ここだけ病弱コハル 作:匿名さん
再び目覚めた時には、時刻はもう正午を過ぎていた。寝る前に飲んだ薬が効いたのか、朝に比べて体が段違いに軽い。うん、これなら動けそうだ。
「あ、コハルちゃん! 目が覚めたんですね、体の具合はどうですか?」
「ハナちゃんおはよ……いや、おそよう? もうお昼過ぎてるし、なんていうのが正解なんだろうね? ……あ、体の方はもう大丈夫。これなら夜まで動けそう」
「……。――うん! だいぶ顔色が良くなりましたね! 念の為にお熱を測って、大丈夫でしたら他の皆さんと合流しましょう!」
黙って私の顔色を確認したハナちゃんは、にっこり笑ってセーフ判定を下すと、体温計を渡してきた。測ってみたところ、35.9度。うん、平均値近い。それをハナちゃんに伝えると、「なら大丈夫ですね!」と改めて両手で丸を作ってきた。
こうして憂いがなくなった私は、ハナちゃんを連れつつ合宿所の教室へと向かったのだった。
「あ! コハルちゃん! 体はもう大丈夫ですか?」
教室に入った途端、中で先生と話していたヒフミ先輩がいち早く反応して駆け寄ってきた。他には中央付近でアズサに勉強を教えているのだろうハナコさ……ハナコの姿が見える。
「薬も効いてきたから、今日の夜までは持つと思う。ご心配おかけしました」
【ヒフミからある程度話は聞いたよ。コハル、あまりとやかくは言わないけれど、誰かを頼るのも大切なことだよ。勿論、ハナエを慮ったコハルの優しさが間違っているわけでは無いけどね】
「はい、先生。ハナちゃんも、改めてごめんね」
「いえ、もういいんです。こうして頼ってくれましたから!」
これからもどんどん頼ってくださいね! なんて、胸を叩いて示すハナちゃん。あわせてかなり大きめの果実も揺れる揺れる。この子、背丈に合わずかなり立派なのを持ってるのよね。栄養全部そっちに行ったのかな。
「じゃあコハルちゃん! 早速ですが、これを解いてほしいんです。できたら先生に見せてくださいね」
そう言ってヒフミ先輩が渡してきたのは、一枚の問題用紙。これは……?
【ヒフミが昨日夜なべして作った模擬試験だよ。私も今朝聞いて驚いたんだけどね】
先生が私の疑問に答えて補足を入れる。なるほど、模試か。確かに、テストの点数をあげるには一番正攻法だ。これを人数分……恐らく明日以降の分もあるのだろう。一人で作るのは大変だっただろうに。
「ヒフミ先輩、ありがとう。これなら皆……特に、アズサが点数をあげるのに役立ちそう。勿論、私も」
「あ、あはは……模試といっても、トリニティの過去の試験用紙から問題を組み合わせただけなんですけどね……。そ、それでも、実際に問題を解いてみるのが一番の近道ですから!」
ハナコちゃんとアズサちゃんにはもう解いてもらって、今はアズサちゃんの分からなかった問題をハナコちゃんに解説してもらっています。コハルちゃんも解いたら、そっちに参加して頂けると……
ヒフミ先輩からのお願いに、私は笑って応えるのだった。
先生に模試を提出してからしばらくして、結果が返ってきた。
【88点。うん、問題ないね。落とした問題だけ軽く復習したら、ハナコと交代してアズサのフォローに回ってもらっていいかな? ハナエはコハルについていて】
「わかりました」
「了解しましたー!」
落としたところは……うん、ちょっと集中が続かなかったのもあって計算を間違えた部分があったみたい。本番では気をつけないと……。
間違えた部分を確認し直した私は、ハナちゃんを連れてアズサとハナコの方へと向かった。現在、アズサは苦戦しているようだった。
「二人共、お疲れ様」
「あ、コハルちゃ……」
「! コハルか。それとハナエも。 ……体の方は、もう大丈夫か?」
声を掛けると、ハナコが、ついでアズサが心配そうにこちらを見つめる。特にアズサは朝の件があったばかりなせいか、どことなくバツが悪そうだ。
「今は大丈夫。薬のおかげでだいぶ楽だから。……だから、朝のことはそんなに気にしなくてもいいよ? 嬉しかったし」
「少なくとも今日一日活動する分には問題ありません! 現状は! 救護騎士団として太鼓判を押せます」
「……そう。それなら、いいんだけど……」
「じゃあ、ここからはハナコの代わりに私がアズサに教えるから。ハナコ、ここまでありがとう。あとは自分の復習とか、ヒフミ先輩のフォローに回ってくれると助かるわ……ハナコ?」
「……へ? ……あ、交代ですねはいわかりました失礼します!」
