ここだけ病弱コハル 作:匿名さん
【……】
向かいの部屋へと退散した私は、一人ベッドに腰掛けて考えていた。素材がいいからか、それとも手入れがされているからか。ベッドは妙な音を立てることもなく、大人一人分の体重を優しく支えてくれた。
【……ナギサ……】
思い出されるのは、少し前の記憶。補習授業部の一次試験が終わってからのことだ。
試験後、ティーパーティーに呼ばれていた私は、件の彼女が待つテラスへと向かった。そこは一般生徒が出入りを禁止されている、トリニティの最高責任者たちが集う場所。茶会(ティーパーティー)の名を冠する故か、そこは煌びやかな、されど品を損なわない程度の調度品が置かれていた。少しばかり金細工の施されたティーポットと、茶菓子の乗った皿が幾つか。それらが幾つか乗せられた長テーブル。その奥の椅子に、彼女は一人座っていた。
「こんにちは、先生。……いえ、もう時間的には、"こんばんは"でしょうか」
【こんにちは、ナギサ。なんとも微妙な時間だね】
亜麻色の髪を靡かせる、まさに淑女然とした人物。目の前で紅茶を含む彼女こそ、このトリニティにおける最上位者。トリニティ総合学園生徒会『ティーパーティー』のホスト……いわゆる生徒会長である、桐藤ナギサだ。
「まずは、お疲れ様でした。先生。補習授業部については……実は、既に聞いております。一次試験は、残念な結果に終わってしまったようですね」
ですが、まだあと二回残っていますので。次は皆さん受かるといいですね。
ナギサはニッコリと微笑みながら、何やら手元を動かしていた。これは……チェス盤?
「これが気になりますか? ただのチェスです。お恥ずかしながら、こうしてチェスを指すのが趣味でして」
【だいぶ盤面に差があるみたいだけど?】
「そうですね。あまり見ない形ではあるかと。黒はキングとクイーン、後はポーンだけ。白はキング、ルーク、ナイト、ビショップがそれぞれ3〜4個ずつ……まあ、手慰みのようなものです」
言いながら、ナギサは一つ駒を動かした。黒のポーンが一つ、盤面から退けられる。指揮に関しては一家言あるが、残念ながら、チェスに関しては門外漢だ。
【一人で指してたのかい?】
「ええ、まあ。今日はうるさいミカさんもいませんし。……外に出た際に、友人と指すことも偶にありますが、まあ稀です。それに……いえ、なんでもありません」
一瞬何かを言いかけたナギサは、途中で言葉を打ち切って笑みで覆い隠した。
「さて、今日は先生にお伝えしたいことがあったのですが……その前に、先生の方が、私に言いたいことがあるようですね。お先にどうぞ?」
【ありがとう。確認したいことがあってね。……もしも、3回とも試験に落ちた場合は、どうなるのかな?】
「……ふむ。ヒフミさん辺りが漏らしたのですかね? 彼女は大分おっちょこちょいなところが見受けられますので。それがいいところでもあるんですが」
【いいや? 私が勝手に気になっただけだよ】
「おや? それは失礼いたしました。流石は先生というべきでしょうか……ともかく。質問にお答えしますと」
――試験で不合格を繰り返し、落第を逃れられそうになく、助け合うこともできなかった……となれば、みなさん一緒に退学していただく他ありませんね。
ナギサは微笑みながらそう告げたのだ。
【……退学、だって?】
退学。キヴォトスにおけるそれは、外の世界における同じ概念とは数段重さが違う。キヴォトスにおいて、学校とはいわば国家そのもの。ここにおいて学籍とは、=で国籍であり、戸籍のようなものなのだ。それを強制的に取り上げてしまう退学は、もはや国外追放と言い換えても差し支えがない措置だ。
必然、そんな措置が下されるのは非常に稀であり。例を挙げれば"災厄の狐"と謳われ、方々で暴れまわっていたとある生徒ですら停学止まりなあたり、いかに退学が重い措置であるかわかるだろう。
想像だにしなかった答えに、思わず冷や汗が流れた私に対し、ナギサは平然とした様子で言葉を返した。
