おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
かえではリビングのソファに座り、スマホの画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
みはりからの返事は、今日も同じだった。
まだ会わせられる状態ではない。
記憶が混乱している。
家族以外の人と会わせるのは、もう少し待ってほしい。
最初にそう言われたとき、かえでは素直に納得した。
事故で頭を打って入院していたのだ。
無理をさせるべきではない。
それは分かっていた。
けれど。
「……いくらなんでも、長すぎない?」
ぽつりと漏らした言葉に、隣に座ったもみじが顔を上げた。
「お姉ちゃん?」
「ごめん。ひとりごと」
「みはりさん、なんて?」
かえではスマホを伏せながら答える。
「やっぱり、まだ会わせられないって」
「そっか……」
もみじは目に見えて肩を落とした。
退院したと聞いたときはほっとした。
でも、それからも状況はほとんど変わらなかった。
最初のうちは、もみじも大人しく待っていた。
まひろの身体が落ち着くまで。
混乱した記憶が戻るまで。
また自分たちに会っても大丈夫だと、みはりが判断するまで。
けれど、待っても待っても、その日は来なかった。
気づけば、事故の頃とは季節の気配さえ変わり始めていた。
「……まひろちゃん、本当に大丈夫なのかな」
「大丈夫だとは言ってるけどね」
「でも……」
もみじは膝の上に視線を落とした。
「電話も駄目なんだよね?」
「うん」
「メッセージも?」
「今はまだ、直接送らないでほしいって」
「……」
もみじの表情が曇る。
まひろの今の様子を知るには、みはりから届く短い報告に頼るしかなかった。
「……でも、入院してた頃の方が、まだ色々教えてくれてたよね」
「そうだね」
「病院では会わせてくれたし……退院したって聞いた頃も、もう少し連絡くれてた気がする」
「うん」
「なのに、途中から急に……」
もみじはそこで口をつぐんだ。
退院して時間が経つほど、むしろまひろの様子は分からなくなっていった。
それが、どうにも引っかかった。
「まひろちゃん、私のことは分かってなかったかもしれないけど、でも、病院ではちゃんと返事もしてくれてたし」
かえでは黙って頷く。
「それなのに、退院してからもずっと会えないって……やっぱり、変だよ」
かえではすぐには答えなかった。
たしかに、それは自分も感じていたことだった。
退院したということは、少なくとも身体の状態は落ち着いているはずだ。
もちろん、記憶の混乱はまた別の話なのだろうとは思う。
それでも、電話も駄目。
メッセージも駄目。
会うこともできない。
そこまで徹底して遠ざけなければならないものなのか。
「……まあ、ちょっと気にはなるよね」
もみじは何も言わなかった。
しばらく、時計の音だけがリビングに響く。
やがて、もみじが顔を上げた。
「お姉ちゃん」
膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
「一度だけ、会いに行っちゃだめかな」
「まひろちゃんちに?」
「うん」
かえでは少し眉を寄せた。
「会わせられないって言われてるんだよ?」
「分かってる」
もみじはすぐに答えた。
「でも、会わせてって無理を言うんじゃなくて……玄関先でいいから。差し入れだけ渡して、帰るだけでも……」
声にはまだ迷いが残っていた。
それでも、言葉を引っ込める様子はなかった。
「まひろちゃん、私たちのこと忘れちゃったのかもしれないけど……」
一度、唇を噛む。
「でも、だからって、こっちまで何もしないで待ってるだけなの、そんなの嫌だよ」
かえでは妹の顔を見た。
泣きそうな顔をしていた。
けれど、その目には、迷いながらも答えを決めた色が浮かんでいた。
「……迷惑かもしれないよ」
「……うん」
「それでも行きたい?」
もみじは一度だけ視線を落とした。
けれど、すぐに頷いた。
「行きたい」
かえでは小さく息を吐いた。
「……分かった」
立ち上がり、テーブルの上のスマホを手に取る。
「とりあえず玄関先まで。無理強いはしない。みはりが本当に駄目って言ったら、差し入れだけ置いて帰るんだよ」
「うん」
かえでは苦笑する。