一瞬話を聞いていなかったのか、ぼーっとこちらを見ていたハナコは、それでも話を理解してヒフミ先輩の方へと足早に向かっていった。こっちはこっちで私を抱きしめたことが尾を引いているみたい。うーん、もっと普通に接してくれていいのにな……え、えっちなのはダメだけど。
「いってらっしゃいハナコ。……じゃあアズサ、どこがわからないのか見せて」
「うん。この問題なんだけど……」
「……えーと、ここは……」
アズサに教え始めてから2時間ほど経った。うん、やっぱりアズサは飲み込みが早い。後は本番まで反復練習を繰り返して、忘れないようにすれば大丈夫だろう。前回はギリギリだったが今回は60点くらい余裕のはずだ。
ちなみに今ハナちゃんはちょっと席を外してお手洗いに行っている。
「コハル、ここは?」
「ここは……ちょっと待ってね。こっちに参考書が……」
ゴソゴソとカバンをあさり、中から一冊の分厚い本を取り出す。それをアズサが見えるように開いた。大体どのページに何が書いてあるか覚えてるのよ、私。ガリ勉みたいであんまり自慢にはならないけど。
「……? コハル、これは何をしているんだ?」
「ん? 何をしているって……っ!?」
よくわからないアズサの疑問に、改めて開いた参考書を見返して……組んず解れつしている男女の絵を見て、そこではじめて、自分の盛大なやらかしに気づいた。こ、こ、これ、参考書じゃない! 押収品の……!
「わ゛ああぁぁぁっ!?」
自分でも引くくらいの大声が出た。開いた参考書……に偽装されたアレを勢いよく閉じ、ひったくるように胸に抱く。み、見られた……! というか見せちゃった! 思いっきり! どどどどうしよういつもカバンにこんなの入れてるえっちな子だって思われたら……!
「ち、ちち違うの! これはその、お、押収品の本で、間違えて紛れ込んじゃったみたいで! 日常的にカバンに入れてるとかそういうわけじゃ!」
「……っ! マズい! コハル、わかったから落ち着いて――」
立ち上がって何か言っているアズサに思わず怯んで後ろに下がる。バクバクと心臓が弾む。鼓動がやけに大きく聞こえる。焦りで言葉がうまくまとまらない。ぐるぐると視界が回っている気さえする。……あれ? これホントに回ってるような――
「コハルちゃん!!」
大声が耳に響き、同時にギュッと誰かに抱きしめられる。背中に感じる、私よりも暖かな体温。
「落ち着いてくださいコハルちゃん。大丈夫です。私に合わせて、ゆっくり深呼吸してください。ゆっくり……吸って……吐いて……吸って……吐いて……」
私の頭を撫でながら落ち着かせようとするヒフミ先輩に息をあわせて、深呼吸。激しく脈動していた心臓が落ち着くと同時、足から力が抜けて、私は床にへたり込んだ。そのまま倒れ込みかけたのを背後のヒフミ先輩が支えてくれる。
「コハル!! 先生! コハルが……!」
【コハル、大丈夫かい?】
アズサに呼ばれると同時に、険しい顔をした先生が傍に寄ってくる。ぐるぐると渦巻いていた視界は、いつしか収まっていた。
「……せん、せ……ごめ……なさ……」
【うん、ダメそうだね。――ハナエ!】
「コハルちゃん、ちょっと肩出させて貰いますね。少しチクッとしますよ」
いつの間に戻ってきていたのか、気づけばハナちゃんが傍にいて、私の肩にアンプルを射し込んでいた。中の薬液がみるみるうちに減っていく。
「――」
「――」
誰かが何か喋っているようだが、朦朧としている今の私では上手く聞きとれない。薄れゆく意識の中、よぎったのは一つの悔恨。……私、また失敗しちゃった。
「……これでよし。発作とは言え軽度なので、ぶっちゃけアンプルも不要なことが多いんですが、まあ念の為です。……先生、一つお願いが」
【なんだい?】
目を閉じて意識を失ったコハル。その胸が静かに上下するのを見ながら、ハナエの呼びかけに応える。教室に戻った瞬間状況を理解したのか、すごい勢いで走ってきて処置を済ませた彼女は、コハルを見ながらも静かに教室の一部を指差した。
「あちらのフォローをお願いできますか? 私はコハルちゃんを見ていますから」
その指先が示しているのは、硬直する一人の少女。何かを思い起こしたのか、その顔は酷く青ざめていた。
【――了解。あっちは私に任せて】
コハルをハナエに託し、私はハナコの下へと向かうのだった。
目覚めた時、まず感じたのは体の気怠さ。お昼ごろの軽さが嘘のように、鉛のような重たさを感じるようになっていた。おかしいな、薬はまだ切れるような時間じゃないはず……というか、なんで寝てるの私?
