おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
待合室でのあの日から二日後、まひろは退院し、緒山家に戻ってきた。
記憶は相変わらず戻らない。
けれど、自宅で安静にしながら数日を過ごすうちに、体力は少しずつ回復していった。
まだ万全とは言えないものの、歩くことも食事をとることも、入院した頃に比べればずいぶん持ち直していた。
ただ、記憶が戻る時期については、誰にも分からなかった。
数日で落ち着くこともあれば、もっと長くかかることもある――記憶の退行もあり、医師の説明はどうしても歯切れの悪いものにならざるを得なかった。
そして、家に戻ればどうしても避けられない問題があった。
妹の不在について、入院中は「みはりは親戚の家に預けている」と誤魔化していた。
小さい子を家で一人にしておけないから。
少し遠くにいるから。
ちゃんと元気にしているから。
まつりとみはりは、そう繰り返して、どうにかやり過ごしていた。
けれど家に戻っても、みはりが帰ってくることはない。
まひろも最初のうちは、数日もすればそのうち帰ってくるのだと、どうにか自分を納得させていた。
だが、そうして日を重ねるうちに、その言い訳も苦しくなっていった。
「みはりは、まだ帰ってこれないの?」
「うん。親戚の家がね、ちょっと……遠いところなのよ」
「でも、もう帰ってきてもいい頃じゃない?」
「もう少しかかるの。ね?大丈夫だから」
そんなやり取りが、そのたびに繰り返された。
まひろは、無理に納得したように頷く。
けれど、そのたびに表情の翳りは深くなっていった。
そんな日が、幾日か続いた。
夕方、まつりは買い物に出ていて、リビングにはみはりとまひろの二人きりだった。
ソファの端に座ったまひろが、落ち着かない様子で指先でクッションの端をいじり、何かを堪えるように唇を引き結ぶ。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……どうして」
みはりが顔を上げる。
「どうして、お家に帰ってきたのに、みはりはぜんぜん帰ってこないの?」
「まひろちゃん――」
「みはりは、本当はどこに行ったの?」
声が少し高くなる。
「それに……どうして、お姉ちゃんがずっと家にいるの?」
まひろが顔を上げた。
目には涙が滲んでいた。
「ボク、帰ってきたのに……なんで……」
息が上ずり、声が震える。
それでも必死に泣くのを堪えているのが分かった。
みはりは立ち上がった。
とうとう、限界が来てしまった。
なだめなくては、と頭では分かっている。
何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、頭の中は熱を持ったみたいに、うまく回らなかった。
「まひろちゃん、お願い、聞いて……」
そう言いかけて、みはりは言葉を失った。
まひろが、ふいにこちらを見つめたまま、みはりの額を指さしたからだ。
「……そのヘアピン」
掠れた声が、かすかに震える。
「みはりの、だよね」
みはりの肩が、ぴくりと揺れた。
「なんで、お姉ちゃんが持ってるの?」
頭の中が真っ白になる。
何を言えばいいのか分からない。
否定するのか。誤魔化すのか。それとも――
沈黙が落ちた。
その沈黙が、まひろの不安をさらに煽る。
「……みはりは、どこにいるの? 本当は、親戚の家なんかじゃないんでしょ」
びくり、とみはりの身体が震える。
まひろは息を乱しながら、なおも言葉を絞り出した。
「なんで誰も、ちゃんと教えてくれないの……」
青白い顔でみはりを見上げ、まひろはかすれた声で言った。
「お姉ちゃん……みはりに、何かしたの……?」
みはりの呼吸が止まった。
まひろは怯えたように肩を震わせ、それでも必死に言葉を継ごうとする。
混乱しているのか、うまく息が続かない。