なんだかんだ言って、自分だって行きたかったのだ。
みはりを疑っているわけではない。
それでも一度、顔を見て直接話さないと、どうにも納得できそうになかった。
◇◆◇◆◇◆◇
緒山家が見えてくると、もみじの足取りは少しずつ遅くなった。
家を出たときには、もっとちゃんと覚悟を決めていたはずだった。
けれど、見慣れた家が近づくにつれて、別の考えが次々と浮かんでくる。
本当に来てよかったのだろうか。
みはりさんは、まだ待ってほしいと言っていた。
まひろちゃんだって、もしかしたら自分たちとはもう会いたくないのかもしれない。
門の前まで来たところで、とうとう足が止まった。
「……」
隣を歩いていたかえでも立ち止まる。
「どうする?」
「え?」
「やっぱり、今日はやめとく?」
責めるような言い方ではなかった。
「ここまで来たからって、絶対行かなきゃいけないわけじゃないよ」
もみじは門の向こうの、閉じられた玄関扉を見つめた。
来ないでと言われている以上、ここで引き返した方がいいのかもしれない。
そう思う。
それでも。
「……ううん」
小さく首を振った。
「やっぱり、まひろちゃんが心配だから」
かえでを見る。
「大丈夫だって言われても……やっぱり、自分の目で確かめたい」
かえでは少しだけ目を細めた。
「そっか」
それ以上は何も言わなかった。
二人で玄関まで歩いていく。
インターホンの前に立つと、もみじはまた少しだけ躊躇した。
指を伸ばして、止める。
深く息を吸った。
そして今度こそ、インターホンのボタンを押した。
――ピンポーン。
家の中からの反応はない。
もみじは不安そうに隣の姉へ目をやった。
「……出ないね」
「うん」
しばらく待つ。
けれど、玄関が開く気配はなかった。
もみじはもう一度、インターホンへ手を伸ばす。
今度はほんの少しだけ、ためらいながら。
――ピンポーン。
今度も、すぐには返事がなかった。
もみじはしばらく玄関のドアを見つめていたが、やがて諦めたように視線を落とした。
「……やっぱり、帰った方がいいのかな」
「そうだね。今日は――」
かえでがそう言いかけたとき、家の中でかすかに物音がした。
二人は思わず顔を見合わせた。
誰かが、玄関の方へ近づいてくる気配がした。
◇◆◇◆◇◆◇
二度目のチャイムが、リビングに響いた。
みはりは泣き腫らした顔のまま、動こうとしない。
まひろも玄関の方へ視線を向けたまま、少し戸惑ったように身じろぎする。
「……私が出るわ」
まつりはそう言って、玄関へ向かった。
廊下へ出て、玄関の扉を開ける。
そこに立っていた二人を見て、まつりの表情に驚きと戸惑いの色がわずかに浮かんだ。
「かえでちゃんに、もみじちゃん」
「あの、突然ですみません」
「こ……こんにちは」
かえでが軽く頭を下げ、その隣でもみじも慌てて頭を下げた。
「まひろちゃんのこと、やっぱりちょっと心配で……」
もみじがおずおずと言う。
「無理を言うつもりじゃないんです。ただ、差し入れだけでもと思って」
その言葉に、まつりの視線が二人の手元へ落ちた。
もみじの手には、見覚えのある洋菓子店の紙袋があった。
この辺りでは、若い女の子たちに人気のお店だった。
「わざわざ来てくれたのね。ありがとう」
そう答えながらも、一度だけ家の中を振り返る。
「ただ……ごめんなさい。今、ちょっと取り込んでいて」
「やっぱり、そうですよね」
もみじの顔に、分かりやすく落胆が浮かんだ。
「すみません。急に来ちゃって」
「ううん。そんなことは――」
そこで、まつりは言葉を止めた。
このまま帰ってもらう。
それが一番簡単だった。
今までと同じように、もう少し待ってほしいと伝えればいい。
二人だって、きっとそれ以上踏み込んではこないだろう。
けれど。
目の前にいる二人は、何も知らされないままで、ずっと待ってくれていた。
事故のあとからも、何度も心配してくれている。
この子たちまで、理由も分からないまま遠ざけ続けていいのだろうか。
それに、まひろくんも、いつまでも外の世界から離れたままではいられない。
どんな形であれ、いずれは外へ出て、人と関わっていかなければならない。
今の姿を誰にも見せないまま、いつか何もなかったように元へ戻る。
それが一番現実的で最善の方法だと思っていた。
でも、本当にそれだけでいいのか……まつりには分からなかった。
