おにまい曇らせ(仮)   作:Unus negotiator

11 / 14
第11話 消失

今朝はかえでに見送られて、みはりは病院へ来ていた。

まつりは後から、保険証や着替えなどを持って来ることになっている。

夜のうちに救急外来を出て、まひろは一般病棟の個室へ移されていた。

 

空調の風が、カーテンの裾をかすかに揺らした。

そのわずかな気配に、まひろの睫毛がかすかに震える。

みはりは思わず身をこわばらせた。

ベッドの上の胸が、ほんの少し上下する。

 

「……お兄ちゃん」

 

静かな病室で兄の寝顔を見つめながら、昨日、自分が母に向けて吐いた言葉を思い出す。

なぜあそこまで激しく母を責め立てたのか、みはりは自分の内側に問いかけていた。

 

たしかに両親が家を空けがちだったことに、寂しさや不安を覚えたことはある。

自分たちばかり置いていかれるように感じて、幼い胸を心細さでいっぱいにした夜もあった。

けれど、それは誰かを激しく責め立てるほどの感情ではなかったはずだ。

少なくとも、昨日あふれ出したあの烈しさを、そのまま説明できるものではない。

 

それでも母を責めている間だけ、ほんの一瞬でも胸が軽くなる気がした。

自分の中に澱のように溜まった痛みや罪悪感を、母という外側の誰かに押しつけられる気がしたからだ。

けれどそれは錯覚にすぎなかった。

 

母への断罪は、その実、自分自身への断罪でもあった。

兄の孤立には知らないふりをして、意識の表層から遠ざけていた。

だから安心して兄を追い込めた。

優しい顔をして、そっと檻の中へ。

 

だが、その欺瞞は、すでに剥がれ落ちていた。

兄にはすべてを知られて、逃げ場はもうどこにもなかった。

 

 

——気がつけば、病室の静けさの中で、ただ時間だけが過ぎていた。

空調の音と、兄のかすかな呼吸の音だけが流れている。

 

どれくらいそうしていただろう。

みはりが息を潜めたまま、兄の横顔を見つめていると、まひろの睫毛がかすかに揺れた。

 

次いで、閉じた瞼の下で目が動く。

眠りの浅いときのような、頼りない動きだった。

みはりは思わず身を乗り出す。

やがて、まひろの目がゆっくりと開いた。

 

焦点はまだ定まらず、天井をぼんやり見つめている。

それから、視線がカーテンの縁に流れ、点滴の袋へ移り、脇の機械のランプを追った。

何かを思い出そうとしているのか、ただ見えているものを順に追っているだけなのか……。

 

「……お兄ちゃん……?」

 

みはりがそっと呼ぶ。

 

その声に反応して、まひろの目がゆっくりこちらへと向いた。

けれど、視線が合ったはずなのに、みはりは妙な違和感を覚えた。

見られている。

それなのに、見つけてもらえていないような……。

まひろはみはりの顔を、初めて見るもののようにじっと見た。眉、目、口元。

ひとつずつ確かめるように見て、戸惑うように瞬きをした。

 

「……だれ?」

 

「……え。お兄ちゃん、私だよ——」

 

「ここ……どこ?」

 

みはりは反射で答えそうになって、口を閉じた。

先に確認しないといけない。

刺激しないよう、声をできるだけ柔らかくして問いかける。

 

「……分かる? ここは、病院だよ」

 

「お家で倒れて……頭も打ったの。覚えてる?」

 

“倒れた”。

その言葉に、まひろの瞳が一瞬だけ強く瞬いた。

だがすぐに目を逸らして、シーツの端を掴む。

 

「……わかんない」

 

みはりの喉が鳴る。

 

(まだ、ちゃんと状況が飲み込めていないだけ……?)

 

(それとも、低血糖や低体温で意識がクリアじゃない……?)

 

みはりは息を吸って、もう一度。

 

「私のことは? ……覚えてる?」

 

まひろは口を開きかけて、閉じた。

答えを探すように眉を寄せる。

そして、小さく首を振った。

 

「……ごめんなさい。わかんない」

 

“わからない”という言葉が、ただの記憶の欠落ではないことを、みはりは理解してしまう。

そこには、互いの関係ごと抜け落ちた空白がある。

 

(記憶喪失……?)

 

(少なくとも、見当識障害……外傷後健忘の可能性も高い)

 

「……大丈夫」

 

何が大丈夫なのか、自分でも分からないまま声をかける。

みはりは震える手を膝の上で押さえつけた。

 

(落ち着け)

 

(今は、なるべく刺激せず、驚かせないように……)

 

「大丈夫だよ。ここは病院。お医者さんもいるから、安心して」

 

その言葉に、ほんの一瞬、表情がほどける。

でも視線はまだ泳いだまま、両手でシーツを掴んで胸の前に引き寄せる。抱きしめるように、ぎゅっと。

 

その仕草が、みはりの心をえぐった。

目を伏せたまま、息を整える。

泣くな。ここで泣いたら、お兄ちゃんが不安になる。もっと怖がる。

第一、自分に泣く資格なんてない。

 

「……お姉ちゃんは、お医者さん?」

 

掠れた声だった。

でもやはり、言葉の選び方が——どうにも幼い。

 

「違うわ。どうしてそう思ったの?」

 

みはりは笑おうとして、うまく笑えなかった。

声だけを柔らかくする。

小さい手がこちらを指さして、眉を寄せる。

 

「だって……白いの、着てるから」

 

そう言えば、いつもの調子で白衣を羽織ってきてしまっていた。

慌てて家を出たので、袖口に皺が寄っている。

 

「あぁ、確かにそうね。でも、私はお医者さんじゃないわ」

 

「そっかあ」

 

まひろは小さく頷いて、ベッドのシーツを指でいじり始めた。

その仕草が、あまりにも幼く無邪気で、みはりは胸が締めつけられるような気がした。

 

(お兄ちゃん……。ただ記憶をなくしただけじゃない……精神が退行している……?)

