おにまい曇らせ(仮)   作:Unus negotiator

5 / 14
第5話 限界

あれから更に数日が経った。

まひろは部屋から一歩も出なくなった。

 

食事もほとんど取らず、布団に潜り込んだまま。

 

みはりは毎日ドアの前で「お兄ちゃん……ご飯、置いとくね……」と声をかけ、涙をこらえながら去っていく。

 

みはりはもう限界だった。

深夜、眠れないまま布団の中でスマホを握りしめ、海外で仕事をしている母親、緒山まつりにビデオ通話をかけた。

 

画面に映る母親の姿は、40歳近いというのに相変わらず20代前半くらいにしか見えない。

時差のせいで向こうは日中、明るい陽光がまつりの肌を照らし、シワ一つない白さがより鮮やかで、若々しさがさらに際立っていた。

 

みはりのただならぬ様子に気付いたのか、いつもの穏やかな表情が心配そうに歪む。

 

「みはりちゃん?どうしたの、こんな時間に」

 

みはりは嗚咽を漏らしながら、

 

「ママ……お兄ちゃんが……もう、部屋から出てこないの……わたしが、お兄ちゃんをずっと傷つけてて……ずっと、ずっと気づけなくて……わたし……もう、どうしたらいいかわからない……」

 

「……みはりちゃん、ちょっと落ち着いて。」

 

声は穏やかなままだったが、珍しく焦りの色が滲み出ていた。

まつりは画面をじっと見つめて、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。

 

「深呼吸して……ゆっくり息を吸って、吐いて……ママ、ちゃんと聞いてるから。落ち着いて、全部話してごらん」

 

スマホを握りしめた手を震わせながら、まつりの言葉に合わせて息を吸って。吐いた。

 

また吸って、吐いて。

少しだけ、声が落ち着く。

 

みはりは小さく頷いてから、ゆっくりと、途切れ途切れに話し始めた。

 

文化祭の劇で、まひろがセリフを飛ばして舞台から逃げたこと。

 

それから学校に行けなくなったこと。

 

毎日ドアの前にご飯を置いても、ほとんど食べてもらえないこと。

 

そして、あの日の……

 

お兄ちゃんが吐き出した、胸をえぐるような本音の言葉。

抑えに抑えていたものが、ついに決壊したような、それは壊れかけの慟哭だった。

 

みはりはそれを思い出すだけで、胸が締め付けられる。

 

 

「わたしが……お兄ちゃんを、傷つけて……その上、薬で勝手に体を変えて……お兄ちゃんの気持ちを、無視して……全部、全部、わたしのせいなんだ……」

 

まつりは黙って聞いていた。

時々、「うん……」と小さく相槌を打つだけ。

 

「ママ……お兄ちゃんの声が……今でも耳に残ってるの……あのときのお兄ちゃんは、怒ってるんじゃなくて……もう、限界だったんだって……最初に引きこもった時だって、きっと……きっと、わたしが……わたしが全部悪くて……」

 

話しながら、みはりは何度も言葉を詰まらせた。

涙が画面をぼやけさせて、声が嗚咽に変わる。

 

ようやく話し終えて、スマホを握った両手から力が抜ける。

肩の震えが少しずつ小さくなっていく。

 

長い沈黙が流れた。

 

 

まつりは画面越しに、静かに息を吐いた。

 

「……そんな事になっていたのね……このところ、ずっとみはりちゃんの様子がおかしかったから、なにかあったとは思って心配していたの……お兄ちゃんの事、ずっとみはりちゃんに任せっぱなしで、本当にごめんね……」

 

まつりの声は優しいのに、どこか疲れを帯びていて、みはりの胸をさらに締め付ける。

 

「ママ、すぐに帰るわ。今からフライトの予定を見て、チケットを取るから。もう少し待っててね。ママが帰ったら、ちゃんと話そう……お兄ちゃんも、みはりちゃんも、ママが守るから。」

 

みはりはスマホを胸に押しつけて、小さく頷いた。

 

「うん……ママ……ごめんね……ありがとう……」

 

通話が切れた瞬間、みはりはスマホを握りしめたまま、

布団に顔を埋めて、静かに泣き続けた。

 

「お兄ちゃん……ママ……ごめん……ごめんね……」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

文化祭から、もう一か月近くが経った。

 

もみじは教室の席から、ぼんやりと外を眺めていた。

窓際のまひろちゃんの席は、まだ空いたままだ。

 

最初は「劇の失敗でショックを受けているだけ」だと思っていた。

みんなで「まひろちゃん、緊張しすぎちゃったんだね」「ゆっくり休めばいいよ」って、落ち着けば数日で戻ってくるだろうと信じていた。

 

でも、日が経つにつれて、違和感が強くなっていった。

 

「長すぎる……」

 

舞台での失敗だけで、一か月近くも学校に来ないなんて、

まひろちゃんの性格からして、ありえない。

 

確かに舞台本番でのあの失敗はショックだっただろう。

でも、そんなに長く引きずるタイプじゃない。

 

それにお姉さん、姉のみはりさんの態度も妙だった。

お見舞いに行くと、いつも玄関先で「今は誰にも会いたくないって……」と、申し訳なさそうに頭を下げて……

 

いつもそんなだったっけ?

