■広げろ、陰の実力者の、解釈を!! 作:匿名
患者寝室五階を抜けた先。
道はそこで終わっていた。少なくとも普通なら。階段はない。梯子もない。通路も途切れている。あるのは頭上を横切る巨大な梁だけだった。
遥か上。
闇の中。
施設の骨組みが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
ゼータが見上げる。
「……上」
「ああ」
シドは短く答えた。
「嫌な予感しかしません」
「俺もだ」
珍しく意見が一致した。
梁。
鉄骨の上を進む。幅は大人一人分。しかも所々が腐食している。下を見れば奈落。実験棟の最下層まで続く巨大な空洞。
落ちればまず助からない。だが危険なのはそれだけではなかった。
ギチギチ。
ギチギチ。
何かを齧る音。
ゼータの耳が動く。
「右」
瞬間。
梁の裏側から巨大なネズミが飛び出した。
遺跡ネズミ。しかも群れ。狭い足場。回避困難。
普通なら最悪だった。
僕はネズミの頭を掴む。そのまま投げた。先頭個体が後続へ激突する。数匹まとめて奈落へ落下。悲鳴も聞こえない。どれほど深いのか分からない。
残りはゼータが処理した。
短剣が閃くたびネズミの死体が闇へ消えていく。
「本当にどこにでもいる」
「ネズミは繁殖力が高い一匹でも生き残れば数を増やせる。実に効率的な生存戦略だ」
「?」
「だが裏を返せば一匹一匹に価値がないということでもある。死んでも代わりがいる。失敗しても代わりがいる」
ネズミを蹴落としながら進んでいく。
「だから学ばないだから成長しない。だから同じ罠に何度でもかかる。教団の研究者達も同じだ。失敗を経験に変える知恵がない。ただ運良く生き残った回数を成功だと思い込んでいる」
「まったくだね」
ゼータは本気で言っていた
さらに奥へ進む。
その時。
上から影が落ちた。
僕が即座に動く。
直後、巨大なカラスが梁へ激突した。
屍肉カラス。腐敗した翼。異様に膨れた腹。そして人肉を啄んだ嘴。
天井近くに潜んでいたらしい。
一羽。
二羽。
三羽。
連続して落下する。梁の上では厄介だった。押し出されれば終わり。ゼータが前へ出る。空中で回転。短剣を投擲する。一羽の頭部が吹き飛び、着地。
さらに二羽。
首を切断。死体が奈落へ消える。
静寂。再び水音だけが響く。やがて、二人は中央柱へ到達した。
巨大な鉄柱。
実験棟の中心。
施設全体を支える心臓部。その途中に古びたレバーがあった。
錆びついている。だが使用可能らしい。
掴む。引く。
瞬間。
轟音。
施設全体が揺れた。
ギギギギギギギッ!!
