おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
それからほどなく、まひろは目の前の少女が、妹のみはりなのだと理解するようになった。
もちろん、すんなり受け止められたわけではない。
理屈では分かる。まつりの説明も、みはり自身の言葉も何度も聞いた。
目の前にいる年上の少女が、自分の妹なのだということだけは、どうにか飲み込めるようになっていた。
けれど、見た目も、背丈も、声も、仕草も、自分の知っている妹とはあまりに違いすぎる。
だから「みはりなんだ」と理解したあとでも、まひろはときどき妙な顔をした。
本当にそうなのかな、と言いたげに、みはりの顔をじっと見つめることもあった。
「……? どうしたの?」
そう聞かれると、まひろは気まずそうに視線を逸らす。
「えっと……べつに」
その返事に、みはりはくすっと笑う。
その笑い方まで落ち着いていて、やっぱり妹には見えない……と、まひろは密かに思う。
それでも、まひろは一応、自分が兄なのだというつもりでいた。
たとえ自分がまだ子供でも。
目の前の妹の方が、どう見ても年上の大人にしか見えなくても。
それでも、兄は兄なんだ。たぶん。きっと。
だから、なるべく自分のことは自分でやろうとした。
朝はひとりで起きる。
着替えもひとりでする。
髪も、自分でどうにか整える。
その結果、今朝も寝癖の跳ねた頭のままリビングに入り、みはりに無言で櫛を差し出されることになる。
「……なに」
「こっちにきて、お兄ちゃん」
「自分でできるし」
「できてないから言ってるの」
釈然としない顔のまま、まひろはソファに座るみはりの隣へ腰を下ろした。
みはりは慣れた手つきで髪を梳かしていく。
「ほら、じっとして」
むすっと口を尖らせつつも、まひろは大人しくしていた。
そうしているうちに、頭に触れる指の感触が妙に心地よくなってきて、少しずつ瞼が重くなる。
「……終わったよ」
みはりの声で我に返ったとき、まひろは自分がいつの間にか、みはりの胸元へもたれ掛かっていたことに気がついた。
柔らかい感触と近すぎる距離、それにふわりと鼻先をかすめる甘い匂いに、途端に顔が熱くなる。
「……っ」
まひろは弾かれたように身体を起こした。
その慌てぶりがおかしかったのか、みはりがくすっと小さく笑う。
「な、なに?」
「別に?」
みはりは分かりやすく口元をゆるめていた。
その年上ぶった余裕のある顔に見透かされたような気がして、まひろは悔しさと恥ずかしさで、ますます耳まで赤くなる。
「ちがうし。今のは、ちょっと眠かっただけだし」
「うんうん」
「なに、その顔」
みはりはすぐには答えず、ただ楽しそうに口元をゆるめている。
その顔を見ているだけで、なにやら落ち着かない気持ちになる。
「……からかってるだろ」
「そんなこと、ないってば」
みはりはそう言いながらも、声が少し笑っていた。
「じゃあ笑うなよ」
「ごめんごめん」
まったく悪びれていない様子に、まひろはむっと頬をふくらませる。
そんなふうに、一応は兄らしくしようとしても、結局はあちこちでみはりの世話になってしまう。
袖がうまく通らない。
ボタンをひとつ掛け違える。
コップに注いだ牛乳をこぼす。
高いところにあるものが取れない。
そのたびに、みはりはごく自然に手を貸した。
「ほら、じっとして」
「こっち向いて」
「危ないから待ってて」
まひろはそのたびに「子どもじゃない」とむくれる。
けれど実際にどう見ても子どもだし、年の差が逆転している以上、説得力は薄い。
それでも、本人なりに頑張ってはいた。
ある朝、まひろはジャムの瓶を開けようとしていた。
しかし、子どもの小さな手には瓶が重く、蓋も固くしまっていて回らない。
むっとしながら何度も力を込め、ようやく蓋が緩んだその瞬間、
