おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
みはりさんが静かに病室のドアを開けてくれる。
室内はしんとしていた。
ベッドの脇の椅子に座っていた女の人が、こちらを振り返り立ち上がった。
「今日はありがとう……こちらへどうぞ」
小さく会釈をされて、もみじも慌てて頭を下げる。
たぶん、まひろちゃんのお母さんだ。
初めて会ったのに、ひと目でそうだと分かった。
髪の色も、顔立ちも、まひろちゃんによく似ている。
みはりさんのお姉さんと言われても、違和感がないくらい若々しくて、きれいな人だった。
(——まひろちゃんが大人になったら、こんなふうになるのかな)
ふとそんなことを思う。
けれど、そのきれいな面差しには、隠しきれない疲れが滲んでいた。
眠れていないのか、目の下には薄く影が落ちている。
みはりさんが小声で何か言い、お母さんもまた小さくうなずいた。
お母さんに勧められるまま、もみじはベッド脇の椅子にそっと腰を下ろす。
それから、あらためてベッドへ視線を向けた。
頬は少し削げ、肌の色もどこか青白く見える。
ふとんから出している腕はやせ細り、手首は折れそうなほど薄い。
それなのに、ふとこちらへ向いた顔つきは妙に幼く、きょとんとした表情が、
かえって痛々しさを際立たせていた。
(——どうして、こんなになるまで……)
そう思った途端、目の奥が熱くなる。
けれど、泣いたら駄目だと必死にこらえる。
みはりさんが、やわらかな声で、まひろちゃんに声をかける。
「まひろちゃん、お友だちのもみじちゃんが来てくれたよ」
その言葉に、まひろはもみじの顔をたしかめるように見つめた。
けれど、どこか戸惑うように首を傾げた。
「……もみじ?」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
(——うそ、やっぱり、わたしのことも分からないんだ……)
取り乱しそうになる心を、もみじは必死に押さえつけた。
ぎゅっと指先に力を込めて、どうにか息を整える。
それから、もみじは少しだけ身を乗り出した。
「……うん。わたしは穂月もみじ」
声が震える。
それでも、どうにか笑おうとする。
「まひろちゃんの、お友だちだよ」
まひろは「もみじ」という名前を口の中で転がすみたいに、小さく繰り返した。
「もみじ……」
それから、どこか迷うように首を傾げる。
「ボク……きみのこと、知ってる?」
もみじは唇を噛んだ。
泣きそうになるのをこらえて、こくりとうなずく。
もみじはそっと手を伸ばし、ベッドの手すりに触れた。
「うん。知ってるよ」
「まひろちゃん、わたしと、いっぱいおしゃべりしたでしょ。ゲームの話もしたし、
一緒に帰ったこともあるし」
まひろはじっと聞いていた。
けれど、その目にはまだ、たしかな実感は戻っていない。
「……ごめんなさい」
小さな声で、まひろが言う。
「わかんないの」
その謝り方があまりにも弱々しくて、もみじはとうとう顔を伏せた。
「謝らなくていいよ……」
声が掠れる。
落ちそうになった涙を、慌ててぬぐう。
まひろは困ったように、シーツをきゅっと握った。
その仕草さえ痛々しくて、もみじは胸が詰まる。
「……まひろちゃん」
呼ぶと、まひろは顔を上げた。
「ちゃんと待ってるから」
「いま思い出せなくてもいい。ゆっくりでいいから……あさひも、みよちゃんも、クラスのみんなも待ってる。だから、帰ってきてよ」
その言葉に、まひろは目を見開いた。
何かが引っかかったように、ほんの一瞬だけ表情が揺れる。
けれど次の瞬間には、また不安そうに眉が寄った。
「……ごめんなさい……ボクも、帰りたい……でも、わかんないの……」
もみじは首を振った。
今度はもう、涙がこぼれるのを止められなかった。
もみじは泣き笑いみたいな顔で言った。
「だから、謝らなくていいってば……」
「思い出せなくても、いまはそれでいいから……」
何度も涙をぬぐいながら、
目の前のまひろがここにいることを、確かめるみたいに見つめ続けた。
やがて、もみじは名残を惜しむように、ゆっくりとベッドから離れる。
目元をぬぐって泣き顔のまま、それでも小さく笑う。
「……じゃあ、今日はもう帰るね」
まひろは不安そうな顔のまま、こくりとうなずく。
「……ばいばい」
もみじが小さく手を振ると、まひろも少し迷ってから、おずおずと手を振り返した。
「また来るね」
そう言って、もみじは病室のドアに手をかけた。
みはりも見送るために、あとを追って廊下へ出る。
静かに扉が閉まった、その途端――張りつめていたものが切れたみたいに、
もみじはその場で口元を押さえた。