まひろちゃんに甘いのは前からだけど、いつまでもこんな状態を放置しておくのは、さすがにおかしすぎる。

みはりさんは、まひろちゃんのことを誰よりも大切に思っているはずなのに……

 

「今は会いたくない」って言葉を繰り返すたび、まるで、何かを必死に守ってるような、

それでいて、どこか諦めているような表情をする。

 

(まひろちゃん……本当に、劇の失敗だけが原因なの?それとも……何か、もっと別の理由が……?)

 

もみじは、正体のわからない胸騒ぎが、少しずつ濃くなっていくのを感じていた。

 

 

放課後、もみじはまた、まひろの家に向かった。

 

今日は一人で

 

玄関で、みはりさんがいつものように頭を下げる。

 

「ごめんね、もみじちゃん。まひろちゃん、まだ誰にも会いたくないって……」

 

もみじは唇を噛んだ。

 

「うん……わかりました。私こそ何度も来ちゃって、ごめんなさい」

 

みはりさんはいつものように、申し訳なさそうに頭を下げた。

でも、今日はいつもと違って目が赤く腫れていて、頰に涙の跡が残っているのがわかった。

声も、少し掠れている。

 

(……泣いてた?みはりさん、前からこんな感じだったっけ……?)

 

姉のかえでの大親友で、家では結構だらしないところもある姉とは違い、いつもまひろちゃんをかいがいしく世話して、大人みたいに堂々としている印象のみはりさんが、今は弱々しく泣き腫らした目で、申し訳なさそうに頭を下げている。

 

その姿は、もみじにとってどうしても拭えない違和感を生んでいた。

 

 

「……みはりさん」

 

声は小さかったけど、はっきり響いた。

みはりさんがびくっと肩を震わせて、こちらに視線を向ける。

 

もみじは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「まひろちゃん……学校に来ないのって、本当に劇の失敗だけが原因なのかなって……最近、なんか、ずっと変だなって思ってて……今日は、みはりさんも、泣いてたみたいで……本当は何か、もっと別のことがあったんじゃないかって……」

 

みはりさんの目が、大きく見開かれた。

虚を突かれたように息を止めて、顔から血の気が引いていくのがわかった。

 

 

「……え……?」

 

みはりさんは慌てて首を振った。

 

「い、いや、そんなこと……ないよ……ただ……まひろちゃんが、ショックを受けて……それだけだから……」

 

でも、声が上ずっていて、目が泳いでいるのが、はっきりわかった。

指先が白衣の裾をぎゅっと握りしめている。

 

もみじは胸の奥で、冷たいものが急速に広がっていくのを感じた。

 

(……隠してる。絶対、何か隠してる……まひろちゃんに、何か……部屋から出られなくなるようなことがあったんだ……)

 

もみじは両手をきつく握りしめて、

もう一度、なるべく穏やかに、しかしはっきりとした声で問いかけた。

 

「みはりさん……まひろちゃんのこと、私たちも本当に心配してるんだ……もし、何かあったのなら……話してほしい」

 

みはりさんは目を伏せて、

小さく、震える声で答えた。

 

「……ありがとう……でも、本当に……大丈夫だから……」

 

その声は、

今までで一番弱々しくて、

嘘をついているのが悲しいくらい丸わかりだった。

 

でも、もみじはそれ以上追及できなくて、胸に残る重いモヤモヤを抱えながら帰路についた。

 

(まひろちゃん……今、何してるんだろう……会いたいよ……)

 

もみじは家に帰る道すがら、スマホのチャット画面を開いた。

既読がつかないままの、最後のメッセージ。

 

『まひろちゃん、大丈夫?』

 

もみじは小さく息を吐いて、スマホをポケットにしまった。

 

不安は静かに、でも確実に、もみじの心を蝕み始めていた。

 

 

 




もみじの「みはりさん」呼びには違和感があるかもしれません。
原作でも一緒にいる場面はけっこう多いのに、もみじがみはりを呼び止める描写は意外と少なくて、呼称も「お姉さん」が数回ある程度です。
私の中では「お姉さん(おねーさん)」呼びは、なゆた→ちとせの印象が強く、ここではあえて「みはりさん」とさせていただきました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。