ここだけ病弱コハル   作:匿名さん

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その21

「んー! ……ふぅ。長かったですが、ようやく着きましたね……」

 

長時間座り続けて固まった体を伸ばしながら、私は目の前の建物を見上げる。

車に揺られること1時間弱。ちょっとした旅の果てにたどり着いたのは、トリニティの校舎別館。私たち補習授業部の目的地である、合宿の会場だ。

 

「本校舎からは頑張れば徒歩で歩ける距離ではありますが……遠いですね。それでも車を使わせてもらえたので良かったですが」

 

「あはは……車を用意してくれた正義実現委員会の人たちと運転してくれたイチカさんには感謝しないとですね」

 

「その理由を考えると手放しには喜べませんが……」

 

心配そうに私たちが乗ってきたバスの方を見つめるハナコちゃん。私も合わせてバスを振り返る。

合宿に行くにあたり、問題になったのはコハルちゃんの体力面。途中までは電車が通ってるし、残りの距離も、本人は「大丈夫、それくらいなら歩けるから」と笑って言っていたが、どうあがいても普通の人より時間がかかる上に、コハルちゃんはそれを気に病んで間違いなく無理してしまうだろう。かといって車を個人所有してる人は流石にいなかった。ティーパーティーに車を出してもらえるか聞くべきか悩んだり、アズサちゃんが車を調達してくると飛び出しそうなのを止めたりしている最中、コハルちゃんの携帯に連絡があって……正義実現委員会から、マイクロバスとその運転手が手配されることになり。コハルちゃんと、そのおまけで私たちも送迎してもらえることになったわけだ。

 

しかし、まさかイチカさんが大型免許を持っているとは思わなかった。てっきりロボットの運転手さんでも雇ったのかなと思っていたら、当日「お待たせしたっすねー」なんて言いながらイチカさんがマイクロバスを運転してきたものだから、コハルちゃんと二人目を白黒させてしまった。割となんでもできそうな人だなとは思っていたけれど、バスの運転までできるとは。驚いたが、ハンドルを握るイチカさんの姿はだいぶ様になっていた。

 

そんなイチカさんは今、バスの中で他二人と共にコハルちゃんの様子を見ている。アズサちゃんは「偵察に行ってくる」と装備だけ整えて先に合宿所に入ってしまったので、残るは先生と、今朝方合流してきた……

 

 

 

「ごめんね、"ハナちゃん"。こんな朝早くから付き合わせちゃって……」

 

「気にしないでください! 正義実現委員会とティーパーティーから連名での正式な依頼ですし……何より、救護騎士団として当然の仕事ですから!」

 

思わず出てしまった私の謝罪に、ハナちゃん……朝顔ハナエは、まさに花が咲くような笑みで返した。

 

朝顔ハナエ。救護騎士団所属の一年生。もう一人の救護騎士団の先輩と合わせて、恐らくこの学園生活で最もお世話になっている人である。

今まで私が救護騎士団に助けられた回数は、もはや指では数え切れないほど。このトリニティで、一番救護騎士団に助けられているのは私で間違いないだろう。その度に、この子には迷惑をかけてしまっている。正直申し訳無さで一杯だ。

 

にも関わらず、ハナちゃんは嫌な顔一つせず明るく接してくれた。それどころかものすごくコミュニケーション能力が高く、気づいた時にはあだ名で呼ぶようになるほど距離が近づいていた。その明るさに、私がどれだけ救われて、気持ちが楽になったことか。……実は、ちょっとした外傷一つですぐ患部を切断しようとする悪癖もあるのだけれど。ま、まあ、人間誰しも欠点の一つや2つはあるから……

そんなハナちゃんは、今回の合宿で私をサポートするようにと言われたようで、今朝私たちに合流してきた。全員強制参加と聞いた時は不安だったけど、流石にティーパーティーも配慮してくれたようだ。にしても救護騎士団の一人を専属でつけてくるとは……

 

「どうっすか? うちのお姫様の容態は?」

 

「イ、イチカ先輩っ!?」

 

そこへ、運転席から移動してきたイチカ先輩が私の様子を見にやってきた。お、お姫様ってまたこの人は……! その呼び方は他の人の前では辞めてって言ったのに……!