 

(でも、意識が戻った。話せるようになった……)

 

まひろはそんなみはりの様子には知らない顔で、きょろきょろとあたりを見回した。

点滴の管に目を留め、手を伸ばしかけて、みはりの表情を見て引っ込める。

 

「ねえ……」

 

不安そうに、まひろが言う。

 

「ボク、妹がいるんだけど」

 

みはりの心臓が一度、強く跳ねた。

 

「……妹?」

 

「うん。小さい妹」

 

まひろは必死に何かを思い出そうとするみたいに、額にしわを寄せた。

 

「どこにいるか、知らない?」

 

みはりは息を詰めたまま、身じろぎもできなかった。

まひろは続ける。目が潤んでいる。

不安で仕方がないのに、幼い妹を心配して、泣くのを堪えている。

 

「ボク、おうちに帰らなきゃ……」

「ボクがいなくて、一人で泣いてるかも知れないから…」

 

その一言で、張りつめていたものがぷつりと切れた。

胸の奥で堰き止めていたものが、一気に押し寄せる。

声を殺そうとしても間に合わない。喉が震える。視界が滲む。

 

「……っ」

 

涙が落ちた。

堪えたつもりで、でも次の瞬間にはもう、止まらなくなった。

 

「……ごめん……ごめんね……」

 

まひろが驚いた顔をする。

幼い表情で、みはりの涙を見上げる。

 

「お姉ちゃん、どうしたの?泣かないで」

 

その言葉が、最後の一押しだった。

 

みはりは顔を覆った。肩が勝手に跳ねて、息が吸えなくなる。

泣くことなんて許されないのに、その思いで、胸が余計に苦しくなる。

 

「……だいじょうぶ」

 

絞り出した声は、誰に向けたのか分からなかった。

まひろに。自分に。あるいは——もう取り戻せない時間に。

 

みはりは震える手で、そっとまひろの指先を包んだ。

折れそうに細い指。

でも、そこには確かに生きた温もりがあった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

病室の番号を確かめながら廊下を進む。

目的の部屋の前にいるみはりさんを見つけて、小さく会釈し、そのままドアの前に立つ。

 

この白い扉の向こうに、まひろちゃんがいる。

そう思うだけで緊張する。

 

会いたいと言ったのは自分だ。

会わなきゃと思ったのも、自分だ。

それなのに、いざここまで来ると、急に怖くなって足が動かなくなる。

 

まひろちゃんが救急搬送されたと、姉のかえでから聞いたのは、数日前のことだった。

翌日には意識が戻ったと連絡があったが、記憶に障害があり、体もひどく弱っていて、体調が戻るまでは入院が必要らしかった。

 

大丈夫なのか。

会ってもいい状態なのか。

でも、このまま何もできずに、待つだけなのも苦しかった。

 

結局、姉を通して「お見舞いに行ってもいいか」と聞いてもらった。

みはりさんは迷っていたらしい。

面会が刺激になりすぎるかもしれないから……。

 

それでも最終的には、

もみじ一人だけなら――という条件で、面会を許してくれた。

 

扉の前で、もみじはそっと息を吸う。

怖い。でも、会いたい。

会わなきゃいけない気がする。

 

みはりさんが、ためらうように口を開いた。

 

「……もみじちゃん。まひろちゃん、最近の記憶がほとんど無くなっているの」

「だから、たぶん……もみじちゃんのことも、すぐには分からないと思う」

「ごめんね。びっくりするかもしれないけど……」

 

「うん。大丈夫です」

 

強がるように言った声は、わずかに揺れていた。

 

 

—— 一方で、みはりの胸の内でも、不安とわずかな期待がせめぎ合っていた。

 

あのあと、母も病院へ来て、目を覚ましたばかりの兄と会った。

母のことはすぐに分かり、会話も成立していた。

全部がまるごと失われたわけじゃない——そう思えたことだけが、わずかな救いだった。

 

ただ、身体のことではひと騒ぎあった。

女の子の身体になっていることに気づいた兄は、泣きそうな顔で「ボク、男の子だったはずなのに」と繰り返した。

みはりたちは、昔の記憶と今の記憶がごちゃごちゃになっているだけだと、苦しい説明でどうにか宥めた。

けれど、本心から納得できていないことは、その表情を見れば明らかだった。

 

それでも、みはりは何度も考えた。

全部が消えているわけじゃない。

兄の中にまだ残っているものがあるのなら、それに近い誰かが触れれば、何か引き出せるかもしれない。

 

もみじちゃんは、"まひろ"にとって大切な子だ。

女の子になって初めてできた友人で、かけがえのないつながりの一つでもある。

もみじちゃんと知り合ってから、少しずつ外の世界へ手を伸ばせるようになった。

学校や、新しくできた友人たちとの関わりも、そこから広がっていった。

もし会って話せれば、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。

 

もちろん、余計に混乱させる可能性もある。

それは正直わからない。

 

それでも、迷った末に、みはりは了承した。

特に仲の良かった、あさひちゃんと、みよちゃんも来たがったようだが、まずはもみじちゃん一人だけに来てもらうことにした。

それは、ほとんど祈るような気持ちで下した決断だった。

 

扉の前で立ち尽くすもみじちゃんの背中を見ながら、みはりはそっと唇を噛む。

どうか。せめて、何か一つでも。

兄の中に残っているものが、そこに触れてくれますように――。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。