おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
あれから更に数日が経った。
まひろは部屋から一歩も出なくなった。
食事もほとんど取らず、布団に潜り込んだまま。
みはりは毎日ドアの前で「お兄ちゃん……ご飯、置いとくね……」と声をかけ、涙をこらえながら去っていく。
みはりはもう限界だった。
深夜、眠れないまま布団の中でスマホを握りしめ、海外で仕事をしている母親、緒山まつりにビデオ通話をかけた。
画面に映る母親の姿は、40歳近いというのに相変わらず20代前半くらいにしか見えない。
時差のせいで向こうは日中、明るい陽光がまつりの肌を照らし、シワ一つない白さがより鮮やかで、若々しさがさらに際立っていた。
みはりのただならぬ様子に気付いたのか、いつもの穏やかな表情が心配そうに歪む。
「みはりちゃん?どうしたの、こんな時間に」
みはりは嗚咽を漏らしながら、
「ママ……お兄ちゃんが……もう、部屋から出てこないの……わたしが、お兄ちゃんをずっと傷つけてて……ずっと、ずっと気づけなくて……わたし……もう、どうしたらいいかわからない……」
「……みはりちゃん、ちょっと落ち着いて。」
声は穏やかなままだったが、珍しく焦りの色が滲み出ていた。
まつりは画面をじっと見つめて、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「深呼吸して……ゆっくり息を吸って、吐いて……ママ、ちゃんと聞いてるから。落ち着いて、全部話してごらん」
スマホを握りしめた手を震わせながら、まつりの言葉に合わせて息を吸って。吐いた。
また吸って、吐いて。
少しだけ、声が落ち着く。
みはりは小さく頷いてから、ゆっくりと、途切れ途切れに話し始めた。
文化祭の劇で、まひろがセリフを飛ばして舞台から逃げたこと。
それから学校に行けなくなったこと。
毎日ドアの前にご飯を置いても、ほとんど食べてもらえないこと。
そして、あの日の……
お兄ちゃんが吐き出した、胸をえぐるような本音の言葉。
抑えに抑えていたものが、ついに決壊したような、それは壊れかけの慟哭だった。
みはりはそれを思い出すだけで、胸が締め付けられる。
「わたしが……お兄ちゃんを、傷つけて……その上、薬で勝手に体を変えて……お兄ちゃんの気持ちを、無視して……全部、全部、わたしのせいなんだ……」
まつりは黙って聞いていた。
時々、「うん……」と小さく相槌を打つだけ。
「ママ……お兄ちゃんの声が……今でも耳に残ってるの……あのときのお兄ちゃんは、怒ってるんじゃなくて……もう、限界だったんだって……最初に引きこもった時だって、きっと……きっと、わたしが……わたしが全部悪くて……」
話しながら、みはりは何度も言葉を詰まらせた。
涙が画面をぼやけさせて、声が嗚咽に変わる。
ようやく話し終えて、スマホを握った両手から力が抜ける。
肩の震えが少しずつ小さくなっていく。
長い沈黙が流れた。
まつりは画面越しに、静かに息を吐いた。
「……そんな事になっていたのね……このところ、ずっとみはりちゃんの様子がおかしかったから、なにかあったとは思って心配していたの……お兄ちゃんの事、ずっとみはりちゃんに任せっぱなしで、本当にごめんね……」
まつりの声は優しいのに、どこか疲れを帯びていて、みはりの胸をさらに締め付ける。
「ママ、すぐに帰るわ。今からフライトの予定を見て、チケットを取るから。もう少し待っててね。ママが帰ったら、ちゃんと話そう……お兄ちゃんも、みはりちゃんも、ママが守るから。」
みはりはスマホを胸に押しつけて、小さく頷いた。
「うん……ママ……ごめんね……ありがとう……」
通話が切れた瞬間、みはりはスマホを握りしめたまま、
布団に顔を埋めて、静かに泣き続けた。
「お兄ちゃん……ママ……ごめん……ごめんね……」
◇◆◇◆◇◆◇
文化祭から、もう一か月近くが経った。
もみじは教室の席から、ぼんやりと外を眺めていた。
窓際のまひろちゃんの席は、まだ空いたままだ。
最初は「劇の失敗でショックを受けているだけ」だと思っていた。
みんなで「まひろちゃん、緊張しすぎちゃったんだね」「ゆっくり休めばいいよ」って、落ち着けば数日で戻ってくるだろうと信じていた。
でも、日が経つにつれて、違和感が強くなっていった。
「長すぎる……」
舞台での失敗だけで、一か月近くも学校に来ないなんて、
まひろちゃんの性格からして、ありえない。
確かに舞台本番でのあの失敗はショックだっただろう。
でも、そんなに長く引きずるタイプじゃない。
それにお姉さん、姉のみはりさんの態度も妙だった。
お見舞いに行くと、いつも玄関先で「今は誰にも会いたくないって……」と、申し訳なさそうに頭を下げて……
いつもそんなだったっけ?
