ここだけ病弱コハル   作:匿名さん

36 / 51
その35

正義実現委員会聴取記録より抜粋

 

 

 

「……マグロは、失われましたか。そうですか……可能性としてはありうると考えていましたが……かける言葉が、ありませんわね……」――黒館ハルナ

 

「あら……一口でいいから食べてみたかったんですが、ゴールドマグロ。……残念です。それはもう、いろいろな意味で」――鰐淵アカリ

 

「え? マグロなくなっちゃったの!? それは……大丈夫かな、ジュンコ……あんなにすがってたのに」――獅子堂イズミ

 

「そう。……反応が淡白って? まあ私はアイツラの仲間ってわけじゃないし。……でも、ここまでした上でこの結末は……無事に帰ったら、なんか作ってあげようかな」――愛清フウカ

 

被疑者錯乱につき、聴取中止――赤司ジュンコ

 

 

 

翌日。あれだけの大捕物があったというのに、日を跨げばそこにはいつものトリニティの日常があった。チチチとさえずる鳥の声。賑やかな淑女たち。夜中に大騒ぎがあったとはとても思えない、いつも通りの市街地の中を、1台の車が突っ切って行く。

 

「……」

 

「……」

 

外の喧騒とは打って変わって、車内は静寂で満たされていた。私はあまり喋るたちではないし、同乗者はそもそも口がきける状態じゃない。運転手は車内に満ちる緊張感からか、これまた口を開くことはなかった。正義実現委員会所有の公用車は静かに目的地へと向かっていく。

 

「……。あ、あの」

 

「なんだ?」

 

耐えきれなくなったのか、運転手が話しかけてきた。……私に話しかけてくる人間は同じ正義実現委員会でも多く無い。精々がハスミや、イチカと言った極少数にとどまる。普段の言動が言動なだけに仕方ないが。

 

「……今やっていることですが、大丈夫なんでしょうか。正直かなり職権乱用というか……ティーパーティーへの報告が……」

 

「問題はない。たとえ問題があったとしても、その時責任を取るのはお前じゃなく、私だ。安心しろ」

 

「ツルギ先輩がそうおっしゃるなら……でも」

 

運転手は不安そうにバックミラーを見つめた。正確には、そこに映る同乗者を。

同乗者――赤司ジュンコは、項垂れたまま微動だにしなかった。光のないその目には、何も映していない。昨日の聴取で錯乱して……いや、その前から、ただただ虚空を見つめるばかりで、何に対しても反応することはなかった。……正直、見ていてとても痛々しい。なまじ気持ちが理解できる分余計に。

 

「この状態であの子の前に出しても、まともな会話にはならないんじゃ……むしろ逆効果では?」

 

「……逆効果になるやもしれないとは、私も思った。だが……このままにしていても、今後いい方向に転ぶとは思えない。それならいっそ賭けに出たほうがいい。……今のこいつに言葉を届かせられるのは、彼女以外いない」

 

というか、彼女でダメならもう打つ手がない。

 

「……試験前ですけど、向こうは大丈夫ですかね? そもそも起きてるかな……」

 

「連絡は入れた。簡単にだが、事情も説明した。驚いていたが……快諾してくれたよ」

 

「そうですか……」

 

それきり、車内に声が響くことはなかった。車は重たい空気を乗せつつ進んでいく。――補習授業部が使っている合宿所へと。

 

 

 

正義実現委員会に運ばれた先は、年季の入った建物だった。流石トリニティというべきか、悪目立ちしない、上品な豪華さを持った建物だ。どうでもいいが。

 

「こっちだ」

 

剣先ツルギが私に呼びかけて、建物の中へと連れて行く。私は抵抗する気もなくそれを受け入れて進んでいった。……拘束もされてないし、逃げようと思えば逃げられるかもしれない。でもそれで何になる? この場から逃げたところで、結局私が失敗したことに変わりはない。もはや何をしたところで意味なんて無い。

 

建物の中に入ると、そこには先客がいた。トリニティの生徒だろう4人の人間と、白い連邦生徒会のコートを着た大人が1人。先生……。

 

「試験前の大事な時期にお邪魔して申し訳ありません、先生。補習授業部の方々も」

 

【気にしないで。こういうのは早めに片を付けたほうがいいから。時間が解決してくれることもあるけど……悪化する場合もあるからね】

 

彼女は?

 

寝室で待ってるよ。

 

そんなやり取りをぼうっと眺めながらも、私の脳裏に浮かぶのは、忌まわしい昨日の出来事ばかりだった。

 

 

 

セナに応急処置を受け、タオルで包まれた赤司ジュンコは、普段よりも幾らか小さく見えた。先ほどまで泣き喚いていた彼女だが、今では騒ぐことこそなくなったものの、焦点の合っていない目でブツブツと何か呟いている。……正直今の彼女は怖かった。まるで、壊れてしまったかのようで。

 

静かになった今だからこそ、考えることができる。先ほどの彼女の発言。

 

――友達が死ぬかもだなんて今まで考えたこともないくせに!!