「みはりは……やさしくて、がんばり屋で……」
「すぐ無理するし……平気なふりするけど、ほんとはすごく寂しがりで……」
途切れ途切れの声は、まるで自分自身に言い聞かせるみたいだった。
「だから……ボクが、守ってあげなきゃいけないのに……」
その一言が、みはりの胸を深くえぐった。
まひろが必死に庇っている“みはり”は、本当なら今ここにいる自分のはずだった。
けれど、まひろの眼差しは目の前の自分を見てはいない。
その視線が向いているのは、幼くて無垢なまま、記憶の中に置かれた妹だった
「私だよ」
みはりの声は、ひどく震えていた。
「私が、みはりなの」
その言葉が落ちた瞬間、まひろの表情が凍りついた。
「……え」
掠れた息が漏れる。
みはりはもう止まれなかった。
泣きそうな顔のまま、一歩、また一歩と近づく。
「ずっとここにいたのに。ずっとお兄ちゃんのそばにいたのに!どうして分からないの!」
まひろは後ずさった。
けれど、ソファの端に脚がぶつかって、それ以上下がれない。
「うそだ……」
唇が震える。
目の焦点が定まらず、みはりと、その額のヘアピンと、何もない宙とを交互にさまよった。
「ちがうよ……だって、みはりは……」
「みはりは、もっと……」
そこで言葉が途切れる。
もっと、小さい。
泣き虫で、いつも自分のあとを追いかけてきて、兄である自分が大切に守ってやらなきゃいけない存在だった。
頭の中に浮かぶ妹と目の前の少女が、どうしても重ならない。
「こないで!」
強く拒絶する言葉に、みはりの足が止まる。
まひろは肩で息をしながら、壁際まで身体を引いた。
怯えたような、傷ついたような目で、目の前の少女を見上げている。
そのとき、買い物袋の擦れる音がして、みはりがはっと振り向いた。
リビングの入口に、まつりが立っていた。
「……え」
まつりもまた、目の前の光景に息を呑んだ。
その一瞬の静止を突くように、まひろが弾かれたように動く。
「……っ」
みはりの脇をすり抜け、まつりの横をかすめるようにして、そのまま階段を駆け上がっていった。
「まひろくん!」
まつりの声が追う。
けれど、返事はない。
二階で扉の閉まる音が、強く響いた。
残されたリビングで、みはりはしばらく立ち尽くしていた。
さっきまで自分の中を埋め尽くしていた熱が今は急に冷えて、重い虚脱感だけが残っていた。
「……何をしたか、分かってるの」
まつりの声に、みはりは顔を上げた。
まつりがゆっくりと歩み寄ってくる。
その表情にいつもの穏やかさはなかった。
「今のまひろくんが、どれだけ不安定か分かっていたでしょう」
「それなのに、どうしてあんな言い方をしたの」
みはりは唇を噛んだ。
分かっていた。そんなことは、痛いほど。
「……じゃあ、いつならよかったの」
自分でも抑えきれない苛立ちが、声の端に滲んだ。
「いつまで黙っていればよかったの? ずっと? 一生?」
「お兄ちゃんが目の前で私のこと探してるのに、嘘ついてずっと平気な顔してればよかったの?」
「みはりちゃん——」
「ママはいいよね……」
「ママは、ちゃんと分かってもらえてるじゃない」
「目の前にいるのに、私はずっと他人か透明人間みたいで……」
「ずっと、ずっとそこにいたのに!」
みはりはその場に崩れ落ちた。
取り繕うことも、息を整えることもできないまま、ただ泣いていた。
まつりはしばらく黙っていた。
それから、深く息を吐く。
「……ええ。苦しかったでしょうね」
その声は、少しだけ疲れていた。
「でも今は何より、まひろくんを守らなきゃいけないわ」
みはりは何も返せなかった。
「少し頭を冷やしなさい。まひろくんには、私がついてるから」
その言葉に、みはりはかすかに顔を上げる。
何か言い返したかった。
でも、言葉が何ひとつ出てこなかった。