「ふふ。勿論本来は、こんなに簡単に退学にすることなどできません。落第、停学、退学に関しては校則で定められており、長い手続きと、確認と議論の応酬を繰り広げなければなりませんから。我々はゲヘナと違って、手続きを重要視しますので。――ですが、補習授業部はその辺りを無視できるように作ってあります。シャーレの強権を少しばかり組み込ませて頂いたのもあって、このような措置が可能となっているのです」
そもそもこの補習授業部は……生徒を退学させるために作ったものですから。
落ち着いた様子でそんなことをのたまったナギサに、私は凍りつくしか無かった。
【……一体、なぜそんなことを?】
ざわつく心を無理矢理落ち着かせ、私は努めて冷静に疑問を発した。対してナギサは笑顔の仮面を外し、真剣な表情で私を見据えた。
「あの中に、トリニティの裏切り者が潜んでいるからです」
【裏切り者? それは、どういう……】
理解の追いつかない私に対し、構わずナギサは言葉を続ける。
「その裏切り者の目的は、『エデン条約』締結の阻止。……この言葉の重さを理解して頂くためには、『エデン条約』についてまず説明する必要がありますね」
――その後のナギサの説明を要約するとこうだ。
キヴォトスにおいて、トリニティ総合学園と双璧をなすマンモス校。『ゲヘナ学園』。この2校ははるか昔から敵対関係にあり、争いが絶えない状態にある。
そこで、ゲヘナとトリニティ、両校の中核メンバーが全員参加する中立機構を作成。『ETO(エデン条約機構)』と呼ぶべきこの団体が、ゲヘナとトリニティ間の紛争に介入することにより、両校の全面戦争を回避し、無駄な消耗と、キヴォトスのパワーバランスが崩れることを避ける。
共倒れを避ける、ある種の不可侵条約。それこそが、『エデン条約』である。
「長きにわたって続く、ゲヘナとトリニティの争い。『エデン条約』はその唯一の解決手段であり、ひいてはキヴォトスの安定化にも繋がります。……かつて連邦生徒会長が提示したものでしたが、彼女が行方不明になった後、空中分解しかけたものをどうにか私の手でここまで立て直したのです。……ですが」
キッと、ナギサは鋭い目で私を見据えた。その目からは、強い憤りが見て取れた。
「ここまで来て。締結直前まで来たこのタイミングで。……これを妨害しようとする者たちがいると耳にしました。それが誰で、何人いるのかは分かりません。残念ながら特定には至りませんでした……そこで。可能性のある容疑者たちを一箇所に集めたのです」
裏切り者は、必ずあの中にいます。――ならば、一つの箱にまとめてしまいましょう。まとめて捨てられるように、ね。
「ここまで言えばわかるでしょう。補習授業部こそ、その『箱』なのです。……申し訳ありません。こうして先生を血なまぐさい争いに巻き込んでしまって。私のことは罵っていただいて構いません」
そう言って、ナギサは頭を下げてくる。……トリニティの裏切り者を消すための入れ物。それが、補習授業部の正体。……なんというか、パワープレイにもほどがある。それだけナギサがエデン条約締結に力を注いでいるということか。だが……
【私をただ利用するだけなら、こうして話してはいないだろう? 違うかい?】
「……流石ですね。言っても信じてもらえるだろうとは思っていましたが。こうなったら話は簡単です」
ナギサは再び笑みを見せた。何を考えているのかわからない笑みを。
「先生。補習授業部にいる裏切り者を探していただけませんか?」
……やはりか。恐らく今の私の顔は、苦虫を噛み潰していることだろう。
話の流れで予想はしていたが、彼女の伝えたい事とは、トリニティの裏切り者についてと、それを見つけ出すことだった。
「先生を、トリニティを騙し、平和を脅かそうとするテロリストです。ことはキヴォトス全体の平和にも直結します。――如何でしょう? 連邦捜査部『シャーレ』として、ご理解頂けたらと」
……ごめんね、ナギサ。その問に関して、私は一つしか答えを持っていない。
【私は、私のやり方で対処させてもらうよ】
なぜならば、私は『先生』なのだから。あの子たちを、疑ってかかるような真似はできない。
「……」
ナギサの無色透明な笑みに、別の色が混じった。
「……そうですか。分かりました。……しかし先生、ゴミを分別して捨てるのが困難な場合、まとめて捨ててしまうのも一つの手段。……そうは思いませんか?」