 

……友達が死ぬ……もしかしてだが、今回の騒動。その原因に、いつもの美食研のアホな理由とは違うものがあったのではないだろうか。マグロが何故そこにつながるかは不明だが、後々調べれば分かることだ。とにかくまずは、ジュンコをゲヘナに移送するとしよう。

 

「では、委員長。この……彼女はこちらで運びます」

 

「お願いする。ありがとう、セナ」

 

流石に今のジュンコを指して死体と呼ぶのは憚られたのだろう。セナがジュンコを救急車に入れようとして……

 

「――待て」

 

第三者に止められた。同時に感じる空気の変化。それに気づいたのかセナも動きを止めて、息を呑む。……この声には、聞き覚えがある。何を隠そう、ゲヘナの最重要警戒対象なのだから。そう、よりによって貴方がここに来るのね……

 

「何用かしら。正義実現委員会委員長」

 

「そいつに用がある。移送は待ってもらおうか、風紀委員会委員長」

 

トリニティとゲヘナの境界線上で、互いの最高戦力が邂逅を果たした。

 

 

 

「……まずは、容疑者確保の協力感謝する」

 

「それに関しては、こちらの不手際でもある。容疑者がゲヘナ生徒なのだから、我々も然るべき対処は取るわ。――で? 彼女に用がある、とは?」

 

重苦しい空気の中、対峙する私と、正義実現委員会委員長――剣先ツルギ。思えば、こうして彼女と一対一で話すのは初めてだ。互いの立場の問題もあり、そんな機会はないものだと思っていた。というより、あってほしくなかった。まず間違いなくろくなことにならないだろうから。今のように。

 

「容疑者――赤司ジュンコの身柄だが、こちらで預からせて貰う」

 

「――何故? 赤司ジュンコを確保したのは私、つまり風紀委員会よ。ゲヘナの犯罪者はゲヘナで裁く……治外法権は、今回認められているはずだけど」

 

本来ならば、トリニティの自治区内で犯罪を犯した他自治区の生徒は、トリニティ側に処遇を決める権利がある。しかし、今は時期が時期であるため、ゲヘナ生徒はゲヘナ側に送って処理することとなっていた。一応トリニティ側の生徒がゲヘナで問題を起こした場合は、その逆もまた然りなのだが……生徒の気質上、そもそもゲヘナに行くトリニティ生が皆無なので、トリニティが割を食う形となっているのだが、それは仕方ない。それを飲み込んででも、トリニティは条約を締結させたいのだから。

 

「ああ、そうだな。だが足元を見てみろ、風紀委員長。お前が今立っているのはどこだ?」

 

「……随分と強引なやり方ね。ジュンコの身柄を確保して、何をするつもり?」

 

バサリと、威嚇するように翼を広げる。銃は橋の上に置き去りにしてしまったけれど……抵抗できないわけではない。もっとも、その場合条約がおじゃんになるが。……難しい局面だ。

 

私が今立っているのは川岸、ややこしいことにトリニティ側だ。つまり、ギリギリトリニティの自治区内である。私やセナがここにいるのはジュンコの救命活動のためなので、そこは目を瞑るだろうが、結局トリニティの自治区内でジュンコを確保したことになるため、彼女の身柄の処遇はまだトリニティ側に決定権がある。そう言いたいのだろう。……一応正論だ。筋は通ってはいる。かなり強引ではあるが。

 

ここまで強引な理由付けで、それもこの微妙な時期に、事前の取り決めを半ば無視してまでジュンコの身柄を手元に置きたい理由……一体何を狙っているのか。……事と次第によっては、ここで一戦交える必要があるかもしれない。これで条約がめちゃくちゃになったとしても、だ。

 

臨戦態勢を取った私に対して、剣先ツルギは少し考え込んでいたが……やがて、その手に持っていた銃を手放した。ガランガランと音を立てて、彼女の愛銃(ブラッド&ガンパウダー)が2丁、地に転がる。丸腰になった彼女は、そのまま腰を90度曲げ……

 

「――頼む」

 

「――っ!?」

 

「……トリニティの、正義実現委員会の長が……ゲヘナの風紀委員長に、頭を下げた……?」

 

しっかりと頭を下げてきた。……驚いた。正義実現委員会のトップが、ゲヘナの人間、それも風紀委員会のトップに頭を下げるだなんて。……この行いは、決して軽いものではない。もしもクロノスが盗撮していたら、明日の一面はでかでかとこの光景が載っていることだろう。あまりにも衝撃的な光景に、横で成り行きを見ていたセナも呆然としている。

 

「かなり強引なことを言っているのは百も承知だ。だが……決して悪いようにはしない。明日にはゲヘナに移送すると約束しよう。何なら、彼女以外の容疑者は今夜引き渡してもいい」

 

「……一つ聞かせて。どうしてそこまで赤司ジュンコに拘る?」

 

「……」

 

黙り込んだ剣先ツルギは、私の背後――今もなお、心ここにあらずな彼女を一瞥する。その目に浮かぶ感情は、敵意でも悪意でもなく……どこか、もの悲しいものだった。

 

