好奇心の下僕   作:かんぱにい

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ニッコロ・マキャヴェッリ


運命の女神は、積極果敢な行動をとる人間に、味方する。

 

月曜日、俺と佐倉は生徒指導室に呼び出された。

理由というのは他でもない、土曜日の1件である。

俺と佐倉が着席するなり、呼び出した張本人──茶柱先生は頭を下げた。

 

「すまなかった、佐倉」

「え、えと……」

 

教師が頭を下げているということが落ち着かないのか、ちらっとこちらに目をやる佐倉。

俺としても少し驚きだ。

確かに教師とはいえ、一見生徒に興味のなさそうな茶柱先生が、佐倉に対して謝るとは思っていなかった。

 

「本来ならば学校側が早々に対処すべき案件だった」

 

茶柱先生はそう言うと、机の上に組んだ両手を一度ほどき、ゆっくりと顔を上げた。その表情には、いつもの厳しさとは異なる、どこか苦い色が滲んでいる。

生徒指導室に流れる沈黙が、重く胸にのしかかる。

 

「被害が表に出ていなかったとはいえ、相談の機会を作れなかったのは、我々大人の落ち度だ」

 

佐倉は小さく肩をすくめ、膝の上で指を絡めている。視線は床に落ちたままで、声を出すこともできない様子だ。

土曜日の出来事が、まだ彼女の中で整理しきれていないのだろう。

 

「怖い思いをさせた。……本当に、すまない」

 

再び頭を下げる茶柱先生の姿に、佐倉は慌てたように顔を上げた。

 

「い、いえ……その……」

 

言葉を探すように口を開き、結局何も言えずに俯く。その横顔には、まだ不安の影が残っていた。

茶柱先生は一度咳払いをしてから、淡々と、しかしはっきりと言葉を続けた。

 

「例の男は、その場で逮捕された。現在も勾留中だ。少なくとも在学中、敷地内に近づくことは一切できない」

 

その言葉を聞いた瞬間、佐倉の肩から、ふっと力が抜けた。

強張っていた背中がわずかに丸まり、浅かった呼吸が、ようやく深くなる。

 

「……そう、ですか……」

 

小さな声だったが、そこには確かな安堵が滲んでいた。

 

だが、茶柱先生はそこで話を終えなかった。

 

「それからもう一つ。男はポイントを不正に大量保有していた。約150万ポイントだ」

「……え?」

 

佐倉が思わず顔を上げる。

 

「それらは、卒業後に賠償金として佐倉に支払われる予定だ」

 

一瞬、言葉の意味が理解できなかったのだろう。

佐倉は目を見開き、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。

 

「……ひゃ、150……まん……?」

 

安心が完全に驚きへと塗り替えられた表情を見て、俺は内心で小さく息を吐いた。

 

茶柱先生は、佐倉の驚いた表情を一瞥すると、少しだけ声の調子を落とした。

 

「……補足しておくが、その賠償金には口止め料の意味合いも含まれている。今回の件を公にせず、学校側としても穏便に処理するためだ」

 

佐倉は一瞬、戸惑ったように視線を泳がせたが、やがて小さく頷いた。

 

「……わかりました」

 

その返事は、どこか大人びて聞こえた。

 

「今日はもう戻っていい。佐倉、無理はするな」

 

そう促されると、佐倉は椅子から立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。

扉へ向かう足取りはまだ慎重だったが、入室したときよりも確実に軽くなっていた。

俺も立ち上がり、彼女と並んで退室しようとした、そのとき。

 

「……綾小路。お前は残れ」

 

背後から、低く呼び止める声がかかる。

 

佐倉は一瞬振り返ったが、何も言わず、静かにドアを閉めた。

生徒指導室に残されたのは、俺と茶柱先生だけ。

 

扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 


 

ドアが閉まったのを確認すると、茶柱先生の表情から先ほどまでの柔らかさが消えた。

感情の温度が一気に下がり、いつもの鋭く冷静な視線に戻る。

 

「……随分と思い切ったことをしたな」

 

探るような視線が、まっすぐこちらに向けられる。

 

「お前が佐倉を危険に晒した。違うか?」

 

俺は肩をすくめ、淡々と答えた。

 