「――起きましたか。コハル、大丈夫ですか?」
困惑する私に向けて、声がかけられる。まず合宿所にいるはずのない、私の尊敬する人の声。
「……!? ハ、ハスもがっ!」
「落ち着いてください。驚く気持ちはわかりますが、体に障りますから」
正義実現委員会副委員長、羽川ハスミ先輩が、私が寝ているベッドの横で椅子に座っていた。な、なんでここに!? 今は条約前で忙しいはずじゃ……
驚いて叫びかけた私の口をハスミ先輩が即座に、しかし優しく塞ぐ。……この状況、似たようなことが前にもあった気が……
「私がここにいるのは、先生から連絡を受けたからです。貴方が持ってきた参考書の中身が違うものだったから、本物を持ってきてくれないかと。あわせて、貴方が発作を起こして倒れたことも聞きました。なので、心配になった私がこうして参考書を届けに来たのです」
貴方が起きるまで、横でリンゴを剥いていました。食べられますか?
そう言ってハスミ先輩は、フォークに刺したリンゴを私に向けてくる。あ、ウサちゃんだ……可愛い……いやじゃなくて。
「い、頂きます……」
なんとかそれだけ返して、ハスミ先輩からフォークを受け取ろうと……渡してくれない。あれ?
「口を開けてください、コハル。軽度とは言え、発作を起こしたばかりですから、動くのは辛いでしょう?……はい、あーん」
そ、そこまでしてもらえるのは気が引けるんだけど……言っても聞いてもらえなさそうなので、大人しく口を開けた。ウサちゃんカットのリンゴを半分食べる。甘くて美味しい。
だけど、咀嚼すればするほどに、私の気持ちは沈んでいった。落ち着くにつれて、今日の醜態を思い出してしまったからだ。
「……コハル?」
「……ごめんなさい」
色々な意味の籠もった言葉が、自然と口からこぼれた。ぽたり、と水滴が布団に落ちて染みを作る。
「……忙しいのに、ハスミ先輩を巻き込んでしまって。ちゃんと中身を確認していれば、こんなことにはならなかったのに……興奮したらどうなるかなんて、嫌ってほどわかってたのにっ……皆に迷惑かけてっ……」
「コハル……」
ポロポロと、涙がこぼれ落ちては消えていく。目をこするけど、どうにも収まりがつかない。泣くな私。泣いても事態が解決するわけじゃないし、私の体が治ることもない。それこそ昔からわかってることでしょ。だから泣くなって……涙腺までバカになったら、もうおしまいだろうに。
また自分から興奮しにかかっているどうしようもない人間を、ハスミ先輩は静かに抱き寄せた。
「――そう自分を責めないでください、コハル。事情が事情なんです。貴方が悪いわけではありません。そのことは、皆さんもよくわかってくれていると思いますよ」
私の背中をぽんぽんと叩きながら、慰めてくるハスミ先輩。私の知る限り最大の胸部が、私の顔に押し当てられる。普段ならドギマギしてるところだけど……柔らかくて、あったかい……
どこか安心感を覚えた私は、つい口から迸る言葉を止められなかった。それがあまりにも不毛な問いかけだと、昔から知っていたというのに。
「――どうして、こんな体に生まれたんでしょう。……どうして、私が」
「――っ」
ハスミ先輩はビクリと硬直して、動きを止めてしまった。……ああ、また困らせてしまった。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「……なんて、神様じゃなきゃわからないですよね。ごめんなさい。気の迷いでした」
「……っ。コハルっ!」
「わぷっ!?」
涙を拭い、精一杯笑顔を浮かべて誤魔化した途端、ハスミ先輩にギューッと抱きしめられる。ハ、ハスミ先輩、力、強……苦し……
「貴方は……貴方は、本当に、よく頑張っています。そんな体で、こうして合宿にだって参加させられて……本当に、よく……!」
ぽたりと、私の肩に水滴が落ちる。ハ、ハスミ先輩……? もしかして、泣いてるの……?