【そのゴミこそが、見方を変えれば宝石かもしれない。私がその手段を取ることはないよ】
「……それからもう一つ」
ナギサは笑顔を被ったまま、至極冷静にさらなる事実を付け加えた。
「試験については基本的に、私たちの手の上にあります。例えばですが……急に試験の範囲が変わるとか、試験会場が変わるとか、難易度が変わる、とか。……そういったことが起きないことを願っていますが……」
とてつもなく平坦な願いだった。思わず、【……それは、脅しと捉えていいのかな?】と聞きかけてしまうくらいには。
「失礼しました、良くない言い方でしたね。ですが、可能性としてあり得ますので、一応ご参考までに。――それでは、引き続き補習授業部をよろしくお願いしますね、先生」
ちなみにですが、1次試験の内容については、私たちは何ら手を加えておりません。この部分については、誓って嘘ではないことをお約束します。
そう、ナギサは付け加えた。
……確かに、一次試験の内容は適正範囲、どころかすごく簡単なものだった。アズサがギリギリで落ちる程度であったし、特に妨害はなかったのだろう。
「先生の言う、私のやり方……それが、トリニティに利するものであることを、願っていますよ」
そう締めくくって、ナギサは静かに紅茶を口に運ぶのであった。
「――ああ、最後に一つだけ、よろしいでしょうか」
【……?】
話は終わりかと、席を立とうとした時だった。口を湿らせたナギサが、不意に声をかけてきた。一体なんだというのだろう。まさかこれ以上何かあるというのか。
「……。――コハルさんは、元気でいますか?」
【……コハル? ああ、見ている側が辛いけど……一応元気、であってるのかな。あれ以降発作も起きてないみたいだし。なかなか体調が良くならないみたいだけどね】
「……そうですか」
【……なぜ気になったのか、聞いても?】
「……。ええ。と言っても、そこまで大袈裟なことではありません。コハルさんは虚弱な正義実現委員として割と有名な方ですので、少々気になっただけです」
【……私からも一つ、聞いていいかい? ――なぜコハルを補習授業部に? あの子が裏切り者とは、とても思えないけれど】
「……」
ナギサは懐から何かを取り出すと、パチンと蓋を開いて中身を見つめていた。あれは……懐中時計?
「……。――勿論、コハルさんも容疑者の一人だからですよ。理由は、それだけです」
ここまで何度となく見てきたナギサの笑み。しかし今のそれは、今日一番柔らかくて……何処か、辛そうなものにも感じたのは、私の気のせいだろうか。
かつての記憶を掘り起こしながら、私は思わず呟くのを止められなかった。
【ナギサ……君の行動そのものは、為政者として間違っていないのかもしれない。けど……】
一生徒の決断としては、あまりにも強引すぎるものだ。エデン条約を締結させたい気持ちは汲んであげたいが……それでも、その選択は、多くの犠牲を伴いすぎる。そのような決断は、生徒(子ども)ではなく、大人がすべきものだ。
責任は、本来大人が負うべきものなのだから。
その時だ。コンコン、と控えめなノックが響き、廊下から小さく、しかしはっきりと声が伝わった。
「……すみません先生、今よろしいですか?」
【! ……ああ、大丈夫だよ。おいで、ヒフミ】
「あ、えと……失礼します。こんな夜更けにごめんなさい……」
【いや、大丈夫だよ。いつでも来ていいと言ったのは私だからね。で、どうしたんだい?】
「その……先生に相談したいことがありまして……今回の学力試験の話なんですが……」
とても言いづらそうに、重たい口を開くヒフミ。なるほど、学力試験についてか……ならば、あの話以外にないだろう。
「……せ、先生はご存じないと思いますが、その……【待った、ヒフミ】……はい?」
【立ち話もなんだから、奥で話そう。少なくとも、部屋の入口でするような話じゃなさそうだしね】
「あ、はい。そうですね……では、失礼します」
コーヒーは飲めるかい? 生憎紅茶はちょっと切らしててね……。
ああ、いえ! お構いなく。偶にですがコーヒーも飲むので……
