■広げろ、陰の実力者の、解釈を!! 作:匿名
《実験棟》へ足を踏み入れてから、一時間ほどが経過していた。しかし進んだ距離は驚くほど短い。
敵が強いからではない。道が危険だからでもない。
その両方だった。
そして何よりこの場所そのものが、侵入者を拒絶していた。
薄暗い回廊。
壁面には古びたランプが取り付けられている。だが十分な光量はない。青白い光が床を照らし、影が不気味に揺れている。
まるで深海だった。
施設全体が海の底へ沈んだかのような錯覚。
遠くから滴る水音。
どこかで響く呻き声。
風など吹いていないのに聞こえる呼吸音。
そして。
「……誰か、俺の目玉を知らないか……」
声が聞こえた。
廊下の隅。
一人の患者が壁へ向かって座っている。
頭部は異様なほど肥大していた。
人間の頭蓋骨が限界まで膨れ上がったような姿。
首は細く身体は栄養を吸われたように痩せ細っている。
「水たまりに落としちまったみたいなんだ……ここはずっと青白いんだよ……」
患者は床を探している。
指先で。
延々と。
何十年も続けていたかのように。
ゼータの眉間に皺が寄った。
「……目玉を失っている訳ではないみたいだね。ただ認識が壊れているだけ」
「そうか」
「うん」
患者はこちらへ気付かない。ただ床を撫で続けている。目玉を探しながら、存在しない水たまりの中を。
さらに進む。
螺旋階段の途中、何人もの患者が徘徊していた。
ふらふらと。
目的もなく。
だが狩人を見つけた瞬間。
世界が変わる。
「ウアアアアアアアアアッ!」
絶叫。
患者たちが一斉に襲いかかる。
肥大した頭部を振りかぶる。
両腕を振り回す。
異様な膂力。
異様な速度。
人間とは思えない。
シドが一歩踏み込む。
剣閃。
一体、二体、三体。
首が飛ぶ。
腕が落ちる。
それでも患者は前へ出ようとする。
執念だけで壊れた肉体を動かし続ける。
ゼータの短剣が閃く。
心臓。
首筋。
脳幹。
急所を正確に貫いていく。だが彼女の表情は険しい。
「腹が立つ」
患者の死体を見下ろす。
「研究者に?」
「全員です」
即答だった。
「こんなものを作った連中も、成果が出たから続けた連中も、止めなかった連中も」
短剣についた血を払う。
「全員」
三階研究室。
ここはさらに酷かった。
車椅子が並んでいる。まるで病院の待合室だ。だが患者たちは既に人ではない。
ひとりは首がねじれている。
ひとりは顔が半分融解している。
ひとりは霧吹きのような器具を抱えていた。
次の瞬間。
白い霧が噴出する。
「下がれ」
僕が言う。
直後。
霧が通路を埋め尽くした。
視界が消える。その中から車椅子が突進してきた。
ゼータが横へ跳ぶ。
壁が砕ける。車椅子の患者は笑っていた。顔面が崩れたまま笑っていた。
僕が一撃で沈める。
静寂。残るのは水音だけ。
ピチャ。
ピチャ。
ピチャ。
研究室五階。
扉を開いた瞬間。
ゼータが足を止めた。
シドも僅かに目を細める。
部屋中に頭があった。
人間の頭だけが無数に脈動している。
巨大な梅干しのようだった。
壁。
天井。
床。
どこも頭だらけで呼吸している。
生きている。
「……聞こえる」
ひとつが呟いた。
「耳をすませば……水の音が聞こえる……」
別の頭が笑う。
「ねえ、あなた。海の音は不思議ね」
ピチャ。
ピチャ。
ピチャ。
肉塊の中から液体が滴る。
「私の底から響いてくるの……私の底からやってくるの……」
ゼータが小さく息を吐いた。
怒りを抑えるように。
「狂っている」
「そうだな」
「いいえ」
彼女は否定する。
「狂っているのは患者じゃなくて」
部屋を見渡す。
無数の頭部。
無数の犠牲者。
「狂っていたのは研究者です」
さらに上層。
中央柱の制御装置へ到達する。
巨大なレバー。
何十トンもの重量があるだろう。
「すごいね、これ」
「これは……」
「よいしょ」
僕が押す。
轟音。
施設全体が震える。
螺旋階段が回転を始めた。
鉄と鉄が擦れ合う。まるで巨大な怪物の骨が軋む音だった。
だが、その時。
背後から音がした。
ズル。
ズルズル。
ゼータが振り返る。
そこにいた。
四肢を拘束された患者。
何人も。
何十人も。
床を這っている。
まるで巨大な芋虫の群れ。
少年
少女。
小柄な身体。
だが顔だけは肥大している。
「……ああ」
ひとりが呟く。
「助けて……」
またひとり。
「懺悔します……」
さらにひとり。
「もうしません……」
次の瞬間。
全員が叫んだ。
「ウアアアアアアアアアアアアッ!」
地面を跳ねる。
這う。
飛びつく。触手が伸びる。頭突きが飛ぶ。狂気の群れ。ゼータが短剣を握る。その金色の瞳には怒りが燃えていた。
「主」
「ああ」
言葉はそれだけ。
二人は同時に踏み込む。そして実験棟のさらに上層へ続く道を切り開いていく。
中央柱を回転させたことで、施設の構造が変化して、轟音と共に巨大な螺旋階段が回転し、今まで繋がっていなかった通路同士が噛み合う。だが同時に封じられていた何かも解放された。
施設全体から響く悲鳴が増える。
呻き声が増える。
足音が増える。
実験棟そのものが侵入者へ敵意を向け始めたかのようだった。
新たに接続された回廊へ入る。
