おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
タクシーのエンジン音が遠ざかり、家の前が急に静かになる。
まつりは玄関のドアを開けた。
家の中から、ふわりと漂ってくるのはチーズの香ばしい匂いと、優しいコンソメの香り。
キッチンの明かりが廊下まで漏れていて、予想外の温かさに一瞬足が止まる。
「……ただいま」
小さな声で呟くと、リビングの方から軽い足音が近づいてきた。
「まつりママ、おかえりなさい」
現れたのは、みはりの友人のかえでちゃんだった。
エプロンを腰に巻き、木べらを持ったまま、少し照れくさそうに頭を下げる。
「急に押しかけて勝手に台所使っちゃってすみません。
……お腹すいてますよね? ちょうど今から食べるところだったので。一緒にいかがですか」
「まぁ、夕食まで作っていてくれたの?本当に……助かるわ」
リビングに入ると、テーブルには湯気の立つきのこのリゾットと、コンソメスープが並んでいる。
シンプルだけど、体に染み入るような、家庭の温かさが感じられるメニューだ。
ソファに座っていたみはりが、ゆっくり立ち上がる。
今朝のひどく腫れた目元はまだ赤みを残しているけれど、顔色は明らかに良くなっていた。
髪も軽く整えられていて、かえでちゃんがお世話をしてくれたのだろうか。
「……ママ、おかえり」
みはりは小さく頭を下げ、すぐに視線を落とした。
まつりはそっとみはりの肩に手を置こうとして、途中で止めた。
代わりに、テーブルの方へ視線を移す。
「……おいしそうな匂いね。これ全部かえでちゃんが?」
みはりが小さく頷き、言葉を続ける前に一瞬沈黙が落ちる。
視線はまつりの顔を避け、テーブルの端をさまよっている。
「……うん。かえでが……全部やってくれたの」
今朝のあの激しい言葉のやり取りが、まだ胸の奥に残っている。
みはりの声に棘はないが、ぎこちない間合いが、二人の間に横たわっているのがわかる。
かえでがその空気を察したように、柔らかく笑って場を和ませる。
「じゃあ、冷めないうちに食べちゃいましょう。私もお腹ペコペコで〜」
三人でテーブルを囲む。
「うん、きのこがいい感じにジューシーで、チーズが絡んでおいしい! 」
彼女の明るい声が、部屋に少しだけ活気を戻す。
まつりはコンソメスープから始め、温かな液体をそっと口に含む。
(……かえでちゃんは本当にいい子ね。中学生の頃から、いつも明るくてまっすぐで……。
高校生になって、髪型も服もすっかり今風になっているのに、家庭的で優しいところは少しも変わっていない。
今も……みはりちゃんとのやり取りを聞いて、さりげなく間に入ってくれている)
こんなふうに、子どもに気を遣わせる大人で、私は——
その後、三人で手早く片付けを済ませ、お風呂の順番を決めた。
まつりに勧められ、かえでが先にバスルームへ向かう。
みはりは遠慮しかけたものの、結局まつりに促されるまま頷いた。
やがて、風呂から上がったかえでが、タオルで髪を拭きながらリビングへ戻ってくる。
洗面所で軽く髪を乾かし、みはりも入れ替わるように風呂を済ませた。
二人で二階へ上がると、かえでは勝手知ったる様子で押し入れを開け、布団を引っぱり出した。
「みはり、お布団敷いて一緒に寝よっか。なんだか懐かしいね」
みはりが一瞬、目を丸くした。
「……うん。修学旅行は一緒に行けなかったけど」
かえでがくすっと笑う。
「飛び級しちゃったもんね。定番だけど、枕投げしたり恋バナしたり……みはりとも、そういうの、ちょっとやってみたかったなあ」
二人で布団を敷き、灯りを少し落として横になる。
薄暗い部屋の中で、天井だけがぼんやりと浮かんで見えた。
それからもしばらく、取り留めのない話が続いた。
学校のこと。
最近の友だちのこと。
もみじの妙に大人びたところと、変なところで子どもっぽいところ。
かえでの店での失敗談に、みはりが少しだけ口元をゆるめる場面もあった。
そうして話しているあいだだけは、今日一日の張りつめた空気が、ほんの少しだけ遠のいた気がした。
やがて、かえでが寝返りを打ちながら、ふっと息をつく。
「……そろそろ寝よっか。みはり、今日はだいぶ無理してるでしょ」
みはりは少し黙っていたが、やがて小さく「うん」と答えた。
部屋が静かになる。
その沈黙の中で、みはりがぽつりと口を開く。
「……かえで」
「んー?」
「中学生の頃、お兄ちゃん紹介してって言ったの、覚えてる?」
「あー、あったねぇ。だってみはりってば、お兄さんの事ばっかり話すからさぁ、親友としては当然気になるじゃん」