「こちらも詳しい事情を聴いたわけではないが……もし私の予想が正しいものならば……こいつの気持ちは、決して他人事ではないからだ。一言で言うならば――安い同情だよ」

 

 

 

あの夜。剣先ツルギと空崎ヒナ、学園を代表する戦力同士で何やら話していたが、何を話していたのかは分からない。そんな事を気にする余裕は、私にはなかったし。ただ一つ言えることは、私の身柄の移送が、一日延びたということ。その猶予の間に、剣先ツルギによってここに連れてこられたということだけ。……何をさせたいのか知らないけど、放っておいてくれないだろうか。ほぼ唯一の解決手段を、あれだけの騒ぎを起こした挙げ句最後の最後ポカで失った間抜けのことなんて、どうでもいいだろう。

そう思っても、口には出さない。というか、口に出す気力もなかった。

 

先生が私を心配そうに見つめているのが見える。……昨夜、抵抗するハルナたちを捕まえたのが、先生とその指揮下の部隊だったそうだが、流石だと思う。ハルナ達を捕まえるのは風紀委員会でも一筋縄ではいかないのに。……散開して逃げたはずのハルナたちが、先生たちの部隊を足止めしてくれたと後で知った。正直かなり驚いた。そんな自分を犠牲にするような行動、今まで取ったこともなかったのに。……でも、それすらも私が無駄にしたんだ。ハルナたちの献身を。フウカの優しさを。私が。

……最初から先生を頼っていれば、また違ったのかな。先生なら、こんな手段取らずに、マグロをコハルに渡すことができたかもしれない。

 

そこまで考えて、思わず自嘲する。馬鹿が。今さらそんな事思い至っても遅いんだよ。

 

【――丈夫かな、ツルギ。この状態のジュンコを会わせて】

 

「錯乱するようなら私が止めます。それに……この状態の彼女に言葉を届けられるのは、やはりあの子しか……」

 

【……荒療治に近いけど、わかったよ。今の彼女には、私ではどうにも力不足のようだしね。――ジュンコ。なにか話したいことができたなら、いつでも相談してね】

 

先生が何か言っている。生憎、ぐちゃぐちゃになった頭では何を言っているのか咀嚼できなかった。咀嚼する気も起きなかった。ただただ、ぼうっと床を見つめているだけ。

 

「……。こっちだ、赤司ジュンコ」

 

剣先ツルギに半ば引っ張られるようにして、私は建物の奥へと入っていった。

 

 

 

廊下の途中。とある部屋の扉の前で、剣先ツルギは立ち止まった。

 

「ここだ。少し待て」

 

コンコンとノックする。誰かいるらしい。私をわざわざ連れてきたってことは、そいつと私を会わせたいということか。……どうでもいい。こっちはまともに会話できるような頭をしてないんだ。誰に何を言われたところで……

 

「開いてますよ、どうぞ」

 

――。え? ……は? 

 

ものすごく聞き覚えのある可愛らしい声が聞こえた気がする。……え、まさかこの部屋にいるのって……

 

反射的に逃げ出そうとした私の首根っこをツルギが抑える。反応が早すぎる……くっそこいつわかってて最初から身構えてたな!

 

「離して! 離せぇっ!!」

 

「ああ、今離してやるさ」

 

次の瞬間、ツルギはパッと扉を開け、有無を言わさず私を中に放り込んだ。

部屋はどうやら寝室のようだった。ベッドが6つ、規則正しく並んでいる。その内5つが使われているようで、謎のぬいぐるみが置かれていたり、掛け布団がめくれていたりとそれぞれ使用感があった。そのうちの一つ、一番布団の多いそこに、彼女は腰掛けていた。

 

「――ジュンコ」

 

「――あ……」

 

思わず頭が真っ白になる。もう合わせる顔なんてないと思っていた、私が助けたかった友達。――下江コハルが、パジャマ姿で私を見つめていた。

 

 

 

今朝方、突然ツルギ委員長から連絡が来た時には驚いたけど……昨夜の大騒ぎ(この連絡で初めて知った。なんでも美食研究会がトリニティで強奪騒ぎを起こしたらしい。私とハナちゃん以外皆関わってたみたいで……教えてくれてもよかったのに)の原因がどうやら私にあるらしく……あのジュンコがだいぶまいってしまっていて、このままだと最悪自死しかねないと言われて危うくひっくり返るところだった。ハナちゃんが支えてくれたけど。

詳しい事情は後で説明するとのことで、急遽ジュンコと会うことになった。ぶっちゃけあまり体調は良くないのだが、今はそんなこと言ってられない。幸い熱も下がっていたため、強めの薬を使い、ジュンコが連れられてくるまで寝て待つことにした。

 

そして今。ちょうどついさっき起きたばかりの私の前に、ジュンコが放り込まれてきた。……実を言うと、見た時本当にジュンコか一瞬疑ってしまった。あまりにも、その……目が……光を失ってて……何があったらこうなるの?