「思えば、貴方の補習授業部入りからしておかしな話なのです! テストを欠席して0点扱いだったとは言え、それを理由に補習授業部にねじ込んで。一次試験に落ちたら全員強制参加の合宿に放り込んで。その上学力試験の癖に一人でも落ちたらまとめて不合格など、非合理の極みです……!」
「ハスミ、先輩……?」
吹き荒れる憤りの表れか、ハスミ先輩の大きな翼がバサッ!と開かれる。いつ見ても大きな翼だ。それを見るといつも思い出す。あのとき、その翼で、私たちを守ってくれた時のことを。……あれは確か、"キリちゃん"と初めて会ったときのことで……
「……フゥー。……コハル。私は心配です」
無理矢理落ち着けたのか、翼を畳んで深呼吸をしたハスミ先輩は、改めて私に話しかけてきた。過去を思い出してる場合じゃなかった。
「次の2次試験は数日後。貴方の実力なら試験そのものは余裕でしょう。問題は……あえて、こう言いましょうか。他の皆さんが、足を引っ張らないか。そして次の試験も落ちてしまったら……3次試験。貴方の体が、果たしてそこまで持つのか」
「それは……」
思わず目を伏せる。……確かに、慣れない環境でかなり体力を使ってるし、その上発作まで起こしてしまった。これで3次試験までもつれ込んだらかなりキツイかもしれない。
でも足を引っ張るのは、どちらかといえば私の方な気がする。現に今も迷惑かけてるんだもの。発作も起こしてしまったし、この先体調が良くなるかはかなり怪しい。
……もし試験当日、体調が悪かったなら……私は、どうすればいいんだろう。
「……コハル。どうか、無理はしないでください。お願いです。もし貴方に何かあったら、私は……」
涙を滲ませて懇願する彼女に、私は何も応えることができなかった。今の状況で無理をしないとは、どうしても確約できなかったから。
寝室に、しばらく嗚咽が響いていた。
合宿所の壁はそこまで厚くはないようで、耳を澄ませれば、話し声がある程度は聞こえる状態だった。
ハスミの嗚咽が響く中、寝室の外、扉の横で、私とハナエは2人並んで待機していた。ハスミに、コハルと2人きりにさせてほしいと頼まれたからだ。
【……ハナエ】
「……」
私の問いかけにも、ハナエは沈み込んだままだった。普段底抜けに明るい彼女がこうも静かだと、どうにもやりづらい。だが……
【一応、聞いていいかい? ――コハルの病気は、治らないものなのかな?】
「……根治できるものではない、と……そう伺っています。病名もなく、生まれつきそういう体なのだと……治すことが出来たなら、どんなにいいか……」
ハナエは、重たそうに口を開いた。その目は、無力感に苛まれているように見える。……そんな気はしていたけれど、やっぱりか。医療従事者には酷なことを聞いてしまった。
【ごめんね、いいづらいことを聞いてしまって】
「いえ、気にしないでください。先生なら、生徒の状態は知っておくべきでしょうから」
【……ハナエは、悪くないよ】
思わずそう口にする。ハナエは無言でこちらを見ると……フッと口元を緩ませた。
「わかっています。私は一介の救護騎士団であって、神様ではありません。どうしても手の届かない人が世の中にいることも、わかってはいます。……でも」
友だちに手が届かないのは、悔しいですね。
ポツリと吐かれたその言葉に、私は返す言葉を持たなかった。
しばらくして、寝室の扉が開き、中からハスミが出てきた。
「お二人共、ありがとうございました。私のわがままを聞いていただいて、感謝しています」
【……いや、気にしないで。しばらく会えていなかったんだし、積もる話もあるだろうから】
「そう言って頂けると助かります」
微笑むハスミ。その目尻に、何やら光るものが残っていたが……それを指摘するのは野暮というものだろう。
