女学生   作:有明S

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朝家を出るまで

 朝起きても、まだ夢の中にいたくなる。なにか夢の中では楽しいことがあった気がして、悲しくなる。私は頭まで布団をかぶって、丸くなった。布団のなかは、おもしろい。小さいころ、布団から手足を出すと、包丁で刺されるとおもって、必死に隠れていた。命をかけた焦りと、楽しさ、それから変な興奮が胸をドキドキさせて、思わず笑い転げてしまいそうになるくらいの、ちがう、むしろ、走り出したくなるくらいの、そんなどうしようもない衝動、でも、布団から外には出れないから、布団の中で丸まって、ここは自分だけの国だと主張する。なんだか、幼い頃のそんな衝動が小さくなってぶり返してきて、それが、悲しいような、それでいて嬉しいような、そんなアンビヴァレントな感覚をおぼえる。その感覚を大事に大事に抱えてるんだけど、どんどんその感覚は小さくなって、しまいにはふと消えてしまうことがわかるものだから、それがいやで布団を剥ぐ。布団の中は思ったよりも広いのに、布団の外は思ったよりも狭い。朝はなんだか、懐かしいことが全部悲しく感じられるから、いやだ。全部投げ出してずっと寝ていたくなる。

 

 きっと、朝は不機嫌なんだ。そう思うと、私は無性に楽しくなってしまって、朝を揶揄いたくなる。

 

 そのはしゃいだ気持ちのままに、えいやと起き上がって、布団をたたむ。朝日に照らされてほこりが舞う。ほこりは、不思議だ。固まると変にグレエな色をして、汚いのに、宙を舞っている時はこんなにも幻想的だ。いや、これは太陽の魔力かもしれない。太陽が照らすものはきっとなんでも美しくなって、ふとした拍子に見えなくなってしまうようなものほど、幻想的に見えるのかもしれない。でも、太陽は、危険だ。あんなにも美しいのに、一度見ると、どこまでも追いかけてくる。目を閉じても、こちらを見てくる。きっとストーカー気質なんだわ。太陽は恋愛妄想(エロトマニア)だから、勘違いしてるんだわ。そんなふうに考えると、おかしくて、笑い転げたい。

 

 朝の鏡は、嫌いだ。パジャマのまま洗面所に立つ。どこを見ているかわからない、薄目の女が、こちらを見ている。眼鏡をかけていないから、どこか輪郭がぼやけている。眼鏡は難しい。眼鏡なんてみんな同じ形をしているから、眼鏡をかけるとみんな同じ顔になる。無機物だから、仕方ない。仕方ないけれど、嫌になる。でも、世の中には眼鏡をかけても特別にきれいな人はいる。お隣のお兄さんも、眼鏡をかけてもイケメンだ。知的な感じがする。そういう人を見ても、不思議と羨ましくは感じない。特別な人は、羨ましくならない。それは私が、まだ世の中のことをよく知らないからなのかもしれない。誰かを独占したくなったら、羨ましくなるのだろうか。誰かを独占していることを想像することがある。いつも決まって、つまらない。私はこれから先も人を好きにならないかもしれない。そう思うと、やはり、ひどく悲しくなる。でも、厭にはならない。だから、なおさら悲しくなる。私には、普通の人に大切なものが、ないのかしら。ひどく泣きたい気持ちになる。喉の奥を開いて、眉根を寄せて、涙を流そうとしてみるけれど、だめだった。もう、涙のない女になったのかもしれない。

 

 あきらめて、顔を洗う。冷たい水に触れた頬が赤くなったのに、瞼は白いままだった。これじゃあ、泣いたふりすらできない。不貞腐れて頬を膨らませてみる。鏡の中で、寝癖の跳ねた女が変顔をしていて、すぐにやめた。

 

 ていねいにお化粧をする。自分の顔がみるみるうちに変わっていくのが、愉快だ。自分の本当の顔は自分しか知らなくて、みんなお化粧した私の顔を見て私だと思ってる。誰にも言えない秘密ができたような気がして、気分が良い。

 

 朝、料理をしているお母さんの後ろ姿をぼうっと見る。手伝ってもいいのだけれど、かえって邪魔になりそうで嫌だ。それに、面倒くさい。お母さんはなんでもできる。家事ができないお父さんの代わりに家事をやって、ご近所付き合いもして、ほんとうに驚くほど、いつも動いている。自分の時間がないなんて、私には考えられない。お父さんは、家事はできないし、ご近所さんの顔すらわからないけれど、勉強ばかりしている。朝早くに家を出て、仕事をしたり勉強をしたりして、夜遅くに帰ってくる。やはり、自分の時間なんてない。お母さんもお父さんも、足りないところを補い合っていて、それでいてどこか似ている。見ればわかる、互いに尊敬しているらしい。理想的な、穏やかで美しい夫婦なのだろう。ああ、なんと生意気。生意気。

 

 まだ着替えるには寒いので、窓の前に座って、ぼうっと空を眺める。朝は雲が少ない。きっと、水分が全部()()になって落ちてきているからだろう。目を閉じると、やはり太陽はついてくる。直接見てないのに、どこまでも追いかけてくる。鬱陶しいやつ。