 

「……コ……コハ……」

 

パクパクと、ジュンコの口が池の鯉のように開閉する。顔色が悪い。もともと白目の肌が、今や血が通っていないかのように青褪めている。目も右往左往していて、とても健常とは言い難い。……うん、これは会話にならなさそうだ。今は落ち着かせるのが先決だろう。

 

「ジュンコ。とりあえず、座らない? どこでもいいから。対面がきついなら、隣でも、なんなら私から一番遠い場所でもいいよ」

 

「……っ」

 

「落ち着いて。深呼吸して。大丈夫、急かしたりしないから」

 

吸って……吐いて……吸って……吐いて……と、指示しながら呼吸を整えさせると、半ばパニック状態に近かったジュンコの息は次第に落ち着いてきたようだった。……うん、少しマシにはなったかな。本当は近づいて気遣ってあげたいんだけど、如何せん薬で無理やり動いてる状態なので、今は言葉だけで許して欲しい。

 

落ち着いた? 大丈夫なら座って。立ち話もなんだから。と、タイミングを見計らって声を掛けると、ジュンコはフラフラと言われた通りに私の対面に座った。……目を合わせてくれない。あのいつも元気一杯で騒がしいジュンコが、まるで借りてきた猫のようだ。いや本当に何があったの? 私が原因らしいけど、何かしちゃったかな……。

 

「……うーん、ねえジュンコ。一応聞くね。辛かったら何も言わなくて大丈夫だから。……昨日何かあったみたいだけど、何があったの? まだ詳しいことは何も聞いてないの」

 

いやまあ一応予想はついてるけど。たぶんゴールドマグロ絡みじゃないかなーって。何せ幻の魚だし、そりゃ美食研究会の人間なら食べたくなるよね。トリニティが半ば厳戒態勢に入ってる今の時期に狙うのはなかなかリスキーだが、この子や、話に聞く美食研究会の人たちならやりかねない。……でもそれで失敗して正義実現委員会に取り押さえられた程度でこうもなるだろうか。私が原因って話とも辻褄が合わないし。

疑問をストレートにぶつけてみると、途端ジュンコは携帯のバイブレーションのように震え始めた。ああうん、やっぱり自分の口から説明するのは無理か。

 

「ジュンコ、落ち着いて。大丈夫、何も言わなくていいから。ごめんね。……ツルギ委員長」

 

「ああ、私が説明する。……昨夜――」

 

 

 

ツルギ委員長から事のあらましを聞いた私は、開いた口が塞がらなかった。……ええと、つまり。ゴールドマグロにはあらゆる病を治すなんて伝説があり、それを知ったジュンコが私の病気を治そうとして美食研究会を味方につけて襲撃し、奪取はしたものの妨害を受け、ツルギ委員長とゲヘナの空崎ヒナ相手に奮闘し、……結局川でマグロを無くした、と。……うわあ。

思わず顔を両手で覆ってしまう。なんというか、物凄く胸が痛くなる話だ。いや心臓ではなく。私の場合は思いっきり騒動の原因だから尚更ね。

……確かに、ジュンコにはどうにも食べ物関係になると極端に不運になる傾向があった。でも、よりによってこの件でバッドラックを発揮しなくてもいいだろうに。……これは本人が一番言いたいか。

 

それにしてもどうしよう。なまじっか彼女の暴挙の原因なものだから、下手なこと言えない。この件での彼女の頑張りを思うと、否定するようなことは口が裂けても言えないし……でも、こんなやり方で治ったとしても……うーん……。

 

悩む私に対し、唐突にジュンコが口を開いた。

 

「ねぇ、コハル……」

 

「うん? どうし……」

 

たの、と言い切る前に、私はジュンコに押し倒されていた。初めて目と目があった。

 

「――聞きたいの。コハル、大丈夫だよね?」

 

「……だ、大丈夫って何が?」

 

聞き返しながらも、明らかに臨戦態勢に入って今にもジュンコを引きはがしにかかりそうなツルギ委員長を目で押し留める。幸い委員長はギリギリ気付いて動きを止めてくれた。それに気づかないまま、ジュンコは私に問いかけ続ける。――瞳孔の開いた目から、涙を流しながら。

 

「……死なない、よね? 大丈夫なんだよね? きっと、いつか、良くなるんだよね?」

 

「……っ」

 

「良くなるって、言ってよ。あの日、部屋で見たアレも……何かの間違いだって、そう言ってよ。お願いだから……じゃないと私、私……」

 

涙を流し続けながら、ポツリ、ポツリと言葉を投げ続けるジュンコに、私は固まった。……今のジュンコは、罪の意識に苛まれている。私を助けるチャンスを不意にしてしまったと。このままだと、私が死ぬのではないかと。

……あの日見たアレ……もしかしてあれだろうか。最後にジュンコとリアルで会ったとき、私の部屋でジュンコが見つけてしまった、アレ。気にしないでと言っておいたし、ジュンコもその日こそ挙動不審だったけど、後日のモモトークではいつものジュンコだったからすっかり安心していた。今考えると気にしないわけないよね……流石に無理があったし。なるほど、ジュンコが今の時期に動き出したのは、私の時間が残り少ないと悟ったからか。

 

――一つ、深呼吸をする。

 