足元は鉄格子。
左右には転落防止用の柵。だがその多くは破壊されている。下を見れば遥か底。青白い闇が広がっていた転落すれば助からない。
そんな高さだった。
その時。
ゼータが耳を動かす。
「上だ」
瞬間。
黒い影が落下した。
僕が横へ動く。
影が床へ激突する。
屍肉カラス。
腐った羽。
裂けた嘴。だがその巨体は狼ほどもある。
普通の鳥ではない。さらに天井から二羽。三羽。四羽。落下。奇声を上げながら襲いかかる。
僕が剣を振る。
血飛沫。
羽毛。
肉片。
一撃で両断される。しかし最後尾の個体がゼータへ飛び掛かった。
彼女はしゃがみ込む。
短剣が閃く。
首を切断。
そのまま壁へ蹴り飛ばした。
カラスの死骸が奈落へ落ちていく。
「梁を歩くなら上も見るべきですね」
「そうだな」
僕は何事もなかったかのように進む。
次の部屋。
実験資料保管庫。
無数の本棚。
薬品棚。
研究資料。
その全てが散乱している。だが静かだった。異様なほど静かだった。
ゼータが目を細める。
「嫌な予感がする」
その瞬間。
棚の下から何十もの赤い目が光った。
ネズミ。しかし普通ではない。犬ほどの大きさ。歯は鋸のよう、皮膚は腐敗し、全身に腫瘍が浮いている。
遺跡ネズミの群れが一斉に飛び出した。
狭い通路。
囲まれる。
普通なら危険だった。
僕は本棚を蹴る。
巨大な棚が倒れる。
轟音。
数匹が押し潰され、残りはゼータが迎撃した。
短剣が舞う。
銀色の軌跡。
首が飛ぶ。
腹が裂ける。だがネズミは止まらない。死体を踏み越えて襲いかかる。
狂った飢餓。
狂った繁殖力。
ようやく最後の一匹を始末した頃には、床一面が血肉で埋まっていた。
「本当に碌でもない」
ゼータは靴底の血を払った。
さらに上。
螺旋階段の中腹。
何人患者が歩いていた。
リハビリウォーク。
ゆっくり。
ふらふらと。
何かを探すように。
何十人も、だが一人が僕を見る。
その瞬間、全員が止まった。
そして。
「ウアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
絶叫。
一斉突撃。
雪崩だった。患者の群れが階段を埋め尽くす。
ゼータが舌打ちする。
「数が多い!」
普通の患者だけではない。
裸の患者。
獣化患者。
大柄な患者。
それらの混成部隊。
最悪だった。
裸の患者が壁を蹴る。
異常な速度。
人間とは思えない。
僕へ飛び掛かる。だが空中で首が飛ぶ。次の瞬間、獣患者が四つ足で駆ける。ゼータの側面を狙う。
彼女は逆に前へ出た。
短剣が眼球を貫通する。
絶命、だがその背後から。
「アアアアアアアッ!!」
患者(大)。
巨大な肉体。
点滴台を振り回している。
金属の塊。
まともに受ければ即死級。
振り下ろされる。
轟音。
階段が崩壊する。
鉄骨が歪む。
ゼータは跳躍。
患者の肩へ着地した。そのまま首筋へ短剣を突き立てる。
一撃では死なない。
二撃。
三撃。
四撃。
ようやく倒れた。
「頑丈すぎ」
「実験の成果が出ているらしいな」
僕が淡々と言う。
ゼータの顔がさらに険しくなる。
「腹立たしい」
五階層。
そこだけ雰囲気が違った。
患者はいない。
悲鳴もない。
代わりに祈りが聞こえる。
静かに。
穏やかに。
だが不気味に。
通路の先。
一人の女性が立っていた。
純白の法衣。
聖教の紋章。
手には杖。
医療者。
かつて患者を管理していた者。
聖教の使い。
女性は二人を見る。
微笑む。
「侵入者ですね」
「そうだ」
僕が答える。
女性は悲しそうに目を伏せた。
「残念です。彼らは治療中なのです。これ以上邪魔をされては困ります」
次の瞬間。
魔法陣が展開された。
無数。
数十。
数百。
通路を埋め尽くす。
ゼータが即座に動く。
「主!!」
爆発。
光線。
呪詛。
魔法の嵐。
通路そのものが消し飛ぶ。だが煙が晴れる。
僕は立っていた。
無傷。
女性の瞳が揺れる。
「な……これを生き残るなんて。まさか魔族だとでも」
言葉は最後まで続かなかった。
僕の剣が振られる。
一閃。
女性は崩れ落ちた。
最期まで微笑みながら。
「哀れな我らに、魂の救済を……」
そのまま動かなくなる。
ゼータは死体を見下ろした。
「救済か」
怒りを押し殺した声だった。
「患者を怪物にしておいてよく言える」
その直後。
足が止まる。
床。
違和感。
僅かに沈んでいる。
「罠だ」
瞬間。
彼はゼータを掴んで後方へ飛んだ。
轟音。
床が崩壊した。下層まで一直線に繋がる巨大な落とし穴。さらに側面から槍。毒矢。回転刃。連続作動。侵入者を殺すためだけに設計された殺戮装置だった。
ゼータは数秒沈黙した。
そして呟く。
「……設計者の墓を暴いてもう一度殺してやりたいね」
「気持ちは分かる」
珍しく僕も同意した。
僕たちはさらに上層を目指す。
患者。
ネズミ。
カラス。
罠。
聖教の残党。全てを突破しながら進んでいく。だが進めば進むほど、実験棟の狂気は濃くなっていく。
そして最上層には、この地獄の中心にいた存在が待っているのだろう。
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