おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
大学受験に失敗した。
内部進学を捨ててまで挑んだ先で、最後の拠り所まで失った。
外に出たかった。
妹を疎ましく思いたくなかったから。
妹を自分の劣等感の置き場所にしたくなかった。
距離を取れば、何かが変わると思った。
自分や妹を知る人のいない場所へ行けば、もう一度、自分だけの価値を探せる気がした。
自分が自分として生きられると思った。
けれど、失敗した。
気が付けば部屋にこもり、差し出される食事を食べ、用意された着替えに袖を通すだけの、空虚な日々を送っていた。
自尊心など、とっくに擦り切れていた。
「お兄ちゃん、今は無理しないで」
みはりは、そう言ってくれた。
頑張って、とは言わなかった。
次があるよ、とも言わなかった。
今の自分に、そんな言葉をかけても届かないことを分かっていたのだろう。
自分が情けなかった。
ただただ、惨めだった。
優しくされるたびに、自分の弱さや駄目さを、丁寧に塗り重ねられているような気がした。
ある日の夕方だった。
食卓の上に用意された料理が、まだかすかに湯気を立て、
カーテン越しの夕日が、部屋の隅をぼんやりと染めていた。
どんな話の流れだったかは覚えていない。
みはりはいつものように微笑んだまま、何気なくその言葉を口にした。
「でもね、お兄ちゃんと一緒に過ごせて、私は嬉しいよ」
その瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、黒い熱を帯びて噴き出した。
……誰のせいで!!
言葉にならない声が、頭の内側で荒れ狂うように渦を巻いた。
誰のせいで、俺がこんなところにいると思ってる。
誰のせいで、こんな惨めな自分を毎日見せつけられてると思ってる。
違う。
受験に失敗したのも、今の状況になったのも、すべては自分のせいだ。
逃げようとしたのに、それすらもできなかった。
みはりは何も悪くない。
分かっている。
分かっているのに、心がついてこなかった。
「……俺みたいな駄目なやつ、放っておいてくれていいよ」
気づけば、そんなことを言っていた。
俯いたままでも、みはりが戸惑ったようにこちらを見つめているのが分かった。
「お兄ちゃん?」
「お前だって、その方が楽だろ。俺なんかの世話しなくて済むし」
「……そんなことないよ。お願いだから、そんなこと言わないで……」
「いいよもう、そういうの」
言葉の途中で遮っていた。
目前で、みはりが息を詰める気配がした。
「そういうのって、なに……」
「優しくされると、余計に惨めになるんだよ」
吐き捨てたつもりの言葉だった。
けれど、出てきた声は思ったよりも細くて、喉の奥で情けなく震えていた。
「……今日はもう寝る」
逃げるように立ち上がり、階段を上って自分の部屋に入った。
扉を閉めた途端、胸の奥に後悔がじわりと滲む。
完全に八つ当たりだった。
なにも映っていないモニターの前に座る。
今さら電源を入れる気にもなれず、ただ黒い画面に映る自分を見ていた。
何も考えたくなかった。
しばらくそうしてから布団へ潜った。
けれど、暗がりの中で浮かぶのは、さっきのみはりの顔ばかりだった。
強張った表情。何かを言いかけて、飲み込んだ唇。
寝返りを打っても、枕に顔を押しつけても、胸の奥に残ったざらつきは消えなかった。
謝ろう。
そう思って、部屋を出た。
階段を降りると、リビングの明かりはまだついており、みはりはソファで眠っていた。
このところ研究が押していると言っていた。
疲れていたのだろう。
身体を少し丸めて、静かに寝息を立てている。
いつの間にか大人びた顔をするようになった妹。
自分より遥か先へ進み、自分より遠くを見ている妹。
それなのに、眠っている顔には、昔の面影がまだ残っていた。
自分の後ろを必死についてきた、小さな妹のままに見えた。
今日は少し肌寒い。
何かかけてやろうと思った。
ソファの背にかけてあったブランケットを手に取り、音を立てないように近づく。
眠っているみはりの身体の上にそっと広げ、肩口まで引き上げたところで手が止まった。
少し乱れた髪の隙間から、みはりの首筋が覗いている。
白くて、細い。
あまりにも無防備だった。
――イマナラ
自分は引きこもって、体力もずいぶん落ちている。
それでも、男女の体格差はある。
この手を伸ばして。
指をかけて。
力を入れれば。
――ジャマナコイツヲ
頭の奥で、誰かが言った。
――モウ、クラベラレルコトモナクナル
はっと我に返った。
息が止まる。
いま、何を考えた?