 

【お姫様?】

 

ほら先生が反応しちゃったじゃん! 恥ずかしくなった私は思わず顔を両手と羽で隠した。ううう、絶対普段とは別の意味で顔が熱くなってる……!

 

「はい。コハルはうちのか弱いお姫様なんで。なんか、そう呼びたくなる雰囲気あるでしょう?」

 

【確かに、わかる気がする】

 

「せ、先生まで! もう! ……ふぅ」

 

「あー……と、徒歩よりマシとはいえ、長時間車に揺られ続けるのはキツかったみたいですね。体温も高いですし、もう少し休憩しておきましょうか」

 

「い、いや、私はもう大丈夫だから。すいませんイチカ先輩今行きま……っ!」

 

ハナちゃんの言葉に反するように座席から立ち上がった……瞬間、意識がクラっとする。足から力が抜けて崩れ落ち……

 

「っと! あっぶな! ……全然大丈夫じゃないっすね」

 

「あ……ありがとうございます、先輩……すみません……」

 

「こんくらいお安い御用っすよ」

 

すぐさま反応したイチカ先輩が支えてくれた。うう……たかだか1時間程度車に乗ってただけでこうなるなんて、本当に私の体って……情けなさすぎる……。

 

「ああー無理しちゃダメですよコハルちゃん! 車に乗り続けるのって思ったより体力を使いますから、コハルちゃんの体なら尚更です! もう少し、ゆっくりしていきましょう?」

 

ほら先生が座席を倒して横になれるようにしてくれてるので、しばらく楽にしましょうね。

 

ハナちゃんの言う通り、先生が座席をいじって私が横になれるくらいのスペースを作ってくれていた。……うん、正直言うとちょっとキツイし、お言葉に甘えて、少し横になっていようかな。

 

「ありがとうございます、先生。ちょっとだけ……横になりますね」

 

【気にしないで。合宿所の様子がわかるまでは、どのみちここで待機だし。もう皆は中に入ったかな?】

 

「そのはずっすよ。なんならアズサちゃんが先行して入っていきましたし。……まあしばらく使われていないとは言え、ティーパーティーが合宿所に指定するくらいですから。ある程度整備はされてるはずですけどね」

 

……うちの子の状態を知っててこんなんやってんだから尚更っすよ。

 

最後の言葉だけ小さく呟かれたため、私には何を言ったのかさっぱりわからなかった。先生には聞こえたのか、少し困ったような顔をしていたのが印象的だった。

 

 

 

「なんというか……思ったより綺麗ですね」

 

私の感想に、ハナコちゃんは頷いた。

 

「ほとんど使われていないと聞いていましたが……これは、想像以上に……」

 

整備されている、というのが、私とハナコちゃんの共通見解だった。補習授業部の四人……そこに先生と、救護騎士団から派遣されてきたハナエちゃんの二人を合わせて計六人がしばらく生活するには充分すぎる広さの敷地。玄関ロビーは多少の調度品こそ置かれているが、ゴミやガラクタは一つもない。廊下も同上、なんなら手すりまで付いていた。簡易的なキッチンと食堂もピカピカ。よく使うであろう教室は、多少年季が入ってこそいるが机や椅子の足がガタつくこともない。

そして今見ている寝室。可愛らしいベッドが人数分整えられており、ホコリが溜まっているような様子もない。総じて、合宿所というよりは、それなりのホテルといった様相だ。

 

「これなら、コハルちゃんを連れてこれますね。よかったぁ……ホコリが酷いようなら掃除しなきゃいけませんでしたから」

 

思わずホッと一息。もしも、こんなに広い敷地内を清掃しなきゃいけなかったとしたら……ちょっと考えたくない。

それにしても、ここまで設備が整っているところを貸し出してもらえるなんて思わなかった。これが今まで使われていなかったなんて、トリニティだとしても少々、いやかなり勿体ない気もするが……