「……先生。どうか、よろしくお願いします。補習授業部の子たちを導いて……あの子を、解放してあげてください。ティーパーティーが絡む以上、今の私には、できないことですから」
「……ハスミ」
深々と頭を下げるハスミの姿に胸を打たれる。ハスミ……君はそこまで、コハルのことを……
と、隣でハナエが息を呑んだ。
「ハスミさん……! 貴方、その手……!」
【手……? ――っ!?】
ハナエが指差すその先、ハスミの右手は、握りしめられて真っ赤に染まっていた。それはもう、物理的に。ポタポタと、紅い雫が床に垂れ落ちる。
「……。気にしないでください。どうってことありません」
「気にしないでってそういうわけには……!?」
――ハスミの眼光が、動こうとしたハナエをその場に釘付けにした。キヴォトスの外の人間だからか、強烈な"圧"に、思わず私の背筋まで凍りつく。
正義実現委員会の活動では、ツルギのインパクトが強すぎて、どうしてもそちらに目を奪われがちだ。だがしかし、ハスミもまた、正義実現委員会の副委員長、No.2なのだ。実力的にはキヴォトスでも上位層である。その片鱗を、今まさに見せつけられた形となった。
「……すみません、ハナエさん。怖がらせるような真似をして。でも本当にいいんです。これは、私の未熟の証ですから」
思わず後ろに一歩下がったハナエに対し、ハスミは申し訳無さそうに謝った。隠すかのように、右手を後ろに回したまま。
「……必ず、治療はしてくださいね」
「はい、必ず。……では先生、ハナエさんも。お騒がせしましたが、私はここで。届け物も済みましたし、そろそろ本校舎に戻らねばなりません」
【……忙しい中、本当にありがとう。助かったよ】
色々と言いたいこと、かけたい言葉が渦巻いて……結局絞り出せたのは、当たり障りのない感謝だった。
実際、エデン条約の前で色々と多忙だろう中、わざわざ管理室から本物の参考書を探して持って来てくれたのだ。ありがたいとしか言えない。
ハスミは口を開かず目で礼をすると、踵を返した。そのまま合宿所から出ようと廊下を進んでいく。キヴォトスの生徒でも一際大きな影が、どんどんと小さくなっていって……
「……あっ!」
ハナエが小さく声を上げた。廊下の先で、ハスミが不意に立ち止まった。その先にいるのは……あれは。
「……ああ、こんばんは。補習授業部の皆さん。うちのコハルがお世話になっているようで、申し訳ありません」
「い、いえ、そんなことは……こんばんは、ハスミさん……」
「……こんばんは」
「ええ、こんばんは。ヒフミさん。アズサさん……そして」
――ああ、出会ってしまった。コハルちゃんと関わる以上、いずれは出会うだろうと思っては居たが……こんなにも早く。しかも、このタイミングで。
不穏な空気を感じとったのか、少しばかり腰が引けているヒフミちゃん。さりげなくだが、腰の愛銃に手を伸ばして警戒するアズサちゃん。その2人を流れるように見やった後――私と目が合った。
心胆を寒からしめる、とはこういう目を言うのだろう。
彼女に見つめられた途端、体感温度が数度ほど下がった気がした。背筋が冷える。じっとりとした汗が出る。まだ夏だと言うのに、私の周りだけ氷河期に入ったかのようだった。
「――浦和ハナコ」
「羽川ハスミ、さん……」
かつて言われた忠告が頭をよぎる。
――ハナコさん。しばらくは気をつけてくださいね。
――コハルさんとの件で、貴方のことをあまり快く思っていない人も……少なからずはいるかと。
――いつも通りに過ごしていれば、各々忙しい方々ですから会うことも早々ないでしょうし、平気ですよ!
……レイサさん。その筆頭候補の一人が、今目の前にいますよ。
合宿所の廊下で、私は予想通りの人物と、想定外の邂逅を果たしたのだった。