目の前にいるのは、みはりだ。
たった一人だけの大切な妹だ。
その妹に。
自分は今。
みはりが、眠ったまま小さく身じろぎした。
ブランケットが擦れて、かすかな音を立てる。
ほんの小さな衣擦れが、まるで世界の裂ける音のように響いた。
違う。
違う。
違う。
そんなこと考えていない。
考えるはずがない。
みはりを、妹を、傷つけたいなんて思うはずがない。
でも、一瞬だが脳裏に浮かんだ。
確かに浮かんだ。
消えてしまえばいいと。
あの細い首に手をかければ、すべてが終わるのではないかと。
思わず後ずさった。
足がテーブルの脚に当たり、小さな音がした。
みはりの肩が、ぴくりと跳ねる。
「……お兄、ちゃん……?」
寝ぼけた声だった。
とっさに返事ができなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
謝るべきなのか。
逃げるべきなのか。
それとも、何もかも話して助けを求めるべきなのか。
何ひとつ、分からなかった。
ただ、ここにいてはいけないと思った。
踵を返し、階段を駆け上がる。
部屋へ飛び込み、扉を閉め、震える手で鍵をかけた。
背中を扉に預けたまま、ずるずると床へ座り込む。
震えが止まらなかった。
自分が怖かった。
みはりを、妹を、あんなふうに見てしまった自分が。
守るべき相手を害して、楽になれるかもしれないと考えた自分が。
もう、外に出てはいけない。
みはりを守るには、自分自身を遠ざけるしかなかった。
この部屋の中に閉じ込めて、二度と近づけないようにするしかなかった。
それが罰なのか、逃げなのか。
妹を守るための手段なのか。
当時の自分には、もう判断できなかった。
ただ、その日から。
部屋の扉を開けることができなくなった。
――あの日から先の記憶は、ひどく曖昧だった。
扉を閉ざしたあと、自分がどれほどの時間を、あの部屋で過ごしたのか。
その間、何をして、何を考えていたのか。
けれど、すべてを思い出す必要などなかった。
自分がなぜ部屋から出られなくなったのか。
みはりの優しさから逃げるように、どうして自分自身を閉じ込めたのか。
その理由だけは、もう嫌というほど分かっていたから。
記憶が戻り始めたのは、数日前からだった。
最初は、夢だと思った。
暗い部屋。
光の消えたモニター。
扉にもたれたまま、震えている自分。
目を覚ますたびに、胸の奥に鉛のような重さが残っていた。
夢にしては妙に生々しかった。
喉に張りつく息苦しさも。
掌に残る冷たい汗も。
覚えのないはずの部屋の匂いさえも。
けれど、自分にはそんな経験をしたという実感がなかった。
今の自分は、みはりの兄ではあるけれど、あの夢の中にいた男とは違う。
そう思おうとした。
頭を打ったせいで、妙な夢を見るのかもしれない。
みはりや母さんから聞いた話を、眠っている間に勝手につなぎ合わせただけなのかもしれない。
何度もそう言い聞かせた。
それでも、夢は少しずつ形を変えた。
知らないはずの記憶が、眠っているときだけでなく、目を覚ましているときにも浮かぶようになった。
階段を見れば、駆け上がったときの息苦しさが蘇った。
食卓に座れば、夕日に照らされたみはりの顔が重なった。
黒いモニターに自分の姿が映れば、そこに今とは違う、あの男の顔が見える気がした。
そして、ソファに目を向けるたびに、無防備に覗いた白い首筋と、
そこへ伸ばしかけた自分の手が、鮮明に脳裏へ蘇った。
夢ではなかった。
否定しようとするほど、身体の奥に残った感覚が、それが現実に起きたことなのだと告げていた。