 

「いえ、これは……この状態のまま使っていなかったとは、とても……」

 

口に出ていたのか、ハナコちゃんが何かを言いかける。しかし、私の視線に気づいてか、ハナコちゃんは笑みを浮かべて「なんでもありません」と誤魔化した。

 

その時、寝室の扉が開き、先に偵察に出ていたアズサちゃんが素早く入ってきて扉を閉めた。ああも音を立てずに扉を閉められるのは何気にすごいと思う。

 

「偵察は完了した」

 

「あ、アズサちゃん。お帰りなさい。……どうでした?」

 

「うん。本校舎からはかなり離れてるから、狙撃の心配は無さそう。外への入り口が2つだけなのもいい。いざという時は片方を塞いで、1Fの体育館に誘導して殲滅戦……という流れが、理想的」

 

「あ、あはは……そういうことを聞きたかったんじゃないんですが……」

 

「? まあ、いくつかセキュリティ上の欠陥も見つかったけど、改修すれば問題ない範囲かな。……そしてここが兵舎……いや、居住区か。かなり綺麗だな。こんな施設を使わずに放置していたなんて、無駄遣いの極みだ」

 

ア、アズサちゃん……私たちは勉強しに来たのであって、戦争しに来たのではありませんよ……? 色々とツッコミどころが多々あったが、キリがないので口には出さない。が、最後だけは同意する。見たところかなり設備が整っているというのに……やはり勿体ない。

 

「……まあ、アズサちゃんも問題ないと言うなら、コハルちゃんを連れてきても大丈夫そうですね」

 

「うん。少なくともトラップや爆発物が仕掛けられてる可能性はないと思う。そういう箇所は重点的に潰しておいた」

 

「で、では連絡しましょうか。コハルちゃん、移動だけでかなり疲れてるみたいでしたし。……よし。今日は初日ですから、荷物の整理など各々の準備期間として、明日から補習授業を頑張ることにましょう!」

 

了解した。早速コハルに伝えて来る。

 

え? アズサちゃん!? 連絡なら携帯で……

 

コハルちゃんの元へと駆け出していったアズサちゃんを追って、私も寝室を出ていった。残ったのはハナコちゃん一人だけ。

 

「……しばらく使われていないにも関わらず、整った設備……年季の入った廊下に比べて、真新しい手すり……そして極めつけが、これ」

 

寝室の片隅に置かれた機械……ミレニアムのロゴが入った最新型の空気清浄機を撫でながら、ハナコちゃんが何か考え込んでいたことを、私は知る由もなかった。

 

「明らかに、私たちが来る前に一度、業者の手が入っている……コハルちゃんへの配慮? にしても、ここまでするならばそもそも合宿を不参加にすればいいだけでは……なぜこんなにもチグハグなことを……」

 

一体、何を考えているんです。ティーパーティー……ナギサさん。

 

 

 

コハルちゃん達に連絡してからしばらくして。私たち補習授業部と+2名は、改めて合宿所に入り込んだ。一週間を過ごすだけあってか、各々それなりに荷物が多い。運び込むのが少しばかり大変だった。イチカさんも運ぶのを手伝ってくれたが、これから予定があるそうで先に帰ってしまった。忙しい中本当にありがとうございました。

 

「とりあえず、コハルちゃんのベッドはこれで。窓の前ですから、一番風通しがいいですし、何より空気清浄機の傍なので」

 

「お気遣いありがとうございます。ハナコさん」

 

「ヒョエッ……ごほん。いえたいしたことではありませんので……いやほんとにマジデ……」

 

コハルちゃんの笑顔を直視して初日からノックアウトされそうな人が一人いたがいつものことなので割愛する。そろそろ慣れてもいいんじゃないでしょうか、ハナコちゃん……。

 

