おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
「みはり。もう、終わりにしよう」
さっきまでソファでうたた寝をしていたはずの兄が、まっすぐにこちらを見ていた。
幼い顔立ちには似つかわしくないほど、その眼差しは静かに醒めている。
言い争っていた二人に気圧されるでも、その場の空気に戸惑うでもなく、ただ逃がさないというように。
「ごめんな、みはり」
静まり返ったリビングに、かすかな声が落ちた。
「オレ、ずっとお前に甘えてた」
その声も、伏せた表情も、明らかに今までの兄とは違って見えた。
「まひろくん……」
母が、確かめるように呼びかける。
「もしかして、記憶が戻ったの?」
まひろは少しだけ黙ってから、頷いた。
「まだ、ぼんやりしてるところはあるけど……」
一度、息をつく。
「でも、思い出した。思い出さなきゃいけないことは、たぶん全部」
みはりの表情が凍りついた。
その顔が見る見る青ざめていく。
「いつから……?」
「二日くらい前から。少しずつ」
「二日……?」
掠れた声が、ひどく頼りなく落ちた。
二日も前から。
その間ずっと、兄は記憶を取り戻しながら、自分のそばにいたのだ。
何か変わったところはなかったか。
思い返そうとして、すぐにやめた。
今さら探したところで、もう遅い。
毎日、兄の顔を見ていた。
声も聞いていた。
それなのに、まるで気づけなかった。
見ているつもりで、本当は何も見えていなかったのかもしれない。
「オレさ、お前と比べられるのが、ずっと嫌だったんだ」
まひろの声は静かだった。
けれど、言葉を重ねるたびに、押し込めていたものが少しずつ滲み出してくる。
「お前が何かするたびに褒められて、すごいって言われて。その横で、オレは何をやっても足りなくて……。頑張ったって、お前と比べられたら全部たいしたことじゃなくなるだろ?」
唇の端が、わずかに歪む。
「そのうち、周りからも言われるようになったんだ。『妹はあんなにすごいのに』とか、『本当に兄妹なのか』とか。たぶん、みんなにとってはただの冗談だったんだと思う」
「……」
「最初はオレも笑ってたよ。笑って流してれば、その場は丸く収まるから」
まひろは、少しだけ目を伏せた。
「でも、だんだん笑えなくなった。誰かと話していても、いつお前の話になるんだろうって思うようになって……気づいたら、人といること自体が嫌になってた」
「人の輪に入るのが億劫になって、話しかけられても適当に返して、自分から離れるようになって……」
「気づいたら、本当に一人になってた」
言い終えて、まひろは微かに寂しそうな笑みを浮かべた。
みはりは何も言えなかった。
兄が周囲から孤立していったことは知っていた。
知らないはずがない。
半ば、自分がそうなるよう仕向けたのだから。
けれど、それでも分かっていなかった。
その陰で、兄が周囲からどんな視線を向けられていたのか。
どんな気持ちで、日々をやり過ごしていたのか。
自分は、それを見ようとさえしていなかったのだ。
「どうして……」
唇が震えた。
「どうして何も言ってくれなかったの?」
まひろは少し黙った。
「言えるわけないだろ」
「どうして?」
みはりには、本当に分からなかった。
兄がどうしてあそこまで全部、一人で抱え込んでしまったのか。
まひろは困ったように眉を寄せ、それから小さく息を吐いた。
「だって、オレはお前の兄貴なんだぞ」
「……え?」
「妹が頑張って結果を出して、みんなに褒められてる。それを素直に喜べないなんて……そんなの、オレが駄目な奴だからなんだって思ってた」
「お前は何も悪くない。頑張ってただけなんだから。なのに『お前と比べられるのがつらい』なんて、そんなこと……」
まひろは一度、言葉を詰まらせた。
