■広げろ、陰の実力者の、解釈を!! 作:匿名
湿った、鉄錆の匂いがした。
大気が孕むその金属質な気配は、かつてここで流された膨大な血の記憶のようでもあり、あるいはこれから世界を塗り潰していく冷徹な未来の予兆のようでもあった。
放棄された旧時代の地下遺構。天井の亀裂から差し込む月光は、霧散する埃の粒子を白く染め、まるで静謐な教会の祭壇を思わせる。しかし、その静寂を引き裂くように、低い重低音が響いていた。駆動音だ。規則正しく、無慈悲に、ただ生命を拒絶するためだけに時を刻む機械の拍動。
『移設型自動砲台』。
正面を厚利な装甲で固めたそれは、防衛という概念そのものが具現化したかのような無機質な威容を誇っていた。周囲には、教団の手先である人形たちが、影のように張り付いている。
「来るわ」
アルファの微かな声が、冷たい空気の膜を震わせた。
彼女の金髪が、月光を反射して一瞬だけ鋭くきらめく。その瞳に宿るのは、恐怖ではない。完璧であらねばならないという、祈りにも似た、狂おしいほどの義務感だった。
彼女の身体が動く。美しく、無駄のない跳躍。
アルファは敢えて、砲台の正面――最も苛烈な掃射が浴びせられる直線へと身を晒した。それは囮としての役割であり、同時に、万能の英雄たらんとする彼女の「正しさ」の証明でもあった。
死の線上に自らを置くことでしか、自らの価値を測れないかのように。
直後、轟音。
硝煙が視界を侵食し、爆圧が肌を刺す。熱と、光と、破壊の渦。
シドはその嵐の輪郭を見ていた。
敵は、弱い。
世界を混沌に導く『ディアボロス教団』の尖兵にしては、あまりにも手応えがない。だが、その「弱さ」こそが、底知れぬ悪意の証明だった。
命をいくら消費しても構わないという、絶対的な強者の傲慢。消耗品として配備された歪な機構。
僕は地を蹴った。その足取りには、気負いもなければ、躊躇もない。
肉体そのものは、世界の基準から見れば平凡に過ぎない。しかし、彼の歩みには、一切の「揺らぎ」がなかった。過去のすべての選択、積み上げてきた全ての時間が、彼の足裏を支えている。迷うという贅沢を、彼はとうに捨てていた。
手札は無数にある。緻密に制御された魔力が、彼の思考の速度で形態を変えていく。背後に回り込む一瞬、僕の視界に、敵の背反する二つの側面が映る。
守るための硬度と、護るために奪われる命。
進むための意思と、進むことで切り捨てられる何か。
すべては等価値であり、本質的には無意味だ。この自動砲台も、教団の野望も、自分たちの抗いも、宇宙の大きな時間の流れから見れば、一過性の塵に過ぎない。だからこそ、今ここで自分が「どちらを壊すか」を選ぶことに、唯一の価値が生まれる。
僕の刃が、砲台の脆弱な背面へ、吸い込まれるように突き立てられた。
物理法則を置き去りにした一撃。
超高密度の魔力が、装甲の内側から機械の心臓部を消し飛ばす。音も無く、ただ白光が弾け、次の瞬間には鉄の塊が爆散していた。
連鎖するように、僕は周囲の雑魚を薙ぎ払っていく。アルファにかかるはずだった負荷を、流麗な動作で先回りし、すべて無へ帰していく。
僕の放つ魔力は、慈悲深くすらあった。苦痛を感じる隙さえ与えず、存在そのものを歴史から消去していく。
爆炎が収まり、再び静寂が降りてくる。舞い散る鉄屑と、熱を失っていく大気の温度。
アルファは、息を乱すことなくそこに立っていた。だが、その青い瞳は、壊れた砲台ではなく、僕の横顔を見つめている。
「……私のサポートなんて不要なかったわね」
彼女の言葉は、自己嫌悪の色を帯びていた。万能でありたいと願いながら、常に自分の先を行く少年の背中に、届かない絶望。
僕は、手についた煤を軽く払った。
「役割を果たしただけだ。君が前に出たから、俺が後ろを取れた」
「私は、もっと強く、完璧にならなければいけない。英雄のように、誰もが寄り添える光に」
「完璧、か」
僕は短く呟き、足元に転がる、歪んだ鉄の破片を見つめた。正面をどれだけ強固に固めても、背面という欠落を残さざるを得なかった機械の残骸。
「正面だけの盾は、背後からの風に耐えられない。万能である必要はないさ。形が変われば、強さの意味も変わる」