コハルちゃんは持っていたいつものカバンを降ろして、ベッドに腰掛けた。やはり疲れていたのか、ふぅと一つため息を吐いて肩の力を抜いている。

意外なことに、一番手荷物が少なかったのはコハルちゃんだった。薬がたくさんあると聞いていたので、その分嵩張るかと思っていたのだが。どうやら寝巻きと下着と制服2着、あとは参考書と必須の薬だけ持ってきたようだ。服が少ないのではと思ったが洗濯で間に合わせるとか。あまり物を持たない性格なのかもしれない。

 

「……? あれって……」

 

その時、コハルちゃんが窓越しに何かを指差した。釣られて窓の外を見る。

 

「ああ、プールですね。結構大きい……」

 

「もともとは夏場の避暑地として使われていた時期もあったそうですから。昔は使われていたんでしょうね」

 

復活したハナコちゃんが補足情報を入れてくる。最近は復活するのが早くなったようで何よりだ。できればそもそも倒されないでほしいのだが。……無理か。

 

「……ただ、結構汚れてるみたい」

 

「そうですね、ここからでもわかるくらいには……」

 

長年使う人がいなかったことを示すかのように、大きなプールには全体的に泥がへばりついていた。枯れ枝や葉っぱなどの堆積物も所々に点在している。別館そのものはかなり綺麗だった分、あそこだけ別の空間のようだ。

それに思うところがあったのか、コハルちゃんはどことなく悲しそうにプールを見つめていた。

 

「……もしかして、入りたいですか? プール」

 

「え? い、いや、そんなことは……水着も持ってないし……それに私、そもそも泳げないから……」

 

「あ……」

 

――しまった。迂闊な発言をしてしまった口を思わず手で塞ぐ。

アイリちゃんからの長ーい情報の中に書いてあった。コハルちゃんは生まれてから一度も泳いだことがない。というか泳げない。故に、水泳の授業は全て見学。プールに入ったこともなければ、海に行ったことすらないらしい。本人はしょうがないと諦めているそうだが……一度だけ、海を泳ぐクジラの映像を見た時、こんな風に自由に泳げたら気持ちいいんだろうねと吐露した事があったと。

今更思い出してももう遅い。

 

「ご、ごめんなさい! あまりにも配慮が足りてませんでした……」

 

「いやいいの。気にしてないから大丈夫。むしろ変に気を使わせてごめんね。……ただ、せっかくあんなに立派なプールがあるのに、寂れちゃってるのが、なんだか寂しいなって思っただけだから……」

 

なんとも表現できない目でプールを見つめるコハルちゃん。確かに、今は夏だというのに、プールだけあそこまで汚れてしまっているのは寂しいかもしれない。……よし。

 

「ハナコちゃん!」

 

「……へ? うひゃあ!?」

 

奇声を発するハナコちゃんを無視して両肩を掴む。どうせアンニュイな表情のコハルちゃんに集中して周りが見えてなかっただけだろうからスルーだ。

 

「プール掃除、しましょう!」

 

「……はい?」

 

 

 

「……ふふ。見てください、虹ですよ! 虹!」

 

ハナコちゃんの持ったホースから水が噴出し、空気中に虹を作り出す。よく晴れた青空にそれはとても映えていて、ハナコちゃんの優れた容姿と相まって一枚の絵になるほどだった。タイトルを付けるならば、さしずめ『童心』だろうか。

 

「わぁ〜、綺麗ですね」

 

日差しを遮るために立てられたパラソルの下、麦わら帽子をかぶったコハルちゃんがパチパチと拍手していた。それに得意げになったのか、ハナコちゃんが噴出量を増やす。……間違ってもコハルちゃんには向けないでくださいね、それ。誤って水を被ったりしたら間違いなく風邪ひくので。まあ先生とハナエちゃんが傍にいるから大丈夫でしょうが。

そんな微笑ましいやりとりの横で、ひたすらホーキ掛けする影が一つ。

 

「……うん。このブロックは完了した。続けて次のブロックへ向かう」

 