「結果的には、そう見えるでしょうね。ですが、制御できない状況ではありませんでした。想定外が起きれば、すぐに手を打つつもりでしたし、実際──問題は起きていません」

 

言葉を選びながらも、後悔の色は混ぜない。

 

「荒治療に見えるかもしれませんが、あれが一番確実に終わらせる方法でした」

 

室内に、張りつめた沈黙が落ちた。

茶柱先生は腕を組み、椅子の背にもたれかかる。

 

「……結局、お前の狙いは何だ」

 

探るというより、確認に近い声音だった。

 

「最初から隠していません。目標はひとつ──ホワイトルームを終わらせることです」

 

一切の迷いなく答えると、茶柱先生はわずかに目を細めた。

 

「そのために、佐倉を利用する価値があると?」

 

その問いに、俺は即答しなかった。

一拍置いてから、軽く息を吐く。

 

「どうでしょうね。人の価値なんて、事前に測れるものじゃない。今はただの小さなきっかけでも、いつか思わぬ形で作用することもある」

 

視線を天井へ向け、淡々と続ける。

 

「蒔いたものが芽を出すかどうか──それを知っているのは、せいぜい運命の神様くらいでしょう」

 

茶柱先生は、それ以上追及しなかった。

短く息を吐き、視線を逸らした。

 

「……用は済んだ。もう下がっていい」

 

事務的で、感情を切り離した声音だった。

 

俺は椅子から立ち上がり、ドアへ向かいかけてから、ふと思い出したように振り返る。

 

「ああ、そうだ。一つ言い忘れていました」

 

茶柱先生の眉が、わずかに動く。

 

「あなたも、俺の計画に含まれています。使えるものは全部使う主義なんで──そのつもりで」

 

それだけ告げて、俺はドアノブに手をかけた。

背後から返事はない。

だが……わざわざあんな煽るような言い方をしたのだ。

それでも無言を貫くというのなら、肯定と取らせてもらう。

 

 

生徒指導室のドアを閉めると、廊下の静けさがやけに際立った。

そして、その静かな廊下の壁際に──佐倉が立っていた。

 

「……」

 

一瞬、思考が止まる。

まさか、盗み聞きでもしていたのだろうか? 

反射的にそんな考えがよぎり、次の瞬間には否定する。

ここは生徒指導室だ。プライバシー配慮の名目で、壁は防音仕様。

外に声が漏れることはまずない。

……こんなことに気がつかなかったのは、給湯室だけ例外だったせいか。

 

 

「佐倉」

 

声をかけた途端、佐倉はびくっと肩を跳ねさせた。

 

「ひゃっ……!?」

 

明らかに驚いた様子で、慌ててこちらを向く。

その反応を見て、盗み聞きの線は完全に消えた。

 

「……もう帰ってもよかっただろ」

 

そう言うと、佐倉は一瞬だけ視線を彷徨わせ、指先をぎゅっと握りしめる。

 

「う、ううん……」

 

小さく首を振ってから、意を決したように続けた。

 

「い、一緒に……帰りたかったから」

 

声はか細いが、はっきりとした意思があった。

その言葉に、俺は一瞬だけ返答を迷い──そして何でもないことのように頷いた。

 

「そうか」

 

廊下に並んで歩き始めたものの、会話は続かなかった。

沈黙が、やけに長く感じられる。

俺も佐倉も、雑談が得意なタイプじゃない。

話題を探す視線が宙を彷徨い、結局どちらも口を開かないまま、靴音だけが一定のリズムで響く。

 

「……あ、暑いね」

 

耐えきれなくなったのか、佐倉が小さく呟いた。

ぎこちなく、それでも勇気を振り絞ったような声だ。

 

「もう6月の後半だしな」

 

我ながら、面白みのない返答だと思う。

それでも佐倉は、ほっとしたように小さく頷いた。

 

再び沈黙。

こうして考えると、女子と二人きりで、目的もなく話す機会自体がほとんどない。

堀北は、会話が成立しないというか、無言が通常運転だ。

櫛田に至っては、こちらが聞き役に回ることが大半で、雑談というより愚痴の処理に近い。

 