まつりは少し考えてから、二人に向き直った。
「……ちょっとだけ、ここで待っててもらえる?」
「え?」
「ごめんね。少しだけ時間をちょうだい」
そう言って二人に軽く頭を下げると、まつりは玄関のドアを閉めた。
リビングへ戻ると、みはりがすぐにこちらを見た。
「誰だったの……?」
「かえでちゃんと、もみじちゃんだったわ」
みはりの表情が強張った。
「……そう」
最近は、かえでからの連絡にもほとんどまともに返せていなかった。
何度も待ってほしいと伝えるばかりで、詳しいことは何ひとつ話していない。
心配して、とうとう家まで来てくれたのだろう。
「二人には悪いけど……帰ってもらって」
みはりは申し訳なさそうに目を伏せた。
「二人とも、ずっとまひろくんのことを心配してくれてるみたいよ」
「分かってる。でも……」
「私ね」
まつりが静かに遮った。
「今のまひろくんに、二人を会わせても良いんじゃないかって思うの」
みはりが顔を上げた。
「……は?」
一瞬、何を言われたのか理解できないように目を見開いた。
「なに言ってるの!?」
すぐに声が跳ね上がる。
「こんな状態のお兄ちゃんを、見せられるわけないでしょ!」
「病院で会ったときとは状況が違うんだよ!?こんな姿になってるなんて二人とも知らないんだし、いきなり会わせたら、絶対混乱するに決まってるでしょ!」
「でも、二人とも何も知らないまま、ずっと待ってくれてるのよ」
「……だからって!」
「かえでちゃんには、入院したときからずいぶん助けてもらったでしょう?」
「……でも、それとこれとは……」
「もみじちゃんだって、病院で一度会ったきり。そのあと何度も会いたいって言ってくれてるのに、ずっと待ってもらってる」
みはりは唇を噛んだ。
「このまま、ずっと隠しておくことはできないわ」
「できるよ」
ほとんど反射的な返事だった。
「今はまだ会わせなくたっていい。もう少し落ち着いてから、それから――」
「……会うよ」
小さな声だった。
みはりとまつりが同時にまひろを見る。
「お兄ちゃん?」
「二人に会う」
みはりの顔色が変わった。
「駄目だよ!」
「みはり」
「だって、今のお兄ちゃんを見たら、二人ともショック受けるよ!それに、何て説明するの!?今までだって――」
「だからだよ」
まひろの声は静かだった。
「ずっと仲良くしてくれたんだ」
みはりが黙る。
「オレがああなってから、外に居場所ができたのも、元をたどれば、もみじとかえでちゃんがいてくれたからだ」
まひろは自分の手元へ目を落とした。
「一緒にいるの、楽しかったよ。本当に」
ほんの少しだけ、表情が緩む。
けれど、それもすぐに消えた。
「でも本当は……騙してるみたいな気も、ずっとしてた」
「お兄ちゃんは騙してなんか――」
「向こうはそう思わないかもしれないだろ」
みはりの言葉を、まひろは静かに遮った。
「今のオレを見たら、気持ち悪いって思うかもしれない。騙してたって怒るかもしれない」
まひろは一度、息を吐いた。
「もう友達でいたくないって言われるかもしれない」
その言葉に、みはりの顔が歪んだ。
「そんな……」
「それでも、仕方ないと思う」
まひろの声が、少しだけ震えた。
平気なわけではなかった。
二人に拒絶されることを想像するだけで、胸の奥が冷たくなる。
嫌悪や不信の滲んだ目を向けられたら……そう考えるだけで怖い。
一緒に笑って過ごした、あの大切な時間まで、全部嘘だったように思えてしまうかもしれない。
それでも。
「ずっと隠したまま、何も知らない二人に心配だけさせてる方が嫌なんだ」
まひろは顔を上げた。
「ちゃんと本当のことを話したい」
「……」
「怒られたら謝る。許してもらえないなら、それも受け入れる」
言葉を選ぶように、一度間を置く。
「オレにできることがあるなら、何だってするよ」
みはりが何か言おうとして、口を閉じた。
「でも、もう隠したままにするのはやめたい」
まひろは玄関の方へ目を向けた。
「オレなんかのために、ここまで心配して来てくれた」
ほんの少しだけ困ったように笑う。
「これ以上、何も知らないまま待たせたくないんだ」
まひろくん……ヘタしたら通報案件だものなぁ……。
南の島に行くはずが急遽中止(ノд・。)
お休み期間中にラストまで行けたら……(ムリか…)