結局、何も言えないまま、自分の部屋へ戻った。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、まつりが朝食の支度をしていると、二階のまひろの部屋から小さな悲鳴みたいな声が聞こえた。
「……ママ!」
コンロの火をあわてて止めて、まつりは駆け出した。
みはりも、ほとんど同時にリビングから飛び出し階段を駆け上がる。
まひろの部屋の扉は開け放たれていた。
二人が息を切らせて中へ踏み込むと、まひろは姿見の前で立ち尽くしていた。
その視線の先にある自分の姿を、信じられないものでも見るように見つめている。
そこでようやく、みはりもまつりも、何が起きたのかを理解した。
そこにいたのは、小さな男の子だった。
昨日までの、女の子の身体ではない。
細い肩も、華奢な手足もそのまま幼いけれど、間違いなく男の子の身体に戻っている。
けれど、元の年齢ではなかった。
どう見ても、小学校の高学年に届くかどうかくらいの幼い姿。
ぶかぶかになった寝間着を抱きしめるように掴みながら、まひろは青ざめた顔でこちらを見ている。
「ママ……」
「ボク、やっぱり男の子だったよ……」
まつりが駆け寄り、まひろのそばに膝をつき、その身体を抱き寄せる。
「そうね、まひろくんは男の子だわ」
そう言いながらも、声は少し震えていた。
みはりはその場から動けなかった。
頭の中が真っ白になる。
戻った。
けれど、完全には戻っていない。
まひろは不安そうに自分の手を見て、それから、みはりの方へ視線を向けた。
その一瞬、みはりの心臓が跳ねる。
だが、まひろの目に昨夜のような激しい拒絶はなかった。
ただ、戸惑いと警戒を残したまま、こちらを見ているだけだった。
「……お姉ちゃん」
みはりの喉がきゅっと縮む。
まだ、そこは変わらない。
けれど、昨夜のように怯えてはいない。
「お兄ちゃん……」
思わず声をかけると、まひろは少しだけ眉を寄せた。
まつりが振り返り、短く言った。
「みはりちゃん。今は余計なこと言わないで。着替えを持ってきて」
その声に、みはりははっとして頷いた。
「……うん」
部屋を出ながら、みはりは胸の奥に奇妙な感覚が広がっていくのを感じていた。
昨夜までのどうしようもない行き詰まりは、ひとまず別の現実に押し流されていた。
救いと呼べるものではない。
けれど少なくとも、息を整えるだけの猶予は与えられた気がした。
その日一日、家の空気は妙に静かだった。
まひろは自室からほとんど出なかったが、昨夜のように完全に閉ざしてしまうこともなかった。
食事はまつりが運び、みはりは必要なものを揃えるだけに留める。
夕方、空になった食器を下げに行くと、まひろはふとんの上に座っていた。
男の子の身体に戻ったことが、本人にも少しだけ安心感を与えているのか、昨日より顔色は随分ましだった。
みはりがそっとトレイを持ち上げると、まひろが小さく口を開く。
「……それ」
「え?」
「ありがと」
思いがけない一言だった。
みはりは目を瞬かせる。
まひろは気まずそうに視線を逸らした。
「ママじゃなくて、お姉ちゃんが、ずっと心配して色々やってくれてたって」
まだ妹と認識されたわけではない。
けれど、完全に拒んでもいない。
みはりは泣きたくなるのをこらえながら、小さく頷いた。
「……うん」
まひろはしばらく黙っていたが、やがて、おそるおそる確かめるように言った。
「お姉ちゃんは……みはり、なの?」
みはりは息を詰め、それから、今度はためらわず真っ直ぐに答えた。
「うん。みはりだよ。お兄ちゃん」
上ずった声で
長い沈黙のあと、まひろは小さく頷いた。
完全に納得できたわけではない。
それでも、少なくとも、その言葉を正面から拒みはしなかった。
それだけで、今は十分だった。
次話まではできているので、校正が済み次第アップします。
資格試験の勉強のため、また少し更新が空きますが、残り三話ほどで完結予定です。