それは慰めではなかった。ただの観察であり、事実の指摘だった。しかし、アルファには、それが自分という「歪み」を肯定されたように聞こえた。
彼女は視線を落とす。言葉は途切れ、二人の間に再び、重い沈黙が流れる。壁の隙間から、冷たい夜風が吹き込んできた。
風は、鉄錆の匂いを彼方へと運び去り、ただの古い石造りの部屋の、冷徹な現実だけをそこに残していた。
破壊された鉄の残骸から、ちりちりと熱が逃げていく。冷えぶかとした遺構の闇の中で、アルファの横顔は白磁のように硬く、そして脆そうに見えた。
「私は、ただの出来損ないね」
ぽつりとした呟きは、夜風に浚われるほどに小さかった。しかし、そこには彼女が背負う「血」と「理想」の重みが、澱のように沈んでいた。
「魔力運用も、剣術も、戦況の把握も……すべて貴方の足元にも及ばない。同じ万能型でありながら、私は貴方の完全な下位互換でしかない。シド、貴方がいるのなら、私という存在に意味はあるのかしら」
ベアトリクスという絶対的な英雄の影。そして、目の前にいる、物理法則さえ置き去りにする少年。
万能を目指した彼女の歩みは、二つの巨大な光に挟まれ、自らの影の濃さに立ちすくんでいた。
特別でありたいという願い。英雄の血を引く者として、基礎性能が高いのは単なる前提に過ぎず、その先にある「自分だけの何か」を見出せない焦燥が、彼女の言葉を尖らせる。
僕は、消えゆく魔力の残滓を眺めたまま、淡々とした声で応じた。
「互換性などという言葉で、自分を測るな。俺にとって、君の総合力は極めて有益だ」
「それは、便利な道具としての評価ね。理想はもっと強くならたいわ」
アルファの青い瞳が、すがるように、あるいは拒絶するようにシドを射抜く。
「僕は現実の話をしている」
シドは視線をアルファへと戻した。その瞳には、憐れみも、あるいは過度な期待もない。ただ、凍りついた事実だけを見つめる冷徹さと、だからこその絶対的な信頼があった。
「極端な一芸は、状況が変われば容易に無力化する。だが、どの局面でも一定以上の最適解を導き出せる君の万能さは、戦場全体の生存率を底上げする。俺がどれだけ手を広げても、俺の手は二つしかない。俺が前を切り裂く時、後ろを任せられるのは、あらゆる状況に対応できる君だけだ」
「……だけど、それは私が『特別』だからではないわ。血筋という器が優れているだけで、私自身の魂が掴み取った力ではない」
「血筋だろうと何だろうと、使えるものはすべて使えばいい。それに」
僕は一歩、アルファへと近づいた。二人の距離が縮まり、かすかな体温が交錯する。
「誰もが、世界を変えるような『特別な一撃』を持つ必要はない。歪みのない万能さは、それ自体が過酷な修練の果てにしか得られない、一種の異常性だ。君はすでに、君自身の足でそこに立っている」
僕の言葉は、アルファが欲していた「特別な力」の肯定ではなかった。むしろ、彼女が「当たり前」だと切り捨てようとしていた、これまでの歩みそのものを肯定するものだった。
アルファは息をひそめ、僕の言葉の意味を咀嚼するように、何度も瞬きをした。
自分が僕の代わりになる必要はない。僕
の隣に立つために必要なのは、僕にない牙を持つことではなく、僕が預ける背中を、完璧に守り抜く強さなのだと。
「……ずるい人ですね、貴方は」
アルファの唇から、小さな、しかし先ほどとは違う温かみを持った溜息が漏れた。彼女は目隠しを直すように前髪を軽く払い、まだ微かに震える拳を、強く握りしめた。
「分かりました。私は、私の万能さを研ぎ澄まします。貴方が前だけを見て進めるように、その背後にある全ての『不可能』を、私が引き受けましょう」
言葉に、覚悟という名の光が宿る。
二人の間に流れる空気は、もう冷たいだけのものではなかった。沈黙の中に、確かな信頼の響きが交じり合う。
遠くで、また新しい機械の駆動音が聞こえた。
僕は何も言わず、再び闇の奥へと歩き出す。アルファはその背中に、今度は迷うことなく、一歩遅れて従った。
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