 

 ふと指の爪を見ようとしても、目が見てくれないときがある。仕方がないから頭を振って、位置を合わせるのである。自分がおばさんになったような気がして、ひどく厭だった。きっと歳をとると、身体と魂の大きさが、合わなくなるんだ。身体が反抗して、思うように動いてくれなくなるんだ。やがてそのまま心臓も動いてくれなくなって、死んでしまうんだ。それはきっと、とても悲しい。よぼよぼのおばあちゃんになって、そのうえ、そんなに悲しくなるくらいなら、いま、心も身体も美しいうちに死ねばいいのに。でも、死ぬと醜くなると聞くから、死ぬのは厭だ。

 

 また、こんな時がある。誰かと話していても、目はテーブルのものの載っていない部分にあるのに、口は勝手に動いている。自分がなにを言っているかわかるのに、なぜかおぼえられない。どこか自分が浮いているような気がして、不思議だ。自分の耳と口は動いているのに、まるで自分が自分でないみたいな感覚に襲われる。このままいくと、人は死んでしまうのではないだろうか。自分の中からじぶんの魂のようなものが抜けていって、哲学的ゾンビというのかもしれないけれど、きっとそんなふうにして死んでしまうんだ。そう思うとおそろしくておそろしくて、頭を振って自分を繋ぎ止める。これが解脱というものなのかしら。きっと、このおそろしさに耐えられる人がお坊さんなんだわ。だから、女の仏はいないのね。

 

 また、ある昼下がりに、捨てられた空き缶を見た。道端に空き缶が転がっているだけなのに、どこか、ひどく懐かしいような、哀しいような気分になった。まだ中身が残っていたのか、蟻が群がっている。見たのは一瞬だったのに、その情景が、額縁に入れた写真のように切り取られて残っていた。それは美しい景色だった。でもきっと、夜までには忘れてしまうんだわ。これまでも見たことがあって、これからも見ることがあって、その度に、忘れてはいけない景色があったことを、思い出すんだわ。そう思うと悲しくて悲しくて、泣きそうになった。この一瞬の情景を忘れてしまうなら、いっそ死ねばいいのに。そんなことを思うのに、死にたくはない私の、なんと意地の悪いことか。ああ厭だ。死ぬのも厭だけど、私はもっと厭な人間なんだわ。

 

 そんなことを思っていると、無性に恥ずかしくなって、なにかから隠れたくなる。窓に背を向けても、太陽が私を照りつけてくるもんだから、私は怒って、家の奥へと逃げ込んでしまう。やはり、太陽は、ストーカー気質だわ。

 

 台所に立っているお母さんを見ると、なぜかお母さんが死んでしまうような気がして、無性に甘えたくなる。そんな自分が気恥ずかしくて、ぶっきらぼうな態度になりながら、おはよう、と言う。お母さんは、今初めて気が付いたような顔をして、あら、おはよう、という。嘘くさい。一人で勝手に拗ねて、テーブルにお箸を並べる。箸置きはいらないかと思ったけれど、こういうところからいやな女になっていくんだわ。人のテーブルマナーには顰蹙していながら、自分については考えない。自分が、下品な女になったようで、しょげちゃった。

 

 炊飯器からご飯をよそう。朝は、お父さんがいないから、私と、お母さんだけの時間。特別な時間。自分のお茶碗には気持ち多めに盛って、白々しく、お母さんに量を聞く。少な目でいいわよ、と言われるに決まっているから、お母さんの分は少なめに。私、計算高い女だわ。でも、女は計算高いほうがかわいいというから、このくらいがちょうどいいのかもしれない。計算しすぎると、下品になってしまう。女は生きるのが、難しい。

 

 お茶碗を置いたら、次はお味噌汁だ。そうしているうちに、お母さんがお魚を焼きあげて、持ってくる。お魚は栄養があるというけれど、きっと一番栄養があるのは内臓なんだ。だって一番栄養を使うし、何より苦いもの。良薬は口に苦しというし、苦い部分が体にいいんだわ。なのに、内臓を食べないで、栄養があるというのは、どこか気持ち悪い。きっとそれが人間のエゴイストな部分なんだわ。みんなエゴイストなのに、みんなそれを知らないふりをする。そのアンビヴァレンスが計算高くて、下品だ。人間は生きるのが、難しい。

 

 ごちそうさま、という言葉は、不思議だ。結局何を伝えたいのかわからない。いただきます、という言葉はあんなにも美しいのに、ごちそうさまは不気味だ。ごちそうに、様をつけて、何様のつもりなのだろう。きっと、みんな、なんだかよくわからないで使ってる。不思議に思うことはあっても、調べない。制服に着替えたら忘れる程度の疑問を、ため息で押し流す。食器を下げて、歯を磨いて、着替える。新しい下着を着る。レースがかわいい、淡い色をした下着である。服を着たら見えない。私だけの秘密。得意である。

 