「アズサちゃん! 足を滑らせないようにだけ、気をつけてくださいね!」

 

「大丈夫だヒフミ。足場の悪い地域でも問題なく活動できるよう訓練を積んでいる。この程度よゆ「あ」わぷっ!?」

 

あ、ハナコちゃんが調子に乗って水量を増やした水がアズサちゃんを直撃した。哀れ小柄なアズサちゃんは水の勢いに押されてすってんころりん。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「ご、ごめんなさい! 周りが見えていませんでした……」

 

「……いや、問題ない。警戒を怠っていた私が悪かった」

 

「大丈夫アズサ? 頭打ったりとか……! ……っ」

 

心配して声をかけたコハルちゃんが突然動きを止めて顔をそらした。え!? まさか発作!?

 

「コハルちゃん!? 大丈夫ですか!?」

 

「……ぷふっ。ご、ごめんなさい。笑っちゃいけないんだけど、今のアズサ、汚れがついちゃって……もともと白いからなんだかパンダみたいだな〜って思ったらつい吹いちゃって……」

 

クスクスと可愛らしく笑うコハルちゃん。その様子を真剣な目で傍で見つめていたハナエちゃんが、笑みを浮かべて両手で丸を作る。どうやら大丈夫なようだ、よかった。

それにしてもパンダ……確かに、言われてみれば、今のアズサちゃんは真っ白な体に所々黒い斑点がついてしまっている。片目とか大きな黒い跡がはっきりと……きょとんとした顔も相まって、山海經固有の熊に見えなくもない。

 

「……? パンダとはなんだ?」

 

「パンダっていうのはね……ふふっ……あ、後で教えてあげるね。ごめんなさい」

 

ツボに入ってしまったのか、小さく笑い続けるコハルちゃんに、アズサちゃんは疑問符を浮かべるばかりだった。

 

「……まあ、大事がなくてよかったです。ね、ハナコちゃ……」

 

「――PRECIOUS」

 

「ハナコちゃん!?」

 

コハルちゃんの可愛らしい仕草を見てしまったハナコちゃんは哀れツチノコのような珍妙な怪生物と化してしまっていた。

せめて変形するなら物理法則に従ってくださいハナコちゃん!

 

 

 

ドタバタしながらもプール掃除をすることしばし。日が暮れそうな頃には、掃除自体は完了した。しかし……

 

「うう……水が満ちるまで時間がかかることを失念してました……」

 

これだけ大きなプールだ。水が入りきる頃には恐らく日もとっぷりと暮れて夜になっているだろう。せ、せっかく掃除したのに……

 

「……ごめんなさい、ヒフミ先輩。私が気になっちゃったから……掃除もほとんど手伝えなかったし……」

 

「え!? ああいえいえ、気にしないでください! もともとは綺麗にすることが目的だったので、それ自体は達成してますから!」 

 

というかコハルちゃんを手伝わせるのは流石に無体が過ぎる。無理して変なことになっても困るので大人しくしててもらって正解だ。

 

「vanitas vanitatum, et omnia vanitas……やはり全ては虚しい……」

 

「! それって……古代の」

 

アズサちゃんが呟いた言葉に、コハルちゃんが反応した。

 

「? ばに……なんです?」

 

「『vanitas vanitatum, et omnia vanitas』。古代から伝わる言葉ですね。訳すならば、『なんという空しさ。すべては空しい』……といったところでしょうか」

 

私の疑問に、人に戻ったハナコちゃんが解説してくれる。うーん、なんというか、すごく後ろ向きな言葉ですね。

 

「有名な訳し方だけど、私はちょっとネガティブ過ぎるように感じて好きじゃないかな。『空の空、すべては空である』のほうが、抽象的だけど変に歪んでない気がするから、そっちのほうが私は好き。古書館の本の受け売りだけど……」

 

……あ、ごめんなさいハナコさん。でしゃばっちゃって……

 

はえ? あ、いえ……むしろそちらの訳し方を知っているのが、個人的には驚きでして……その……

 