「そんなこと言ったら……お前が悲しむと思ったんだ」
みはりは、呆然と兄を見つめていた。
何かを言わなければと思うのに、頭の中が真っ白で、言葉がひとつも浮かばない。
「自分が頑張ったせいで兄貴が苦しんでるなんて知ったら……お前、絶対に気にするだろ」
「……」
「だったら、言えるわけないよ」
「……お兄ちゃん」
みはりの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
何度も瞬きをしたが、そのたびに新しい涙が溢れてくる。
胸の奥を、深く抉られたような気がした。
兄はずっと、自分が傷つかないように黙っていた。
それなのにわたしは――。
「……まあ、今こうして言っちゃって、結局お前を泣かせてるんだから、何言ってんだって話なんだけど」
「でも、もう格好つけて黙ってる方が駄目なんだと思う」
「……」
「兄貴なのに妹を妬んでたなんて、死ぬほど格好悪いし、できれば墓まで持っていきたかったよ」
ほんの少しだけ、自嘲するように笑う。
「違うの……お兄ちゃん」
「え?」
「私、知ってた」
震える声で、みはりは言った。
「お兄ちゃんが学校で一人になっていったことも、周りとうまくいかなくなってたことも……知ってたの」
そこで、みはりは一度息を詰まらせた。
「ううん……知ってただけじゃない」
涙に濡れた顔を上げる。
「私が、そうなるように仕向けたの」
兄にはすでに知られてしまっている。
けれど、改めて自分の口で言わなければならないと思った。
「お兄ちゃんを、誰にも取られたくなかった」
声が震えた。
「私の知らないところで楽しそうにしてるのが嫌だった。誰かがお兄ちゃんにとって、私より大事な人になるのが怖かった」
涙が次々と頬を伝う。
「だから、お兄ちゃんの周りから人がいなくなればいいって思った」
「……」
「そうすれば、最後には私のところに戻ってきてくれるって……また私の事を褒めてくれるって……そう思ってたの」
みはりは顔を歪めた。
「でも私……自分の望むことしか見えてなかった」
大粒の涙が、また頬を伝った。
「ひどい妹だよね……」
みはりは俯いたまま、かすかに笑った。
「お兄ちゃんを一人にして、自分だけそばにいようとして。それなのに、お兄ちゃんがどれだけ傷ついてるのか見ようともしなくて……」
「みはり……」
「こんなの、嫌われたって仕方ないよ」
震える指で、膝の上の服を強く握り締める。
「嫌われても、怒られても、もう妹だと思ってもらえなくても……全部、私が悪いんだから、受け入れなきゃいけないって思ってる」
そこで言葉が途切れた。
しばらく俯いていたみはりが、ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた目は、まひろだけを見ていた。
「……お兄ちゃんは」
唇が震える。
「私と、離れた方がいいって思ってる?」
「……」
まひろはとっさに答えられなかった。
自分がこのままそばにいていいのか、その確信が持てなかった。
あのことだけは、みはりに知られたくなかった。
知られれば、きっと彼女を深く傷つける。
わずかに伏せられた目を見て、みはりは小さく息を呑んだ。
「……そっか」
その一言を口にした途端、張りつめていたものが切れたように、
みはりの口元に、泣き笑いのような頼りない笑みが浮かんだ。
「でも……」
「それでも……お兄ちゃんと離れるのは、嫌なの……!」
最後の言葉と一緒に、堪えていたものがすべて溢れた。
みはりは俯き、両手で顔を覆う。
「嫌だよ……離れたくないよ……」
もう、誰に聞かせるでもない声だった。
しばらくのあいだ、誰も何も言わなかった。
静まり返ったリビングに、みはりの嗚咽だけが途切れ途切れに響いていた。
まひろも、何も言えずに妹を見つめている。