そういえば椎名とは、多少話すか。

もっとも、内容は決まって本の話ばかりだが。

普通の会話、ってやつは、案外難しい。

 

しばらく歩いたところで、佐倉が立ち止まった。

横目でこちらを窺いながら、言い出しづらそうに唇を開く。

 

「……い、今更なんだけどさ」

 

一拍置いて、意を決したように続けた。

 

「名前で……呼んでも、いい?」

 

一瞬だけ考え、俺は頷く。

 

「構わない。俺もそうする。……むしろ、デート中からそうしておけばよかったな」

 

冗談めかして言うと、佐倉は目を見開き、すぐに顔を赤らめた。

 

「そ、そんな……」

 

その反応に、少しだけ空気が和らぐ。

 

だが、廊下の分岐に差しかかったところで、俺は足を止めた。

 

「悪い。俺は生徒会室に用がある」

「生徒会室……?」

 

不思議そうに首を傾げてから、すぐに小さく笑った。

 

「そっか。じゃあ……ばいばい」

「ああ。またな」

 

校舎内で別れ、それぞれ違う方向へ歩き出す。

俺は背を向けたまま、目的地へと進路を変えた。

そのまま、生徒会室へ向かう。

 

 

軽くノックをしてから、生徒会室のドアを開いた。

 

中に足を踏み入れると、まず視界に入ったのは部屋の奥に並ぶ上級生たちだった。

机を挟んで座るその面々は、生徒会の役員だろう。

以前、部活説明会で司会をしていた橘先輩の姿もある。

 

一方、入口側には一年生が二人。

クラスは違うが、何度か校内で見かけたことがある。

今日はたまたま用があって来ているだけだろう。

 

ふと、片方の生徒に見覚えがあることに気付いた。

5月、茶柱先生に呼び出されたとき、一瞬だけ顔を合わせた生徒だ。

名前は知らないが、確か一之瀬という苗字だったはず。

 

壁際に立たされるような位置取りから、今が面接中であることは容易に察せられた。

 

……タイミングが悪かったか。

 

そう思いつつも、目的の人物を探して奥へと視線を走らせる。

だが、見当たらない。

 

「一年D組の綾小路です。堀北先輩、いらっしゃいますか?」

 

少し間を置いて、奥に座る男子生徒が応じた。

 

「今は不在だ。何か用件か?」

「いえ。それなら、また来ます」

 

踵を返そうとしたところで、声がかかる。

 

「待て。じきに戻る」

「そうですか。……ちなみに、あなたは?」

 

問いかけると、男は面倒くさそうに名乗った。

 

「南雲雅。生徒会副会長だ。それで、Dクラスが生徒会長に何の用だ?」

「生徒会長じゃありません。“堀北先輩”本人に用があるだけです」

 

その一言で、生徒会室の空気がわずかに変わった。

 

「ほう……つまり、お前は堀北先輩と個人的な接点がある、というわけか?」

 

南雲先輩は椅子に深く腰掛けたまま、顎に手を当ててこちらを眺めた。

からかっているというより、純粋に品定めしているような視線だ。

 

「そんな大層なものじゃありませんよ。ほんの少し、二言三言やり取りしただけです」

「それで終わり、とは思えないがな」

 

南雲先輩は小さく鼻で笑い、身を乗り出す。

 

「むしろ、そこまで言うなら気になる。何を話した?」

 

室内の視線が、静かに俺へ集まるのを感じる。

入口側に立っている一年生たちも、成り行きをうかがっているようだった。

 

「内容が内容なので。プライバシー的に、ここで話すつもりはありません」

 

そう告げると、南雲先輩は一瞬だけ目を細め──やがて、面白そうに口角を上げた。

 

「それなら、綾小路──」

 

南雲が続きを言いかけた、そのときだった。

 

「待たせたようだな」

 

低く落ち着いた声が、生徒会室に響く。

振り向くと、入口に立っていたのは堀北先輩だった。

 

「いえ、特に。少しお話があるのですが、今よろしいですか」

「構わない」

 

短くそう答えると、堀北先輩はすぐに踵を返す。

その様子に、橘先輩が思わず声を上げた。

 

「えっ? ちょっと待ってください、面接は──」

「俺の判断はすでに決まっている」

 

