口にすぎない。」
リュシアは森の奥を見つめた。
その視線の先にあるものは、アレンには想像もできないほど遠い場所なのだろう。
「災いは、これから深く広がる。
今日の影は、ほんのひと欠片。
本体はまだ目覚めきっていない。」
レオンが背筋を震わせる。
「じゃあ……今日のが弱いほうってことですか……?」
「弱くはない。だが、“あれで終わり”ではないということだ。」
アレンは拳を握った。
(僕が……もっと強くならないと……
村が……みんなが……巻き込まれる……)
リュシアは続けた。
「アレン。君には才能がある。
だがそれ以上に……君には“心”がある。
心こそ、影の災いに抗う唯一の力だ。」
アレンは小さく頷く。
「僕……強くなりたいです。
今日みたいに、守れるように……」
「強くなれる。」
リュシアは断言した。
その言い切る声に、アレンの心が熱くなる。
「ただし――
修行は甘くないぞ。」
「甘くなくて……いいです。
僕……もう逃げませんから。」
その言葉に、リュシアは深く頷いた。
レオンがぼそっと言う。
「……アレン、いつの間にそんなかっこよくなったんだよ……
さっきまで膝ガクガクだったくせに……」
「い、いや……今もガクガクだよ……」
アレンは苦笑いしつつ立ち上がろうとして――
膝が完全に抜けた。
「うおっ――!」
「ほら見ろ!!」
レオンが慌てて支える。
思わず三人とも笑い、緊張が少しほどけた。
その時、守護獣が静かに近づいてきた。
大きな体をゆっくりと低くし、
アレンの前に頭を垂れる。
「……ありがとう、って言ってるのかな……?」
アレンがそう呟くと、獣は鼻を鳴らし、優しくアレンの肩を押した。
「心配するな、という意味かもしれないな。」
リュシアが微笑む。
(僕……この森に認められたのかな……)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
やがて、リュシアは空を仰ぎ、言った。
「そろそろ村に戻ろう。
今日のことを、村長に報告しなければならない。
アレン、お前の修行の準備もな。」
「村長に……?」
アレンは思わず息を呑む。
レオンが肩をすくめる。
「そりゃそうだろ。森で魔物倒して、影砕いて、守護獣助けて……
村の騒ぎになるに決まってる。」
「う、うわぁ……なんか……」
急に現実味が戻り、アレンの顔が赤くなる。
「大丈夫だ。君は間違ったことはしていない。」
リュシアが安心させるように言う。
「それに……
君の進む“道”は、もう始まっている。」
夕日が差し込み、アレンたちの影が長く伸びた。
森の奥では、まだ消えきらない黒い気配が薄く揺れている。
災いの影は確かに退けられた。
だが終わっていない。
アレンの冒険は、ここから本格的に動き始める。
「……行こう、二人とも。」
アレンは立ち上がり、村への道を見た。
「うん!」
「おう!」
三人は歩き出す。
静かな森を背に、
未来へ続く道を踏みしめながら。