そんなやり取りを交わしながら、私は部屋に備え付けの椅子に腰掛けた。ベッドと同じくいい素材を使っているようで、スプリングが跳ねすぎることもなく、かといって跳ねないわけでもない絶妙な塩梅だ。
反対側の椅子に恐縮しながらも腰を下ろしたヒフミに、コーヒーを注いだティーカップとミルクポッドを差し出しながら、私は話を促した。
「あ、ありがとうございます。……それで、お話というのは、今回の学力試験についてです。全部で3回あって、いずれか1回でも全員合格するのが目標だと言ったんですが……もしも、3回とも不合格だった場合。私たちは…その…」
【……全員、退学になる】
言いづらかったであろう部分を先に言及すると、ヒフミは一瞬驚いた表情を浮かべ、次の瞬間にはいつもの困ったような笑顔を浮かべた。
「あはは……やっぱり、先生はご存知でしたか。そうなんです。もし3回とも落ちれば、全員まとめて退学になると。……正直、今でも信じられない気持ちで一杯なんですけどね」
【私も最初に聞いた時は驚いたよ。でも……ナギサは本気だ。少なくとも、退学の部分に関してはね】
「あうぅ……」
なんともか細い声をあげて、ヒフミがため息をついた。そのままコーヒーを一口すする。
「……ふぅ。先生も、ナギサ様に会ったんですね」
【うん。一次試験の後に呼ばれてね。そこで退学について知ったよ。……ヒフミは、どこまで知ってる?】
「どこまでと言いますと……先程も言いましたが、3回落ちると退学になることと……あと……うぅ……その……」
退学についてよりも言いづらそうなヒフミを見て大体を察した私は、またも先んじて答えを口にした。
【……トリニティの裏切り者】
「! 先生も、知らされていたんですね。……「誰にも言わないように」と口止めされていたんですが、知っているなら話は早いです。――おっしゃる通り、ナギサ様から、その裏切り者についての話を、私は聞かされました」
この合宿が始まるよりも前の話です。
そう言って、ヒフミは語りだした。
「ヒフミさん。補習授業部にいる裏切り者を探していただけませんか?」
ナギサ様は普段通りの笑顔で、そんなお願いを口にした。対する私は、どう反応していいものか、ただただ困惑するばかりだった。
「ナ……ナギサ様、それは……」
「……実を言うと、今の補習授業部の試験結果について、私は頓着していません。合格できなければ退学とは、最終手段でしかない」
紅茶を一口。それで口を湿らせたナギサ様は、改めて私にこう告げた。
「ヒフミさん。出来る限り早く彼女たちの情報を集め、トリニティに仇なす裏切り者を見つけていただけませんか?」
「ナ、ナギサ様。その……何故、私が? そういったことは、あまり得意では……諜報部の方にお任せするべきでは……」
「……『何故』ですか……その答えは、ヒフミさんがシャーレと繋がっていたからです」
一拍置いて、ナギサ様は淡々と続ける。
「第三勢力であるシャーレの先生が傍にいるなら、裏切り者もむやみには動けません。いわば、ゴミがゴミ箱から飛び出さないための蓋のようなもの……」
「ゴ、ゴミ箱……?」
ちょっと信じがたい表現がナギサ様から飛び出した気がする。えっと、もしかしてその『ゴミ箱』というのは、まさか……
「……失礼しました、失言でした。今のは忘れてください。――とにかく」
「ナ、ナギサ様! その、私には、そんなこと……「ヒフミさん」!」
言葉を濁しつつも断ろうとした私に対し、ナギサ様はセリフを被せてきた。いつものニッコリとした笑みを浮かべたまま。
「他に選択肢はありません。それに……やむを得なかったとは言え、失敗した場合……貴方も、同じ道を辿ることになりますよ?」
「そんなやり取りがコハルちゃんを迎えに行く前にありまして……それでちょっと遅れてしまって、あんな衝突事故を……うぅ、コハルちゃんにはほんとに申し訳ないことをしました……」
【まあまあ。あれについては本人は気にしてないから。もう終わった話だよ。それにしても……】
それにしても、ナギサはヒフミを信用していないのは明らかだ。本当に補習授業部の子たちから裏切り者を見つけ出したいのなら、ヒフミに頼むのではなく適当に理由をつけて諜報員でも送り込めばいい。トリニティの諜報部はそれはそれは優秀だと私ですら耳にしているのだから。