堀北先輩は足を止めず、淡々と言い切る。

 

「推薦する価値があるかどうかは、あとはお前たちで確かめろ」

 

そう言い残し、俺に視線を向ける。

 

「行くぞ」

「はい」

 

俺は一礼だけ残し、堀北先輩の後を追って生徒会室を出た。

背後で、生徒会室の空気がざわめくのを感じながら。

 

 

生徒会室を出て、廊下に出たところで堀北先輩が足を止める。

俺は一歩遅れて並び、その背中に向けて口を開いた。

 

「誘っておいてなんですが……さっきの判断、あれでよかったんですか?」

「問題ない」

 

即答だった。

 

「生徒会には優秀な人間しかいない。本当に必要な人材なら、誰かが拾い上げるだろう」

 

ちらりと横目だけこちらに向ける。

 

「それで。要件は何だ」

「ポイントをください」

 

一瞬、空気が凍った。

 

「……ふざけているのか?」

「いえ。至って真面目です。デートに使います」

「……時間を割いただけ無駄だったな」

 

堀北先輩は小さく息を吐き、歩き出す。

 

「噂って、怖いですよね」

 

その一言で、先輩の足が止まった。

 

「例えば──女子生徒に生徒会長が暴行を加えた、なんて話」

 

ゆっくりと振り返る視線は鋭い。

だが俺は、肩をすくめるだけだった。

 

「もっとも、品行方正で知られる生徒会長です。事実無根なら、何の問題もないでしょうけど」

 

沈黙が、廊下に落ちる。

その静けさの中で、俺は先輩の反応を待った。

 

「……俺を脅すつもりか?」

 

低く抑えた声が返ってくる。

視線は鋭いが、感情が揺れた様子はない。

 

「いえ、全然そんなつもりはありません。録画も録音もしてませんし」

 

俺は即座に否定した。

 

「単純に、ポイントが足りなくなりそうで。それなりの理由を並べれば、分けてもらえるかなと思っただけです」

 

堀北先輩はしばらく黙ったまま、俺を見下ろす。

やがて、短く息を吐く。

 

「……分かった」

 

その言葉に、内心で小さく息をつく。

 

「ただし、条件がある。着いてこい」

 

 

堀北先輩に続いて、生徒会室へと戻る。

 

「失礼しました」

 

ちょうど入口で、先ほど面接を受けていたスキンヘッドの一年生とすれ違った。

入れ替わるような形だ。

 

室内に入ると、入口側に立っていたもう一人──一之瀬は、まだそこに残っていた。

表情は変わらないが、空気が張りつめているのが分かる。

 

「橘」

 

堀北先輩は迷いなく告げる。

 

「綾小路を、新しい生徒会役員とする」

「え?」

 

思わず声が重なった。

俺と、橘先輩の二人同時に。

 

「……聞いてないんですけど」

「条件があるとは言ったはずだ」

「いや、俺、部活に入ってるんですが」

「辞めろ」

 

即答だった。

 

「ええ……」

 

さすがにそれは理不尽じゃないか。

そもそも俺がポイントの話を持ち出したのが発端とはいえ、飛躍しすぎている。

 

「……そこにいる2年の副会長は、元サッカー部だ。今も顔を出している」

「……つまり、部員ではなくなるけど、それ以上口出しはしない、と」

「顧問の許可が下りればな」

 

逃げ道は、一応用意されているらしい。

 

「ですが……」

 

橘先輩が困惑したように口を挟む。

 

「今日、面接に来た葛城君と、一之瀬さんはどうなるんですか?」

 

あの男子生徒は葛城というらしい。

 

「なら、推薦したい者はいるか?」

 

堀北先輩は室内を見渡す。

 

「俺は、どちらも推薦しない。立候補も拒否する」

 

本人を前にして言う言葉じゃないだろ、それは。

しかも、生徒会長の目の前で、異議を唱えられる生徒がいるわけもない。

 

「一之瀬帆波」

 

名指しされ、一之瀬の肩がわずかに震えた。

 

「理由は……理解しているんじゃないか?」

 

一之瀬は唇を噛みしめ、何も言わない。

必死に感情を押し殺しているのが、痛いほど伝わってくる。

……見ていられなかった。

 