怖かった。
思い出したことではない。
思い出した自分が、これから何を考えるのかが怖かった。
また、みはりを傷つけたいと思ってしまうのではないか。
今度こそ、本当に取り返しのつかないことをしてしまうのではないか。
だから、誰にも言えなかった。
みはりにも。
母さんにも。
二人とも、ようやく自分が落ち着いてきたと思っている。
少しずつ笑い合えるようになったことを喜び、以前のように話せることに安堵していた。
また心配をかける。
また、みはりを泣かせる。
それだけは嫌だった。
なるべくいつもどおりに振る舞った。
みはりが話しかけてくれば、できるだけ自然に笑った。
分からないふりをして
知らないふりをして
みはりが安心したように微笑むたび、胸の奥が痛んだが、そうしてさえいれば、今の穏やかな時間を壊さずに済むと思った。
だが、あふれ出した記憶は、もう止めることができなかった。
一つ思い出すたび、その奥に埋もれていた別の記憶まで引きずり出されていった。
みはりの声。
母さんの顔。
閉ざした部屋。
自分を呼び続ける声。
長い時間をかけて、自分の世話をしてくれた妹。
その妹を疎ましく思い、遠ざけ、それでも離れていくことには耐えられなかった自分。
そして。
女の子になった自分。
もみじや、あさひ、みよちゃん。
クラスのみんな。
かえでちゃんや、自分を受け入れてくれた大切な人たち。
一緒に笑ったこと。
遊びに出かけたこと。
くだらないことで騒ぎ、時にはすれ違い、それでもまた同じ場所に集まったこと。
誰かに必要とされることが、こんなにも嬉しいのだと知った。
自分がそこにいていいのだと、初めて思えた。
それは、引きこもっていた頃の自分には想像もできなかった日々だった。
思い出せば思い出すほど、否定できなくなっていった。
あの記憶は、確かに自分が生きた時間そのものだった。
そして、暗い部屋にひとり佇んでいたあの男も。
今ここにいる自分も。
どちらも、自分だった。
みはりが何をしようとしているのか、薄々はもう分かっていた。
自分をもう一度、女の子のままに留めようとしていることも。
心のどこかで、記憶が戻らないままでいてほしいと願っていることも。
けれど、それをみはりだけの罪にすることはできなかった。
自分が弱かったから。
何も決めず、何も選ばず、差し出された手に縋り続けた。
守られることに甘え、みはりに自分の人生まで背負わせた。
だから、みはりは自分を手放せなくなった。
失うことに怯え、間違ったやり方にまで縋るようになった。
みはりのしたことを、正しいとは思わない。
でも、みはりをそこまで追い詰めた責任は、自分にもある。
それなのに今も、何も知らないふりをして。
何も決められないふりをして。
これからのことまで、みはりに背負わせようとしている。
それでは、あの頃と同じだった。
まひろは、ゆっくりと目を開いた。
こちらを見たみはりと、視線が重なる。
驚いたように、みはりの目が見開かれた。
もう、眠ったふりを続けることはできない。
自分は思い出してしまったから。
みはりを羨み。
疎み。
傷つけ。
それでも最後まで、みはりの優しさに甘え続けた自分を。
そして今もまた、同じことを繰り返そうとしている。
だったら、ここで変わらなければならない。
みはりに決めさせるのではなく。
母さんに守ってもらうのでもなく。
今度こそ、自分で決めなければならない。
みはりから目を逸らさず、震えそうになる唇を静かに開いた。
「みはり。もう終わりにしよう」