勢い余って瓶が手の中でつるりと滑る。
「あ――」
床に落ちかけた瓶を、後ろから伸びてきたみはりの手が、すんでのところでキャッチする。
「危ないよ、お兄ちゃん」
「……っ、取れたし!」
まひろは真っ赤になって言い返す。
みはりは怒るでもなく、にこにこと笑ったまま瓶の蓋を受け取った。
「うん、すごいね。ちゃんと開けられたね」
「でも次からは、開けるときにテーブルの上に置いてやろうね」
またある時、洗面所で歯を磨こうと、棚の奥に置かれたコップに手を伸ばした。
背伸びしても指先が届かず、飛び跳ねながら何度も手を伸ばす。けれど結局届かなくて、いら立ったように「くっ……!」と唸っていると、みはりが後ろからそっと手を伸ばしてコップを取ってくれた。
「ほら」
「……いらない」
「でも今、取ろうとしてたでしょ?」
「……」
まひろはぶすっとした顔でコップを受け取りながら、
「ボクより背が高いのずるい……」と、小さく唇を尖らせた。
またある夜、自室で掛け布団のカバーを替えようと、まひろは悪戦苦闘していた。
四隅を合わせたつもりだったのに、引っ張ってみると片側だけが妙に余って、反対側はつんつるてんになっている。
「……おかしいだろ」
ぶつぶつ言いながら一度外し、もう一回かけ直す。
それでもなぜか今度は布団そのものが中でねじれて、角がきれいに入らない。
まひろは眉をひそめ、掛け布団を持ち上げるようにして何度か引っ張った。
片方を入れれば、もう片方が飛び出す。
押し込んだと思えば、今度は中で布団がよれて、妙な膨らみができる。
「なんでだよ……」
意地になって、まひろは開いたカバーの口に頭から突っ込んだ。
中でぐしゃぐしゃになった布団をどうにか直そうともがくうちに、体勢が崩れてそのまま横倒しになる。引き抜こうとした腕ごと、上半身までずぶずぶと飲み込まれてしまった。
「……っ、ちょ……!」
慌てて抜け出そうとするが、今度は足まで裾に絡まる。
そのうちカバーごと自分の身体まで巻き込み、じたばたと身動きが取れなくなった。
布団の上でもがく小さな影を見て、ドアのところに立っていたみはりはとうとう声を立てて笑った。
「お兄ちゃん、なにしてるの」
「笑うな!」
中からくぐもった声が返る。
やっとのことで顔を出したまひろの髪は、さっき整えたばかりなのにまた乱れてしまっていた。
「なんでこうなるんだよ……!」
半分怒ったような声が部屋に響く。
みはりは笑いをこらえながら近づくと、布団の角をつまんだ。
「これ、中で反対向いてる」
「……うそ」
「ほんと」
結局、みはりが反対側をそっと持ち上げて整えることになった。
「ほら、こっちを少し浮かせてから引っ張るの」
「……今日は特別だからな。次からは絶対自分でやる」
「うんうん、次も頑張ろうね」
みはりはにこにこしながらそう言って、最後にまひろの頭を優しく撫でた。
まひろは「また撫でてる……!」と文句を言いながらも、なぜかその感触は嫌ではなく、それ以上は抵抗せず、そのまま布団に潜り込んだ。
ふと見上げると、微笑んだみはりと目が合う。
その頬はどう見てもゆるみきっていて、口元を引き締めようとしているのに、全然成功していない。
「……その顔、なんかむかつく」
思わずそう言うと、みはりはえへへと、いたずらっぽく笑った。
「しょうがないでしょ」
「……なんで」
「だって、お兄ちゃんが、かわいすぎるから」
「は!?」
まひろの顔がまた赤くなる。
「かわいくないし!」
「うん、かっこいいかっこいい」
「適当だな!?」
みはりの声は、からかうようでいて、どこまでもやさしかった。
視線はずっとまひろに向いたままで、その目元には隠しようのないやわらかさが浮かんでいる。
まひろはその視線がなんとなく落ち着かず、むずがゆくなってそっぽを向く。
けれど、耳までまだ赤いままだった。