それをせず、ヒフミに任せてきたのは……恐らく、彼女なりの情けか。確かヒフミはナギサのお気に入りの生徒だったはず。恐らく何らかの理由で、ナギサはヒフミにも疑いを持ち……こうして補習授業部に突っ込んでまるごと放逐しようとしているのだろう。
「……私には、裏切り者を見つけるだなんてできません……」
ヒフミは悲しげにそう呟いた。
「今日だって、皆でプールを掃除して、一緒にご飯を食べて……その中に、裏切り者がいるだなんて、そんなこと……そんなこと、私には……」
【……ヒフミは、優しいんだね】
苦悩するヒフミの姿が、眩しいものに感じて思わず目を瞬かせる。今まで共に過ごしてきた人を疑う事ができない。それは、ヒフミの人の良さの証だ。それが間違っていることだとは、私は思わない。
【ヒフミ。この件については、私に任せてくれないかな?】
「え、えぇ……? でも……」
【これについては、私がどうにかするよ。ヒフミには、ヒフミにしかできないことをして欲しいな。補習授業部の子たちのためにも】
本来、こんなドロドロとした暗中なんて、子どもが突っ込むものじゃないと私は思う。こんな後ろ暗いことは、大人がやるべきことだ。――つまり、私が。
「……先生」
ポツリとヒフミが呟いて……表情を変えた。何か決心を固めたようだ。
「……わかりました! といっても、私に何ができるのかはわからないんですが……少し、考えてみようと思います!」
明るさが戻ったヒフミは、「ありがとうございます、先生に相談できてよかったです」と言ってくれた。……ヒフミ。私こそ、君にありがとうを伝えたい。私を、『大人』を頼ってくれてありがとう。
そんなやりとりが繰り広げられていた、ちょうど同時刻……。
「……」
合宿所のロビー。その一角に置かれたソファに腰掛ける人物がひとり。
目を瞑り、思案を拡げている彼女の名は、浦和ハナコ。今は草木も眠る丑三つ時。起きている者が少ない中、窓から差し込む月明かりだけが、静かに彼女を照らしている。
そこへ、もう一人の人影がやって来る。
「ハナコ。まだ起きていたのか」
その名は白洲アズサ。ハナコと同じく、補習授業部の一人。
「……あら? アズサちゃんこそ、まだ起きていたんですね。それも、制服で……」
呼びかけられて目を開いたハナコが、アズサの服装に言及する。消灯前に寝巻きとして着ていたはずの体操着ではなく、彼女は既に制服に着替えていた。繰り返すが、まだ丑三つ時であり、良い子は寝る時間である。
「もうある程度寝た。だから見張りでもしておこうかと」
「……見張り、ですか。いえ、それよりもアズサちゃん。もしかしてですが、全然寝られていないのではありませんか? とてもじゃないですが、しっかり寝れたようには見えませんよ?」
「……慣れない場所だと、あまり寝られなくて」
なるほど確かに、人間誰しも環境が変わると寝つきが悪くなるものではある。
「夜通し動くための訓練も受けているから、5日ほどなら寝なくても問題ない。そう心配しなくてもいい」
「……そういうお話では、ないのですが」
「そういえば、ハナコの方こそどうしたんだ? ヒフミも何処かに散歩しにいったようだし、皆慣れないところで不安なようだから、見張りでもしておこうかと思って外に出たんだが……コハルはぐっすりだったが。よほど疲れていたんだろう」
「そうですね……私たちでも多少疲れるような行程でしたから。コハルちゃんにはやはりキツかったかと。……気丈に振る舞ってこそいましたが、後半はもうフラフラでしたから」
初めてアズサに同意を見せるハナコ。その表情は、何処か憂いを帯びていた。
「……。まあそういうことだから、私のことは気にしないで大丈夫。それじゃ、私はもう寝るから」
「……わかりました。アズサちゃん、あまり無理しないでくださいね」
かける言葉がなかったのか、半ば強引に話を断ち切ったアズサに対し、ハナコは心配の言葉を吐いた。
アズサはこくりと頷いて、そのまま寝室へと消えていく。その背中を、ハナコは見つめ続けていた。――正確には、その肩口のエンブレムを。
合宿初日の夜は、こうして更けていった。