「……あー、ゴメンね、ジュンコ。不安にさせちゃったみたいで。大丈夫だよ、死ぬわけじゃないから」

 

「……嘘」

 

「嘘じゃないよ。私がジュンコに嘘ついたこと一度でもあった? あの日のアレはただの書き損じ。ホントにやりたいことだけ書きまくったら量が多くなりすぎて収拾つかなくなったから消しただけ。おっきなバッテンついてたでしょ?」

 

病気も、いずれ治るから大丈夫。無茶させて本当にごめんね。

 

私の言葉に、ジュンコは動きを止める。今しかない。ちょうどジュンコの方から近づいてくれたのだから。

 

「あっ……」

 

「――本当に、ありがとね。ジュンコ。やり方はちょっと褒められないけど……気持ちは凄く伝わったし、嬉しかった」

 

ぽんぽんと、背中を叩いて落ち着かせる。ジュンコって食べ物に目がない割には小柄で体重も軽いから抱きしめやすくてとても助かる。背丈もほとんど変わらないから首が痛くなる必要もないし。

 

「……死なない?」

 

「死なないよ」

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

どうにも不安が根強いのか、何度も何度も聞いてくるジュンコに、根気強く何度も返す。……やがて、死人のような顔をしていたジュンコは、ニッコリと私に笑いかけた。

 

「……よかったぁ……」

 

そのままズルズルと、私にもたれ掛かってくる。うっ……いくら軽い方とはいえ、私にはちょっと重い……。

 

「……これで、コハルが治らなかったらどうしようって。死んじゃったらどうしようって。私のせいだって、ずっと思ってた」

 

「……何かあったとしても、ジュンコのせいじゃないよ。それにね、マリーさん……シスターさんが言ってたの。死んだ人の魂は神様にすくい上げられて、善行を積んだ人は楽園(エデン)に導かれるって。私はシスターフッドの人たちほど敬虔な信者ではないけれど……たぶん、ギリギリ楽園に行けるんじゃないかな」

 

まあ今すぐ行きたくはないけどね。なんて冗談めかして言うと、ジュンコの目からブワッと涙が溢れた。ジュンコ!? なんか涙腺壊れてない? 大丈夫!?

 

「いやだぁ……! コハルを神なんて性悪に連れてかれたくないぃ……!」

 

「しょ、性悪って……もう、泣きすぎ。ほら、ハンカチ。これで拭って。目がおかしくなっちゃうよ」

 

「うえぇ……!」

 

「なんかすっごい幼くなっちゃった……あー、よしよし。大丈夫よ、私はここにいるから」

 

少なくとも、もうしばらくは。

 

 

 

「……寝ちゃいましたね……ツルギ委員長」

 

「……ああ、わかった」

 

泣きつかれたか、昨晩の疲労が響いたか。スゥ…スゥ…と小さな寝息を立てて眠るジュンコを眺めながら、ツルギ委員長を見る。委員長は皆まで言わずとも私の意を汲んで、起こさないようにジュンコを抱き上げてくれた。……ふふ、正義実現委員会のトップにお姫様抱っこされるゲヘナの生徒か。なかなかに凄い絵面だ。エデン条約の広告にピッタリじゃなかろうか。

 

「――コハル」

 

「はい?」

 

ジュンコを抱えて部屋を出ようとしていたツルギ委員長が、振り返って私に呼びかける。どうしたんだろう?

……しばらく、沈黙が続き……じっと私を見つめていたツルギ委員長は、不意に視線をそらした。

 

「……いや、何でもない。今日は突然連絡した上に、こんなことをさせてすまなかった」

 

「気にしないでください。ジュンコの暴走の原因は私にありましたし。むしろここでジュンコと話せなかったら、今後どうなってたことか……」

 

ジュンコのあの様子を見る限り、ツルギ委員長が強引につれてこなかったら……うん、どう考えてもいい方向には行かない気がする。自死しかねないと判断されたのも仕方ない。私にもそう思えたもの。まあでも、とりあえず今の会話でその危険性はなくなったかな。

 

「まずろくなことにはならなかっただろうな。……重ね重ね礼を言う。ありがとうコハル。今日は体調は大丈夫だったのか?」

 

「体調は……はい。もう試験も近いですから、また体調を崩して受けられませんでした、じゃお話にならないですし」

 

「……コハル」

 

スッと、ツルギ委員長が手を伸ばしてきた。片手で器用にジュンコを抱えながら、もう片手で私の頬を撫でてくる。ちょっとくすぐったい。

 

「以前した約束を、覚えているか?」

 

「約束……あれですか? 何かあったら報告しろっていう」

 

「そうだ。……くれぐれも、忘れないでくれ。お前に何かあったら、みんなが悲しむ。ハスミも、イチカも、マシロも。――勿論、私もだ」

 

「ツルギ委員長……」

 

「……息災でな、コハル」

 

ツルギ委員長は多くを語らず、ジュンコを抱えて去ってしまった。寝室の中が急に静まり返る。

 

「……あ、しまった」

 

昨日わがままを言って買って来てもらった限定パフェ。結構大きくて、一人で食べきるのは無理そうで……せっかくだからジュンコに食べさせようと思ってたけど、話の流れですっかり忘れてた。