しばらく二人を見つめていたまつりが、静かに口を開いた。
「……みはりちゃん」
声は穏やかだった。
けれど、みはりを慰めるような甘さはなかった。
「離れたくないって気持ちは分かるわ」
みはりは顔を上げなかった。
「それに……本当なら、私が二人にこんなことを言える立場じゃない」
まつりは一度、目を伏せた。
「ここまで二人を放っておいて、まひろくんのことも家のことも、ずっとみはりちゃんに任せきりにしてきたんだから」
返事はなかった。
みはりの嗚咽だけが、小さく続いている。
「でも、このまま曖昧にして、元の生活に戻るのは絶対に駄目」
みはりの肩がぴくりと揺れた。
「今の二人は、近すぎるのよ」
「……」
「みはりちゃんは、まひろくんを失うのが怖くて離せない。まひろくんは、みはりちゃんを傷つけるのが怖くて自分を押し殺してしまう」
まつりは二人を交互に見た。
「このまま一緒にいたら、また同じことを繰り返すわ」
「……じゃあ、どうするの?」
みはりが、泣き腫らした顔を上げた。
その目には、答えを聞く前から怯えの色が浮かんでいた。
「一度、離れて暮らしましょう」
みはりの顔が、目に見えて強張った。
「……え?」
「ずっとじゃないわ。まずは少しずつ……」
「嫌……」
「二人とも、一度相手のいないところで、自分のことを考える時間が必要なの」
「嫌だよ……」
みはりは首を振った。
「それは嫌……」
「みはりちゃん」
「嫌!」
声が跳ね上がった。
「離れたら、お兄ちゃんは私がいない方が楽だって気づいちゃう!」
「……」
「私がいなくても平気だって分かっちゃう!そしたら、もう帰ってこない!」
「ずっと離れるんじゃないわ」
「そんな保証ないでしょ!」
みはりは縋るように、まひろのそばへ駆け寄った。
その服を、両手で強く掴む。
「それだけは、絶対に嫌!お兄ちゃんを私から取らないで!」
「取るんじゃないわ」
まつりの声が、少しだけ強くなる。
「離れていても兄妹でいられるってことを、二人とも知らなきゃいけないの」
「そんなの……」
「今のみはりちゃんは、まひろくんと離れることを考えただけで、こんなに怖くなっているんでしょう?」
みはりの唇が震えた。
「それくらい、お兄ちゃんがいないと駄目になってるのよ」
「……それの何がいけないの」
まつりは、少しだけ目を伏せた。
「兄妹でも、それぞれ自分の人生があるのよ。ずっと一緒に暮らしていくわけじゃない」
みはりの表情が強張る。
「いつかは、それぞれの場所で生きていかなきゃいけないの」
「でも……」
「みはりちゃん」
まつりが、少し強い声で遮った。
「一緒にいたいと思うことが悪いんじゃないの」
みはりが口を閉ざす。
「そのためなら、何をしてもいいって思ってしまうことが問題なの」
「……」
みはりの顔が、わずかに歪んだ。
反論する言葉は、出てこなかった。
「だから、一度離れなきゃいけないの」
それでも、まつりは目を逸らさなかった。
「今まで何もできなかったからこそ、もうこれ以上、二人に間違えさせたくないの」
みはりは涙を拭うこともせず、視線を膝元に落としていた。
まひろも黙って、その続きを待っている。
しばらく、みはりのしゃくり上げる声だけがリビングに残った。
まつりは一度息をつく。
「ちょうど、しばらく空いている家があるの。友達が使っていいって言ってくれてるから」
「……家?」
みはりの顔に、怯えが滲んだ。
「ええ。そこに、私とまひろくん――」
――ピンポーン。
不意に鳴ったチャイムが、まつりの言葉を断ち切った。
三人の視線が、一斉に玄関へ向く。
誰も動かなかった。
ついさっきまで響いていたみはりの泣き声も止まり、張りつめたような静寂がリビングを満たす。
少し間を置いて、もう一度。
――ピンポーン。
張りつめた空気の中に、ひどく平和なチャイムの音が響いた。