まひろちゃんに甘いのは前からだけど、いつまでもこんな状態を放置しておくのは、さすがにおかしすぎる。
みはりさんは、まひろちゃんのことを誰よりも大切に思っているはずなのに……
「今は会いたくない」って言葉を繰り返すたび、まるで、何かを必死に守ってるような、
それでいて、どこか諦めているような表情をする。
(まひろちゃん……本当に、劇の失敗だけが原因なの?それとも……何か、もっと別の理由が……?)
もみじは、正体のわからない胸騒ぎが、少しずつ濃くなっていくのを感じていた。
放課後、もみじはまた、まひろの家に向かった。
今日は一人で
玄関で、みはりさんがいつものように頭を下げる。
「ごめんね、もみじちゃん。まひろちゃん、まだ誰にも会いたくないって……」
もみじは唇を噛んだ。
「うん……わかりました。私こそ何度も来ちゃって、ごめんなさい」
みはりさんはいつものように、申し訳なさそうに頭を下げた。
でも、今日はいつもと違って目が赤く腫れていて、頰に涙の跡が残っているのがわかった。
声も、少し掠れている。
(……泣いてた?みはりさん、前からこんな感じだったっけ……?)
姉のかえでの大親友で、家では結構だらしないところもある姉とは違い、いつもまひろちゃんをかいがいしく世話して、大人みたいに堂々としている印象のみはりさんが、今は弱々しく泣き腫らした目で、申し訳なさそうに頭を下げている。
その姿は、もみじにとってどうしても拭えない違和感を生んでいた。
「……みはりさん」
声は小さかったけど、はっきり響いた。
みはりさんがびくっと肩を震わせて、こちらに視線を向ける。
もみじは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「まひろちゃん……学校に来ないのって、本当に劇の失敗だけが原因なのかなって……最近、なんか、ずっと変だなって思ってて……今日は、みはりさんも、泣いてたみたいで……本当は何か、もっと別のことがあったんじゃないかって……」
みはりさんの目が、大きく見開かれた。
虚を突かれたように息を止めて、顔から血の気が引いていくのがわかった。
「……え……?」
みはりさんは慌てて首を振った。
「い、いや、そんなこと……ないよ……ただ……まひろちゃんが、ショックを受けて……それだけだから……」
でも、声が上ずっていて、目が泳いでいるのが、はっきりわかった。
指先が白衣の裾をぎゅっと握りしめている。
もみじは胸の奥で、冷たいものが急速に広がっていくのを感じた。
(……隠してる。絶対、何か隠してる……まひろちゃんに、何か……部屋から出られなくなるようなことがあったんだ……)
もみじは両手をきつく握りしめて、
もう一度、なるべく穏やかに、しかしはっきりとした声で問いかけた。
「みはりさん……まひろちゃんのこと、私たちも本当に心配してるんだ……もし、何かあったのなら……話してほしい」
みはりさんは目を伏せて、
小さく、震える声で答えた。
「……ありがとう……でも、本当に……大丈夫だから……」
その声は、
今までで一番弱々しくて、
嘘をついているのが悲しいくらい丸わかりだった。
でも、もみじはそれ以上追及できなくて、胸に残る重いモヤモヤを抱えながら帰路についた。
(まひろちゃん……今、何してるんだろう……会いたいよ……)
もみじは家に帰る道すがら、スマホのチャット画面を開いた。
既読がつかないままの、最後のメッセージ。
『まひろちゃん、大丈夫?』
もみじは小さく息を吐いて、スマホをポケットにしまった。
不安は静かに、でも確実に、もみじの心を蝕み始めていた。
もみじの「みはりさん」呼びには違和感があるかもしれません。
原作でも一緒にいる場面はけっこう多いのに、もみじがみはりを呼び止める描写は意外と少なくて、呼称も「お姉さん」が数回ある程度です。
私の中では「お姉さん(おねーさん)」呼びは、なゆた→ちとせの印象が強く、ここではあえて「みはりさん」とさせていただきました。