 

「……これは買ってきてくれたみんなで一緒に食べるとして……今度、ジュンコを誘って一緒に行こうっと」

 

――私の命が、尽きる前に。

 

 

 

これは、少し前の話。トリニティのアクアリウムに、ゴールドマグロが展示されるという話が出てきたばかりの頃だ。

 

 

 

「う、うへぇああぁ!? ななな、なんですか急にアポなしで! せ、正義実現委員会の委員長に突っつかれるようなことしてませんよ!」

 

カーテンが閉め切られ、薄暗い古書館の中で、テンパった様子の図書委員長が喚いていた。……なるほど。

 

「い、一体何のようですか!? いくら正義実現委員会委員長といえども、抜き打ち査察は断固抗議しますよ! やましいものなんて何も「――お前の本性はもう知っている。くだらない猿芝居はよせ。話が進まない」!……」

 

嫌な空気が、古書館内に染み渡る。物理的なものではない、されど確かに感じる、湿った気配。化けの皮を被った、温度のない視線。

 

「――なるほど。ハッタリ……ではなさそうですね」

 

やれやれ、面倒なのがまたしても……

 

頭を振って、図書委員長――古関ウイはどっかりとソファに座り込んだ。先ほどまでの狼狽っぷりが嘘のように怯えた目が一転、ふてぶてしさ全開でこちらを見ている。……話に聞いていただけだったが、こいつの素はこっちか。人嫌いで厭世的で、他者に関心を持たない。ある種の究極的な傍観者。確か後輩の円堂シミコくらいだったか、彼女が興味を向けるのは。

 

「それにしても、言うに事欠いて"猿芝居"と来ましたか。このキャラ、結構気に入ってるんですけどね。お嬢様どもの受けが良くて、勝手にベラベラ大事なことをお漏らししてくれるので」

 

「そこらのお嬢様と一緒くたにされたのは生まれて初めてだ」

 

「へーそうですか。よかったですね」

 

至極どうでも良さそうな反応をした古関ウイは、胡乱げな眼差しで私を見つめた。

 

「で? ご要件は? くだらないことでしたら辞書があるんでそちらへどうぞ」

 

「ゴールドマグロについて話を聞きたい」

 

「アクアリウムがご丁寧に解説してくれてますが。ホームページでも見ればいいのでは? 生物学的な細かいところまで書かれてますよ解説欄に」

 

「私が知りたいのは生物学的な話じゃない。――山海経に伝わる伝説についてだ」

 

「……」

 

「……曰く、黄金魚はあらゆる病を癒す、と。これがゴールドマグロのことを指してるのか、伝説は本当なのか、裏付けを取りに来た。他校の伝説とはいえ、トリニティの古書館は歴史も古い。多少なりとも記録はされてるはずだ。……古関ウイ、お前は古書館の本の内容をすべて把握していると聞いた。禁書も含めてな。……頼む。お前の知っている限りの情報を教えてくれないか」

 

「……はぁ」

 

古関ウイは手を額に当て、溜息を一つこぼした。

 

「一つ聞かせてください。それを知りたがるのは……"あの子"のためですか? どう見ても貴方自身は必要なさそうですし」

 

「その"あの子"が、正義実現委員会の人物を指してるなら、答えはYESだ」

 

「……。いいでしょう。本来ならば閲覧許可だけ出してあとは勝手に探せと言うところですが……」

 

ソファから立ち上がって伸びをした古関ウイは、おそらく作業机だろう、何かの道具が散らばった机へと向かい、そこに置かれていた一冊のメモ帳を拾い上げた。

 

「これを聞いてきたのは、貴方で二人目ですよ。全く……今では知名度のほとんどない、古い伝説だというのに、どこで聞いてきたんだか」

 

――確かに、ゴールドマグロは山海経に伝わる黄金魚伝説……その黄金魚と特徴が合致しています。では黄金魚=ゴールドマグロなのかと問われると、断言はできません。可能性は高いと言えますが。幻の魚と言われるだけあって、歴史の表舞台に登場することがほぼないんですよ。……ただし、病を癒す黄金魚という存在は、極わずかにですが、さまざまな文献で散見されます。百鬼夜行連合学院や、オデュッセイア海洋高等学校など、魚を食す文化のある自治区ですね。……結論から言えば、『伝説上の黄金魚の薬効はある。ゴールドマグロが黄金魚かは断言できない』と言ったところでしょうか。

 

喋り疲れたのか、古関ウイは机に置いてあったアイスコーヒーを一口すする。カラリと中の氷が軽い音を立てた。

 

「……現状の情報を纏めた上での結論です。わざわざ現地くんだりしてまで確認してきたので、そう間違ってることはないでしょう」

 

「わざわざ現地まで確認しに行ったのか?」

 

割と素で驚く。あの古書館の魔術師が……口さがない者曰く"引きこもり"が、外出し、それも他自治区まで出向くとは……。

 

「私も、他人事ではありませんでしたので。――さて、私が知っている情報はここまでですが、これを知った上でどうするおつもりで?」

 