「──じゃあ」

 

俺は一歩前に出る。

 

「俺が、一之瀬を推薦します」

 

その言葉で、生徒会室の空気が一瞬、止まった。

 

「……本気か?」

 

堀北先輩の視線が、真っ直ぐこちらを射抜く。

試すような目だった。

 

「ええ。本気です」

 

間を置かずに答える。

 

「理由は?」

「一之瀬がBクラスの人間であること。それも理由の一つです。ですが、それ以上に──」

 

視線を、入口側に立ったままの一之瀬へ向ける。

 

「彼女には、ここに入ろうとした意思がある。生徒会に立候補するってのは、そう軽い決断じゃない」

 

葛城はすでに部屋を後にしている。

残っているのは、一之瀬ただ一人だ。

 

「それを理由も告げずに切り捨てるのは、さすがにどうかと思いました」

 

一之瀬は驚いたように目を見開き、すぐに視線を落とす。

だが、握りしめた拳が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。

 

「以上です」

 

短くそう締めくくり、俺は堀北先輩の返答を待った。

堀北先輩と、俺の視線が正面から交差する。

探るような眼差しだった。俺の胸の内──別の意図や打算が隠れていないかを、読み取ろうとしているのかもしれない。

 

だが、残念ながら深い考えなどない。

あれ以上の理由は本当に存在しなかった。

強いて挙げるなら、一之瀬帆波という一生徒に恩を売れる、という程度だ。

 

しばらくの沈黙の後、堀北先輩は小さく息を吐き、結論を口にした。

 

「分かった」

 

そして、淡々と告げる。

 

「1年Bクラス一之瀬帆波。1年Dクラス綾小路清隆。両名を、生徒会役員とする」

 

その瞬間、一之瀬がはっと顔を上げる。

 

「あ……ありがとうございます!」

 

声は少し震えていたが、深く頭を下げるその姿には、抑えきれない安堵と喜びが滲んでいた。

 

生徒会室の空気が、ほんのわずかに和らぐ。

──どうやら、話はひとまず決着したらしい。

 

 

生徒会室を出て、廊下に足を踏み出した、その直後だった。

 

「待って!」

 

背後から、慌てた声が飛んでくる。

振り返ると、一之瀬が小走りで追いかけてきていた。

 

「綾小路君……本当に、ありがとう」

 

立ち止まった彼女は、息を整えながら、まっすぐこちらを見る。

先ほどまで抑え込んでいた感情が、ようやく溢れ出たような表情だった。

 

「気にしなくていい」

 

そう答えると、俺は軽く手を振る。

 

「たまたまだし、深い意味もない」

 

一之瀬は一瞬だけきょとんとした顔をしてから、苦笑する。

 

それでも──彼女の表情には、確かな救われた色が残っていた。

一之瀬は、少し照れたように笑ってから口を開いた。

 

「すごいね、綾小路君」

「……?」

 

突然の評価に、思わず首を傾げる。

 

「生徒会長から、直々に推薦されるなんて」

「いや、あれを推薦と呼んでいいかは、かなり怪しいと思うが」

 

率直にそう返すと、一之瀬は小さく吹き出した。

 

「あはは……確かに」

 

けれど、その笑顔には、さっきまでの緊張はもうなかった。

一之瀬は胸の前で手を握り、真剣な表情になる。

 

「この恩は、必ず返すから」

「そのときが来たら、遠慮なく受け取らせてもらう」

 

冗談とも本気ともつかない調子で返すと、一之瀬は少し安心したように笑った。

 

「じゃあ、また明日ね!」

 

そう言い残して、彼女は足取りも軽く去っていく。

生徒会に入れたことが、よほど嬉しかったのだろう。

 

……一方で、俺の胸中はというと。

 

「放課後、確実に潰れるな」

 

生徒会役員になった以上、自由な時間が減るのは避けられない。

正直、あまり喜ばしい話ではなかった。

 

気づけば、太陽はずいぶんと傾いている。

西日が差し込む廊下には、俺の影がやけに長く伸びていた。

 

今日一日が、思った以上に遠くへ来てしまったような、そんな感覚だけが残っていた。

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