みはりの声が、少しだけ低くなる。
「あの時は、お兄ちゃん受験で忙しいからって、誤魔化したけど……本当は……」
「……お兄ちゃんが、かえでのこと好きになるのが、怖かったの。かえで、かわいいし」
「ええー、何言って——」
「かわいいよ。昔から。まっすぐで、みんなに優しくて……誰だって好きになる」
暗闇の中で、みはりの声が少しだけ震える。
「私にとって、お兄ちゃんは……全部だった。
私が頑張ったのも、お兄ちゃんに見てほしかったから。褒めてほしかったから」
「あの頃の私には、お兄ちゃん以外、何も見えてなかった。お兄ちゃんが、私のすべてで……ずっと褒めて欲しかった……だから、守ろうとした。縛った。檻に入れた。——優しいふりをして」
「でも、きっとこれで全部おしまい。もう、お兄ちゃんにも、まひろちゃんにも許してもらえることなんてない」
かえでは息をのんだ。
すぐには、返す言葉が見つからなかった。
みはりが何を言っているのか、正直よくは分からない。
けれど、いまここで深く聞いてはいけないことだけは分かった。
吐き出さずにはいられないのに、それでもまだ、これ以上は踏み込めない——そんなぎりぎりのところで、みはりはどうにか立っているように見えた。
かえではそれ以上追及せず、そっとみはりの布団の方へ身を寄せた。
泣き出しそうな子どもをあやすみたいに、頭をやさしく撫でる。
「明日は病院行きな。まひろちゃん起きた時、みはりがいなかったら寂しがるよ」
「何があったのかはもう聞かないけど……まひろちゃん、みはりの事大好きじゃん。謝ればきっと許してくれるよ」
みはりが、ぽつりと返す。
「……そうかな……」
かえでが呆れたように笑う。
「あんた、あんなに好き好きオーラ出されてるのに何言ってんの。
まひろちゃんは、あんたを信頼して頼り切ってる。お姉ちゃんの事、きっと待ってるよ」
みはりは目を伏せて、しばらく黙っていた。
「……そうかな……ホントにそう思う……?」
暗がりの中で、かえではやさしく目元をゆるめた。
そして、言葉の代わりにそっと頷く。
声が震え始めた。
次の瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「……わかった。ありがとうね、かえで」
かえではみはりの背中をそっと抱き寄せた。
◇◆◇◆◇◆◇
みはりとは中学時代からの親友だ。
かわいらしい容姿に加えて文武両道、飛び級しちゃうような天才だけど、人あたりが良く気遣いもできて、いつも周りを明るくしてくれる。
そんな自慢の友人だけど、実はかなり重度のブラコンを拗らせた一面も持っていて……中学の頃は毎日のように「お兄ちゃんがさ」「お兄ちゃんがね」って話が止まらなくて、正直ちょっと……胸やけしそうになる日もあった。ただ、あんなふうに誰かのことを嬉しそうに語れるのが、少し羨ましかったのも本音だ。
そんなみはりが、いつからかお兄さんの話題をぴたりと出さなくなった。
大学に飛び級で進んだみはりは忙しくなったし、お兄さんも大学進学で家を出て……物理的な距離ができて、単に話題が減っただけなのかな、と思ってた。
でも……さっき聞いたばかりの、あの重くて切実な声音を思い返すと、話さなくなったというより、話せなくなっていたのかもしれない。
そして——最近になって突然「妹」が現れた。
——まひろちゃんだ。
かなりの美少女なのに、中身はちょっと天然で、ゲーム好きで、人見知りな……でもとっても良い子。付き合いはまだ短いけれど、妹のもみじとは親友と言っていいくらい仲がいい。
でも、まひろちゃんの存在を知った時は、正直おどろいたのも事実だ。
だって、みはりとは中学時代からずっと一緒にいるのに、「妹がいる」なんて話は一度も聞いたことがなかったから。
まひろちゃんは長い療養生活で、学校にもほとんど行けていなかったらしい。
今まで話題に出なかったのも、なにか事情があるのかも……と、今までこちらから深く聞くことはしてこなかった。
復学してからは毎日楽しそうに学校に通い、友だちも増えて——
少なくとも、外から見れば順調そうだった。それが、突然部屋に引きこもった。
文化祭でのことがあったとはいえ、あまりに様子がおかしかった。
海外勤務で忙しいはずのまつりママも、急遽帰国している。
いつもは会うたび圧倒されるくらい元気な人なのに、いまはひどく疲れて見えた。
そして、みはり。
こんなふうに憔悴しきった姿は、今まで見たことがない。
ここまで状況が揃うと、嫌でも考えてしまう。
考えたくない方向へ、想像が勝手に転がっていく。
——もしかして、まひろちゃんは……。