コハルちゃんに話しかけられた途端にしどろもどろになるハナコちゃんはさておき、なるほど、古代語だから訳し方にも解釈がいくつかあるのか。

 

「一応解説すると、この言葉の意味は『努力は無意味だし人生は虚無で世界は不条理に満ちている。――だからこそ、人は世界に執着するのではなく、かといって世界から逃げるのでもなく、主を畏れつつも謙虚に慎ましく生きるのが本分だ』って言ってるの。要するに、人生ほどほどに生きようね! ってこと。一般向けに要約するとね。……正直、トリニティ全体やシスターフッド内でも解釈が分かれてるから、鵜呑みにするのもアレだけど」

 

コハルちゃんの解説にへーとなる。あれ? となると今アズサちゃんが言ったのはかなり後ろ向きな捉え方をしているということに……?

そう思ってアズサちゃんを見ると――

 

「――」

 

アズサちゃんは人生で一番衝撃を受けたような顔をしていた。え? どうしたんですかアズサちゃん? ……泣いてる!?

 

「……コハル。今の話は、本当なのか?」

 

「え? う、うん。さっきも言ったけど、解釈が分かれてるから一概にこれが正解とは言えないけど……どうしたの、アズサ?」

 

「……そうか。――全てが虚しいだけでは、なかったんだな」

 

「ア、アズサちゃん?」

 

ぐしぐしと袖で顔を拭ったあと、まるで憑き物が落ちたかのような、透明感のある表情をするものだから、私はなんだか心配になって声をかけた。

 

「なんでもない。私の考えが正しかったことが証明された。それだけ。……さあ、もうだいぶ暗くなってきた。明日に備えて、もう中に入ろう」

 

「え? あ、はい。それもそうですね。気温も低くなってきましたし、コハルちゃんが風邪を引いたら大変ですから。行きましょうか」

 

【コハル。カーディガン持ってきてあるからこれ羽織ってみて】

 

「あ、ありがとうございます。先生」

 

夜の帳が下りて肌寒くなってきた中、ぞろぞろと皆で別館へと戻る最中、プールの方を振り返ったアズサちゃんが、ポツリと何か呟いていた。

 

「――vanitas vanitatum, et omnia vanitas……だとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない。……私は、間違ってなかったよ。皆」

 

 

 

「皆さん、今日はお疲れさまでした!」

 

「お疲れ様」

 

「お疲れ様です」

 

「お疲れ様でした! コハルちゃんもお疲れ様です!」

 

「みんなお疲れ様でした……と言っても、私なんにもしてないけど」

 

「そ、そんなことないですよ。コハルちゃんがプールに気づかなければ、こうして窓越しに綺麗なプールをみることもできませんでしたし」

 

自虐し始めたコハルちゃんをフォローするように、窓を指し示す。プールサイドの照明に照らし出されたプールは、夜間でありながら水面が煌びやかに光っていて、とても幻想的だった。実際に入れはしなかったけど、この光景を見れただけで掃除した甲斐があったと思う。

 

「そう? ……ならいいんだけど……ん……」

 

喋っている最中にコハルちゃんが首をカクン、ともたげた。隣りにいたハナエちゃんがすかさず支えて、コハルちゃんの様子を見る。

 

「……うん。長時間移動後にプール掃除の様子を見てって、結構ハードなスケジュールでしたから、もう体力が限界近いみたいですね……コハルちゃんはここらで寝かせてあげたいんですが、構いませんか?」

 

「わ、私は大丈「全然構いませんよ。というか私たちも明日から勉強合宿に力を入れなきゃなので、ここでお開きにして寝ましょうか」うぇっ」

 

「賛成。明日に響くし、そろそろ寝よう」

 

無理してそうなコハルちゃんの発言を食い気味に制して、皆就寝する流れに持っていく。アズサちゃんも賛同してくれて、その場の流れは決まった。

 

「さあコハルちゃん、夜のお薬を飲んで寝ましょうか」

 