みはりは部屋の電気を落としながら、静かにまひろへ目を向けた。
「おやすみ、お兄ちゃん」
まひろも小さく「……おやすみ」と呟いた。
◇◆◇◆◇◆◇
それからの緒山家には、奇妙なくらい穏やかな日々が戻っていた。
ほんの少し前まで、この家を覆っていた重苦しい空気と緊張感が、まるで幻だったみたいに思えるほどだった。
みはりは、以前にも増して甲斐甲斐しくまひろの世話を焼いた。
服の襟を整え、跳ねた髪を撫でつけ、手の届かないものを取ってやり、危なっかしい手つきでやろうとすることにはすぐに手を添える。
「お兄ちゃん、こっちにきて」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「はいはい、お兄ちゃん」
返す声はどこまでも柔らかく、手を添える仕草もひどくやさしい。
髪を梳かし、服の襟を直し、ほどけた紐を結び直してやる。
まるで姉が弟の世話を焼くような、傍目には微笑ましい光景に見えた。
まつりはそんな二人を、少し離れたところから静かに見守っていた。
まひろは以前よりずっと落ち着いている。
男の子に戻ったことで、少なくとも前のような、身体的な拒絶感からは解放されたのだろう。
みはりのそばでも、少しずつ肩の力を抜けるようになってきていた。
妹が年上になってしまったことへの違和感と、兄としてのプライドもあって、みはりにはついぶっきらぼうに言い返してしまう。
それでも、みはりが傍にいるときのまひろは、明らかに安心した表情をみせていた。
それは、母親として素直にほっとする変化だった。
けれど、ときどき。
ほんの一瞬だけ、みはりの表情に影が落ちることがあった。
まひろが無邪気に笑ったとき。
みはりの肩にもたれて眠たそうに目を閉じたとき。
あるいは「みはり、ありがと」と素直に礼を言った、その直後。
みはりはうれしそうに笑う。
けれど、その笑顔の奥で、ふっと何かを計るような、あるいは怯えるような色が差すことがある。
その一瞬が、まつりには気になって仕方がなかった。
このままでいいのだろうか。
いや、むしろこのままだからこそ、何かを恐れているのではないか。
そんな違和感が、胸の奥に小さく残り続けていた。
ある日の午後。
まひろが昼寝をしているあいだ、みはりはソファで本を読んでいた。
スマートフォンが手元のローテーブルに、伏せもせず置かれている。
畳んだ洗濯物を運んでいたまつりが、その横を何気なく通りかかった、そのときだった。
テーブルの上のスマートフォンが震え、待ち受け画面にメッセージアプリの新着通知が浮かぶ。
ちとせ先輩:
『例の改良型TS薬、もう少――』
まつりの足が止まった。
ほんの一瞬のことだった。
みはりもハッとしたようにすぐに画面を伏せた。
けれど、もう遅かった。
「……みはりちゃん、今の、何?」
みはりの指先がぴくりと揺れる。
「別に……なんでもない」
「……なんでもない反応ではなかったわ」
みはりは答えない。
だがその沈黙だけで、ほとんど答えを聞いたも同然だった。
まひろの記憶が戻らないのなら、このまま元の男の子として、新しい生活を築いていく道もあるはずだ。そう考え始めていた矢先だった。
なのに、みはりはいまだにTS薬に関わっている。
まつりの胸の奥に、嫌な予感がじわりと広がった。
まさか。
この子は、また――。
「みはりちゃん」
声が少しだけ低くなる。
「あなた、まさかまた、まひろくんを女の子に戻すつもりじゃないでしょうね」
みはりは顔を上げない。
伏せたままの横顔には、隠しきれない動揺と、どこか危うい影が滲んでいた。
どうして、この子はそこまで兄が“女の子であること”にこだわるのか。
どうして、ようやく穏やかさを取り戻しかけた今になっても、なお別の形を望むのか。
その問いの先にある答えが、どれほど昏く歪んだものなのか、まつりはまだ知らなかった。