巨大な金属音。中央柱が上昇を始める。数百年眠っていた巨人が目覚めるような振動だった。
ゼータが周囲を見る。
今まで繋がっていなかった通路が現れる。
閉ざされていた扉が開く。足場が変わる。
「移動範囲が変化した!?」
「進めるな」
「うん」
彼女は頷いた。
「だけど」
「どうした」
ゼータは下方を見る。
暗闇。
その先。
今まで見えなかった空間。
「新しい場所も増えている」
嫌な予感しかしない。
星輪草の庭
その場所は異質だった。実験棟に存在してはいけない光景。
霞台から飛び降りた先。
そこだけが開けていた。
花畑。
一面の黄色。
向日葵に似た花。だが微妙に違う。花弁が星型をしている。
星輪草。
どこか幻想的な光景。もし場所が違えば美しいと思えたかもしれない。だがここは実験棟だ。
地獄の中心に咲く花だった。
ゼータの表情が険しくなる。
「……いますね」
花畑の中。
患者達がいた。
何十人も黙々と花の世話をしている。
肥大した頭部。壊れた身体。狂った瞳。だが行動だけは異様に丁寧だった。
雑草を抜く、水を撒く、土を耕す。まるで人生で最も大切な仕事のように。
誰も喋らない。誰も笑わない。ただ花だけを見ている。
「……」
少しだけ目を細めた。
異常だった。
明らかに。
患者達は花畑を守るためだけに生かされている。
そんな光景だった。
一人の患者が振り返る。
侵入者を見つける。そして。狂気が戻る。
「ウアアアアアアアアアアッ!!」
絶叫。
全員が立ち上がる。
手入れ用の鋏。
スコップ。
鎌。
農具を握り締めている。そして突撃。まるで花畑を荒らす害獣を駆除するように。
ゼータが舌打ちする。
「過激派だ」
「花を大切にしているらしい」
「方向性を間違えている」
戦闘開始。
花畑の中を患者達が駆ける。シドが剣を振る。
一体。
二体。
三体。
まとめて吹き飛ぶ。だが敵は止まらない。農具を振り回しながら襲いかかる。
狂信者だった。
花への。あるいは何か別のものへの。
戦闘を終えた時。、花畑の中心へ到達する。
そこには巨大な祭壇があった。
黒い石。
古い魔法陣。そして奇妙な秘儀。
巨大な瞳を模した紋様。まるで夜空そのものが見つめ返しているような感覚。
ゼータが近づく。
観察する。そして眉を顰めた。
「……気持ち悪い」
「そうか」
「見られている」
「ほう? 場所は?」
ゼータは数秒沈黙した。そして首を振る。
「分からない。だけど」
彼女の尻尾が膨らんでいた。
珍しい反応だった。
「分からない方が良い相手」
「上位者か」
祭壇を見つめる。
夜空の瞳。
この実験棟の研究が目指したもの。あるいは研究者達が覗き込もうとした何か。
その痕跡。
核心へ近づいているのだと。
星輪草の庭を抜けた後。
二人は実験棟の外周部へ続く古い回廊を探索していた。
花畑とは対照的に、こちらは静かだった。
悲鳴もない。患者の叫びもない。ただ湿った水音だけが響いている。
ぽたり。ぽたり。まるで天井から雫が落ちているような音。だが見上げても水はない。
実験棟へ入ってから何度も聞いている音だった。
ゼータは露骨に嫌そうな顔をした。
「まただ」
「何がだ」
「水音」
彼女は耳を伏せる。
「シドは聞こえない?」
「聞こえる。
「私は嫌い」
「そうか」
「ええ」
即答だった。
「理由もなく嫌な予感する」
その時、回廊の奥から声が聞こえた。
「ああ、ありがとう、あなた」
二人は足を止める。
部屋の中。
一人の女性が拘束されていた。
長い銀髪。
やつれた身体。
患者服。だが他の患者とはどこか違う。
瞳に理性が残っていた。少なくとも表面上は女性は二人へ微笑む。
「お客様かしら?」
その笑顔は穏やかだった。
実験棟では異質なほどに。
「名前は?」
シドが問う。
「アデライン」
彼女は答える。
「元々は血の聖女でした」
ゼータの耳が動く。
「血の聖女?」
「ええ」
アデラインは微笑む。
「優れた血を作るための実験体。聖女シリーズの成功例の一つです」
まるで他人事のようだった。
自分が被害者であることを忘れたように。あるいは受け入れてしまったように。
会話の途中、アデラインの視線が僕の持つ脳液へ向く。