「……アクアリウムに交渉して、ゴールドマグロを譲ってもらう」

 

「無駄ですよ」

 

「何?」

 

自慢ではないが、こんな形でも私もトリニティの生徒であり……まあそれなりに懐は厚い方だ。流石にティーパーティーほどではないが。故に、買い取れる可能性は他の人間より高いと踏んでいたのだが……

 

「さっき言ったでしょう。聞いてきたのは貴方で二人目だと。……件のゴールドマグロは展示期間終了後、表向きには海に帰されるとされていますが……実際には、ある人物によって既に買い取られ、所有権が移っています。彼女曰く、伝説が本当か確かめるそうですよ。金持ちの道楽Level100って感じですね」

 

「それは……困るな。本当に困る。せめてあの子の分は残してもらわないと……そいつは誰だ?」

 

古関ウイは不機嫌そうに片眉をあげた。憮然とした表情で、嫌そうに口を開く。

 

「――現ティーパーティーホスト代理。つまり、貴方の飼い主ですよ」 

 

 

 

「もっとも、今回の騒動でゴールドマグロは喪失。全て水の泡になったわけだが……」

 

流れるトリニティの風景を車窓から眺めながら、独りごちる。運転手をしてくれている生徒、正義実現委員会の後輩が私を気にして気も漫ろのようだが、何でもないと手を振ると視線をバックミラーから外した。散漫にさせて悪いが運転に集中して欲しい。

 

――赤司ジュンコの心境は、とても他人事とは言えないものだった。最初は美食研究会が主犯ということで馬鹿が馬鹿やらかしただけだと思ったが……実際は、コハルの治療のためだった。……最初から動機を知っていれば、上手いこと逃がしていただろうが……今更言っても詮無きことだ。

赤司ジュンコの気持ちは、痛いほどによくわかる。空崎ヒナにかなり強引なお願いをしてまでコハルとの会話を設けたのは、私が同じ立場でこの結果になったら間違いなく発狂してるからだ。……安い同情だ、本当に。

 

「……しかし、これでナギサ様に交渉する必要もなくなったか」

 

そこまで考えて、一つ思い至る。今更だが、何故ナギサ様はアクアリウムからゴールドマグロを買い上げたのだろうか。古関ウイは金持ちの道楽と言っていたが……もしや……

 

「実はコハルと関係があったり……いや。流石にないな」

 

何せ、明らかにコハルを利用して、何か企んでいるのだから。でなければ補習授業部などとわけの分からない部活を無理やり作った上、強制的に合宿に放り込んだりしない。……ふぅ。

考えていたらイライラしてきたので、息を吐いて落ち着かせる。私までハスミのようになっては収拾がつかない。……コハル。

 

先の会話にて、病はいずれ治ると語っていたが……今までコハルを見てきた私には、とてもそうは思えない。救護騎士団からも、あの子の症状が根治するものだとは聞いていないのだ。ミネ団長が自身の無力さを嘆いていたこともよく覚えている。もっとも、私のほうが無力だが。何せ何もしてやれていない上、こうしてお上の事情に巻き込まれ様々な負担をかけてしまっているのだから。……ミネ団長は今行方知れずとのことだが、今回のコハル周りについて全部知られたらとんでもないことになりそうだな、私含めて何人かが。

 

まあそんなことはどうでもいい。重要なのはコハルの発言が真実か否かだ。真実なら万々歳だが……あれが、赤司ジュンコを慮っての嘘だとしたら。もっと言えば……一瞬本人を問いただしかけて……あまりにも重すぎてつい日和ったが……もしも、死なないという発言すらも、嘘だったのなら。

 

「『逃がした魚は大きい』というが……あまりにも大きすぎるな……」

 

私は……いや、正義実現委員会(私たち)は。正義のために、とても大きな代償を払ったのかもしれない。

 

 

 

トリニティ本校舎の屋上。夕焼けに沈むトリニティの街並みを、私は1人眺めていた。狙撃手たるもの、訓練も兼ねてこうして屋上から街並みを眺めるのが、私は好きだった。

視力が高い私には、ここからでも街の様子がよく見える。笑って会話する生徒たち。笑顔で走る子供たち。――平和な日常。今日も一つ、正義を為すことができたと、見る度に胸を張ることができたのだ。

なのにどうしてだろう。今日は、この光景を見ても気分が晴れない。胸のうちに鉛が入り込んだかのように、重苦しい物がつかえている。

 

「ああ、やっぱここだったっすか」

 

不意に声が聞こえて振り返ると、そこには何でも卒なくこなす、尊敬する先輩の1人が立っていた。

 

「……イチカ先輩」

 

「……。隣、失礼するっすよ」

 

どっこいしょ、と大げさな声を上げて、イチカ先輩が私の隣に腰掛けた。そのまま夕焼けに沈む街並みを眺める。言葉を発する気になれなくて、先輩も口を開かず。不思議な沈黙が、しばらくの間続いた。

 

「……聴取記録、見たっすよ」

 

「……」

 

15分ほど経っただろうか。不意に、先輩が口を開いた。ああ、貴方も見てしまったんですね。

 