「う、うん。……あの、ハナちゃん。薬飲むくらいは私一人でもできるから、何もそこまでお世話しなくても……」

 

「そんな事ありませんよ。というかコハルちゃんは追い詰められないとなかなか人を頼ろうとしないので、この合宿中くらいは私に頼ってください。専属ナースなので!」

 

「結構人を頼ってる方だと思うけど、私。ね、ヒフミ先輩。……あれ? ヒフミ先輩?」

 

コハルちゃんから同意を求められたが、「あはは……」と笑って誤魔化しておく。コハルちゃん、貴方、かなり自分より他者を優先しがちですよ……。心情的にはハナエちゃんに全面同意です私は。

 

「ヒフミ先輩!?」

 

「ほーら、わかったら大人しくお薬飲んで寝ましょうね。こちらお水です!」

 

「……ありがとう」

 

ちょっとふくれっ面をしたコハルちゃんは、カバンの中から幾つかの錠剤を取り出すと、口に含んで水で流し込んだ。

 

「……それじゃ、お先に失礼します。おやすみなさい……」

 

「おやすみなさいコハルちゃん」

 

「オ、オヤスミナサイ……」

 

死ぬほど小声のハナコちゃんのおやすみにも反応して、コハルちゃんは律儀に会釈してベッドに潜り込んだ。……なんか掛け布団の中でモゾモゾしてる。落ち着かないのかな……あ、ハナエちゃんが上から毛布を追加してポンポンしたら大人しくなった。

 

「……寝ちゃったみたいですね」

 

「では私たちも寝ましょうか」

 

【じゃあ私は向かいの部屋にいるから。何かあったらいつでもおいで】

 

「あ、ありがとうございます、先生。先生もおやすみなさい」

 

コハルちゃんが夢の世界へ旅立ち、先生が部屋を出ていくのを見届けた後、私たちもそれぞれベッドに入って就寝した。明日から勉強合宿……頑張らなくちゃ……もしも、3回試験に落ちたら、大変なことになっちゃうし……

 

――あ、そうだ。しまった。3回落ちた場合のこと、まだ皆に伝えられてない。で、でも、こんなことどう伝えれば……それに、ナギサ様からの"お願い"も……うう……

 

考えれば考えるほどなんだか目が冴えてしまった私は、皆が寝ている中先生の部屋へと向かうのであった。

 

 

 

ハナちゃんにポンポンと叩かれて微睡んでいる間、考えていたことがある。

『vanitas vanitatum, et omnia vanitas』この言葉は先も言ったとおり、様々な解釈がなされていた。それは、トリニティが今のトリニティになる前の時代、様々な分派が入り乱れていた頃も同じ。

この言葉を聞いてやっと思い出した。アズサの制服、それに縫い付けられたエンブレム。見覚えがあったはずだ。古書館の歴史書で一度見ているのだから。……あれは、遥か昔に、トリニティによって弾圧された分派のシンボルマークだ。

 

その名は『アリウス分派』。第一回公会議にて、ただ一つだけ、分派の統合に反対し、他の分派の連合――つまり、今のトリニティによって徹底的に叩かれ、消滅した分派だ。主にシスターフッドの前身である、『ユスティナ聖徒会』の手によって。

……もしかしてアズサの転校元って……アリウス分派? かつての弾圧から生き延びていたってこと? だとするならば、さしずめアリウス分校といったところだろうか。

 

……いや。まだわからない。単にアズサがアリウスのマークを好きで付けているだけな可能性もある。こんなことをまさか直接聞くわけにもいかない。かなりセンシティブな話だろうし。でも……あの世間知らずさと、高度な訓練を受けてきたのだろう身のこなしは……どう考えても……

 

うん、この話は私の胸に留めておこう。まだ状況証拠でしかないし。……それに、『疑わしきは罰せず』、だものね。

それだけ決めたあと、疲れていた私は、スイッチが切れたかのように夢の中へと沈んでいくのだった。

 

 

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