薄暗いアメーバ状の塊。
患者達から採取したもの。
彼女の呼吸が僅かに乱れた。
「……それ」
声が震える。
「脳液かしら?」
ゼータの顔が曇る。
嫌な予感しかしなかった。
「何に使う気?」
「飲むのよ」
即答だった。
ゼータが真顔になる。
「飲む?」
「ええ」
「それを?」
「ええ」
「本気で?」
「もちろん」
数秒。
沈黙。
ゼータは頭を抱えた。
「この施設の研究者は全員馬鹿でしょ」
「成果は出たらしい、ウィクトーリアという製品も産まれた」
「そこが腹立たしい」
アデラインは脳液を受け取る。そして迷いなく口へ運んだ。
「ズズッ……ズズズズッ……」
嫌な音だった。
実験棟に相応しい音だった。
飲み終えた瞬間、彼女の瞳が見開かれる。
「ああ……」
恍惚。
幸福。
歓喜。
全てが混ざった表情。
「すごくおいしい」
ゼータが本気で引いていた。
「おいしいんですか」
「ええ」
「脳液が」
「ええ」
さらにアデラインは遠くを見る。
何かを聞いているように。
「ああ……聞こえる。湿った音が、あなた達にも聞こえるかしら?」
僕は答えない。
ゼータは答えた。
「聞こえません」
「そう……」
アデラインは微笑んだ。
「残念ね」
その後。
彼女は自身の血を分け与える。
温かい血。
異常な回復力を秘めた血。
ゼータは血を見つめる。
「成功例」
ぽつりと呟く。
「ええ」
アデラインが頷く。
「私は成功例よ」
「成功とは思えませんが」
辛辣だった。だがアデラインは怒らない。ただ微笑む。
「そうかもしれないわね」
探索を続け再び戻った時、アデラインの様子は変わっていた。
拘束具が軋む。
彼女が暴れている。
「……誰か、誰かいませんか」
必死な声。
縋るような声。
「お願いです、脳液が欲しいの」
ゼータがため息を吐く。
「脳液の依存症」
「そう見える」
「完全に」
アデラインが二人を見つける。
目が輝く。
「あなたなのね、脳液を持ってきてくれたの?」
その姿は患者だった。
もう聖女ではない。救済を与える存在ですらない。ただ音に溺れている。
「お願いよ。音が消えそうなの。静かになるのが怖いの」
ゼータが少しだけ黙る。そして聞いた。
「静かになると何があるんです?」
アデラインは答える。
「私」
その一言だった。
「小さかった頃の私。怖かった私。弱かった私。全部戻ってくるの」
沈黙。
ゼータは視線を逸らした。それ以上は何も言わなかった。さらに後、アデラインは変貌していた。
頭だけになっていた。
入口で蠢いていた。
肥大した肉塊。だが声だけは同じ。
「ああ……あなた、もう一度だけ、脳液を頂けるかしら」
ゼータは無言だった。
怒りもない。
嫌悪もない。
ただ静かだった。
「私何かになりたいの」
アデラインが言う。
「何か?」
僕が問う。
「ええ」
「何か」
「私じゃない何か」
笑う。
頭だけで。
笑う。
「だって私のままだと。救われないもの」
ゼータが小さく息を吐いた。
「人間らしいね」
「そう?」
「ええ」
彼女はアデラインを見る。
「強くなりたい、変わりたい、別の何かになりたい、誰でも一度は思います。違いは」
そこで言葉を切る。
「この人は海へ飛び込んだ」
それだけだった。
最後の脳液。
最後の啓示。
所有していた研究用に採取していた脳液を渡すとアデラインは歓喜する。
「ああっ! 見えた! 導きが! 声が!」
涙を流す。
笑う。
震える。
そして。
「ありがとう」
最後にそう言った。
「あなたのお陰よ」
静寂。
ぽたり。
ぽたり。
湿った音だけが残る。
アデラインは動かない。
もう二度と。
彼女の頭からは、脳に埋め込む文字だけが残されていた。ゼータはしばらくそれを見つめていた。
僕はそれを受け取り、懐に入れる。
「主、それ」
「なんだ」
「私は海が嫌いです」
「そうか」
「ええ」
彼女は珍しく本音を零す。
「深い場所ほど、人は自分を見失うみたいだから
僕は答えない。ただ静かに歩き出した。
実験棟のさらに奥。
全ての狂気の源へ向かって。
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