 制服を着たら、カバンに教科書を詰める。カバンを持つと、いよいよ家を出るんだという気がして、遠くへ行きたくなる。電車に揺られて、誰もいない駅で降りるときっと、青いミカンのにおいがする。風が吹く。夏だ。畑はいい。どこまでも遮るものがなくて、空は山の額縁に囲われている。きっと私は暑くて干からびてしまうけど、そのまま野菜の栄養になって、みんなが私の内臓を食べる。そうしたらきっとうれしい。私はずっと生き続ける。そしてそのまま、みんな私になってしまうんだわ。それってとても楽しそう。でも、やらない。私は私だけいれば十分だもの。足るを知るって大切なことだわ。

 

 海もいいかもしれない。死体の上には桜の木が生えるというけれど、海ではきっと綺麗な貝殻が落ちてる。藤壺もいい。藤壺はみんなで一つ、一つでみんなだ。見ていてうらやましい。きっと私は海に入ったら、そのまま沖まで流されてしまう。波にのまれて、肺の隅々にまで海水が入って、苦しくて泣きだしてしまう。でも涙は海水に溶けてしまうから、私は泣けない。海のそこまで連れ去られて、真っ暗になる。魚に体をついばまれると、くすぐったい。私は海岸に打ち上げられることを夢見ながら死んでしまうんだわ。きっと、人生の全てを後悔して、無限に等しい一瞬の中で、ずっと夢を見るんだわ。そのときにならないとやりたかったこともわからないような私だから、そのときになってやりたいことなんてなんにもないことに気づくかもしれない。きっとそう。そうだったら美しい。

 

 私は靴を履いて、行ってきます、と声を投げる。お母さんからの返事を期待する。毎朝、言われている言葉なのに。いってらっしゃい、の返答が、記憶の中のそれと重なったことがなんだかとっても嬉しくて、また、いってきます、としつこく言ってしまう。きっと、明日も同じことをする。それがひどく愉快だった。

 

 





太宰先生は、ふと現代に迷い込んでしまったのであります。

 きっと、太宰先生は、自分がそこまで評価されることを知って、居た堪れなくなるんです。太宰先生は自分の著作のさまざまな解釈を見て、不愉快になるけれども、気楽に他人に話しかけるのもばつが悪いような気がして、なにも言えないでいるんです。しかし太宰先生はものを横目で見ることができません。じろじろとそちらの方ばかり見るものですから、どうも小金持ちそうな、むかしは遊んでいたような老人に話しかけられてしまうのです。太宰先生は気の利いたようなことは言えませんから、やはり瞬時にどもどもしてしまいまして、適当に相槌を打つことしかできないのであります。言いたいことはたくさんありますけれども、初対面の相手に無遠慮にものを言うのは大層失礼な気がして、適当に要領の得ない返事をするのであります。いよいよこれは、とんでもないことになったと、少しでも早く逃げようとするのであります。この場には太宰先生の様子のわかる気の利いたものなどいませんから、太宰先生は、適当な用事をでっち上げまして、そそくさと逃げ去るのであります。しますと、後ろの方でなにやら和やかな会話が始まったのを聞くわけでございます。そうして、一人で反省するのです。どうやら、自分があまりにじろじろするものだから、みなが気を詰まらせていたようだ、と。どうせ俺はだめだ、と一人でひがんでみるものですが、ふと目をやると、往来に、一重瞼のきつい顔をした少女がいるものですから、目が惹かれてしまうのであります。それはコンクリートジャングルを泳ぐ、一頭の鯨でした。背丈は大柄で、170センチを超えるのではないかと思わせるほどでした。その上にヒールを履いているものですから、さらに高く見えたのであります。歳の頃は17か、あるいは18ほどでありましょうか、20になっているかも知れません。どうにも表情が乏しく、白痴めいたものを感じました。美しい女性を見ると詳細に講評してしまうのが太宰先生の悪癖でございますから、この辺りで割愛させていただきますが、なにはともあれ、その少女は太宰先生にとって、どこか崇高さを感じさせる芸術でした。さて、太宰先生は、少女の横に老夫婦が歩いているのに気が付きました。老夫婦は、歳の頃は70ほどでしょうか、顔は茶色く皺まみれで、藁半紙を思わせました。なんとも奇怪な顔のところどころにシミが飛んでいるものですから、太宰先生はなんともあわれに思いました。しかし、件の少女が、老夫婦と手を繋いでいたものですから、太宰先生は大層驚いて、気味が悪く思われたのです。この乞食めいた老夫婦の血を引いた少女が、こんなにも美しく女王のようでありますから、なにか生命に対する深刻な侮辱めいたものを感じまして、気分が悪くなってしまうのであります。しかしそれがより一層少女の美しさを引き立てるものですから、太宰先生は、ますます目が離せなくなってしまうのであります。そうして、少女が人混みに紛れて見えなくなってしまうまで、後ろ姿を追うのであります。あるいは、ふと少女がこちらを向いたものですから、太宰先生はとたんにきまづくなって、目を逸らしてしまったのかも知れません。ともかく、太宰先生は、誰にも言わずにただ一人で、良いものを見た、と胸の内で呟いたのでありました。
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