「……ごめんね。つらい思いさせちゃって」
みはりが小さく言うと、もみじは慌てたように首を振った。
「ううん……ちがうの。わたし、会えてよかった……」
声はまだ涙混じりだった。
「……びっくりしたけど。でも、まひろちゃんと、また会えてよかった」
「ありがとう。来てくれて」
もみじは唇を結んでうなずく。
それから、もう一度だけ病室の扉を見た。
「……まひろちゃん、戻ってきますよね」
その問いに、みはりはすぐには答えられなかった。
胸の奥が、鈍く痛む。
それでも、絞り出すように言う。
「……うん。きっと大丈夫」
もみじは小さくうなずいた。
そのままみはりに背を向けて、今度こそ廊下の向こうへ歩いていく。
みはりは、その背中が角を曲がって見えなくなるまで、じっと見送っていた。
病室の扉を開けると、先ほどまでの気配が嘘みたいに、静けさだけが残っていた。
まひろは、もみじが去っていった扉の方を、しばらくの間ぼんやりと見つめていた。
けれど、やがて疲れたようにまぶたを伏せる。
「まひろくん、疲れた?」
まつりがそっと尋ねると、まひろは小さくうなずいた。
「ちょっとだけ……」
母がすぐにベッド脇へ戻り、掛け布団の端を丁寧に整える。
「無理しなくていいわ。少し休みましょうね」
まひろは素直にうなずき、目を閉じた。
まつりはベッドの脇に腰を下ろしたまま、しばらくその寝顔を見守っている。
やがて、浅かった呼吸が少しずつ落ち着き、寝息がすう、すうと規則正しくなっていく。
その様子を見届けてから、まつりは小さく目配せして、そっと扉の外を示した。
病室を出ると、空気が少しだけ冷たく感じた。
二人は廊下を少し歩き、家族用の待合室に入る。
面会時間は過ぎ、室内はがらんとしていた。
自動販売機の低い駆動音だけが、静かな待合室にかすかに響いている。
先に沈黙を破ったのは、まつりだった。
「……まひろくん、あまり様子は変わらなかったわね」
声は低く、抑えていた。
みはりは唇を軽く噛んで、
「うん……すぐに何か変わる感じではなかったけど、少なくとも混乱はしてなかったし、
ちゃんと話はできてた。もみじちゃんは、きっとショックだったと思うけど……」
「それでも『待ってるから』って言ってくれたものね……。
お姉さんにそっくりな……やさしくて、まっすぐな子ね」
みはりは黙ってうなずいた。
「……まひろくんに、あんなふうに待っていてくれる子がいたのね」
しみじみと呟くようにそう言って、まつりは小さく息を吐いた。
「体調はだいぶ安定してきたし、先生はあと二、三日様子を見て、このままなら退院できるって言ってたわ。……ただ、あの退行のことは、かなり稀な症例らしくて、いつ記憶が戻るかは分からないとも言っていたけど……」
そこで、少し間が空いた。
まつりが、言いにくそうに視線を落としたまま、ゆっくりと口を開く。
「……あのね」
声がわずかに震えていた。
「まひろくんの意識が……あんなに小さい頃にまで戻ってしまったのは、女の子になる薬の影響っていうことは……ないの?」
みはりの胸が、どくりと跳ねた。
触れられたくなかった場所を、まっすぐ突かれた気がした。
そんなはずはないと分かっている。そう信じている。
それでも、今起こっている現実を前にすると、どうしても頭をよぎってしまう考えだった。
『オレを玩具にしてたのか?』
過去にぶつけられた言葉が、鋭く脳裏に蘇る。
みはりは声をできるだけ落ち着かせながら答えた。
「……そんなことは、ないわ。安全性は何重にも確認してる。臨床データも、長期投与の記録も、全部クリアしてる。絶対に、意識障害を引き起こすような成分は入っていない」
でも、声の端が少し尖っていた。
まつりは目を細め、ゆっくりと首を振った。
「なにか確証があって言っているわけじゃないの。私には難しいことは分からないし……。
でも……身体があんなふうに変わってしまうのなら、気持ちや記憶の方にだって、何か影響があってもおかしくないんじゃないかって……どうしても、そう思ってしまうの」
みはりは拳を膝の上で握りしめた。
爪が掌に食い込む。
「……ママは、私を信じてくれないの?私がお兄ちゃんを……壊したと思ってる?」
「……そんなこと、思ってないわ」
母の声も、わずかに硬くなった。
二人の間に、短い、けれど重い沈黙が落ちた。
みはりは視線を窓の外へ逸らし、まつりもまた、何かを考えるように自動販売機の明かりへ目を向けていた。
言葉はもう出なかった。
ただ、空気だけがギスギスと張りつめていく。
やがて、まつりが小さく息を吐いた。
「……とにかく、退院の準備をしましょう。家に帰ってから、またゆっくり考えればいいわ」
みはりは無言で頷いただけだった。