「……先輩」

 

ぎゅっと拳を握る。言葉にならない気持ちが、握力という形で出力された。それでも何とか、胸の内を言葉で伝えようと努力する。

 

「……私たちは、間違っていたんでしょうか?」

 

「……マシロ」

 

「条約前の大事な時期に、ゲヘナの生徒がトリニティの財産を奪取した。いつものゲヘナらしい、欲望が全ての犯行だと思っていました。それを取り返し、犯人を捕まえることこそ正義の行いだと。――でも!」

 

目頭が熱くなる。思わず目をこすると、「あまりこすると目がおかしくなるっすよ」とイチカ先輩がハンカチを差し出してくれた。素直に受け取って目元に当てる。

 

「……全部、コハルさんのためだったんです。あの魚が、コハルさんを治す唯一の手段かもしれなかった。なのに……私たちはそれを知らずに、あの人たちの邪魔をしました。その結果、マグロは……」

 

「……仕方ないっすよ。マグロにそんな伝説があるなんて誰も知らなかった。美食研究会が今までやってきたことがことだったんで、誰もそんな裏があるなんて考えもしなかった」

 

「でも、もっとやり方があったはずです! ……先入観に囚われず、動機を聞いていれば……正しさを盲信しなければ……こちらから歩み寄っていれば、こんな結果には……」

 

ズルリと、肩に下げていた愛銃のケースがずり落ちた。普段ならいの一番に直すそれに、今は触れる気も起こらない。

 

「……先輩。コハルさんのために行動したあの人たちと、それを妨害した私たち。どちらが、本当の"正義"と言えるのでしょう。……今の私には、彼女たちを悪だと断言できません。むしろ……私たちのほうが……悪だったのでは……」

 

「……マシロ、しっかりするっすよ」

 

イチカ先輩が肩を揺らしてくる。

 

「難しい問題っすけど……決して、私たちが徹頭徹尾間違っていたわけではないっす。私たちはトリニティの正義をなした。その結果、別の正義……ジュンコさんたちの正義とかち合った。それだけの話っすよ。……向こうの正義に、コハルが絡んでただけで」

 

「別の、正義……」

 

……よく、わからない。正義とは、不変のものではないのか。絶対の指針では、なかったのか。

 

「いいっすか、マシロ。よく聞くっすよ。前から一度は言っておかないといけないと思ってたんで、ちょうどいいから今言うっす」

 

イチカ先輩が目を開いて、私の顔を手で挟んで目と目を合わせた。普段なかなか見られない綺麗なガラス細工の様な瞳に、人様には見せられない顔をした私が映っている。

 

「……正義っていうのは、人の数だけあるんすよ。時にそれらをぶつけ合って、時に同調して、皆この社会で生きている。……私達が今まで取り押さえてきた犯罪者達は、いわば彼女たちなりの正義に沿って行動した結果、私たちトリニティの正義とぶつかっただけなんすよ。……まあだいたいその正義がしょうもないんで、そうそうこんな事態にはならないんすけどね」

 

今回の場合は、『どちらかが間違っている』のではなく、『どちらも正しかった』んすよ。

 

喋り疲れたのか、イチカ先輩は持っていたペットボトルの飲み口を口に当てた。マシロも飲むっすか? と差し出してきたそれを、遠慮がちに受け取る。

 

「どちらも正しかった……でも……」

 

「『それではどうすればいいのかわからない』……当たってるっすか?」

 

「!」

 

目を丸くして驚いた私に、イチカ先輩はくすくすと笑って、懐かしそうに目を細めた。

 

「……私にも、同じように悩んでた時期があったんすよ。相手が正しくて、でもやり方がトリニティの正義と反してる。じゃあどうすればいいのか、何が正しいのかと……長い事考えて、出した結論が……『後悔しない選択をする』ことっす」

 

「後悔しない、選択……」

 

「相手も自分も正しいのなら、自分が後悔しない選択をする。勿論私たちの立場上、トリニティの正義が最優先っすけど……誰もが正しいならば、後で後悔しない正しさを選ぶ」

 

……それで今回みたいになることも、稀にあるんすけどね。それでも、反省はしても後悔はしない。反省と後悔って、似ているけれど違うものなんすよ。

 

イチカ先輩は遠くを見つめながら私に語った。

 

「……私には、わかりません」

 

だって私にとって、今まで正義は一つしかなかったから。先輩たちが作ってきた、トリニティの正義こそ唯一絶対で。……それが、人の数だけ正義があるなんて。まるで足元が崩れて奈落の底に落ちているような気分だ。

そんなにたくさんの正義から、後悔しない選択をするなんて、私には……

 

「あー、マシロは生真面目だから、なかなか受け入れ難いっすよね。……まあ、考え方の一つということで。頭の片隅にでも入れておいてくれると嬉しいっす」

 

そう占めたイチカ先輩は、立ち上がって大きく伸びをした。いつの間にか日は沈み、夜の帷が顔を出している。

 

「……正義って、なんなんだろう」

 

輝く月は、小さくつぶやいた私の疑問に答えてくれる気配はなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。