おにまい曇らせ(仮)   作:Unus negotiator

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第6話 母の帰還

玄関のドアが開く音がした。

 

タクシーのエンジン音が遠ざかる中、緒山まつりはゆっくりと家の中へ足を踏み入れる。

少し埃っぽい空気と、懐かしい匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。

 

(……こんな匂いだっただろうか……)

 

懐かしいはずなのに、どこか他人の家のようだ。

そのよそよそしさが、仕事を言い訳にして、子どもたちを置き去りにしてきた時間の長さを、静かに突きつけた。

 

玄関で靴を脱ぎながら、スーツケースをそっと壁に立てかける。

家の中は妙に静かだった。

 

足音を殺すように、そのままリビングへと入る。

 

夕方の翳りが部屋に落ち、カーテン越しの薄明かりが室内をぼんやりと照らしている。

ソファもテーブルもいつも通り整っているのに、人の気配だけが薄い。

 

(到着する時間は伝えてある。留守のはずがないのに……)

 

眉を寄せて室内を見回す。

 

すぐ横の階段の下に目が行った。

みはりはそこにいた。

段差に寄りかかるようにして顔を膝に埋め、肩を小さく震わせていた。

 

まつりは一瞬、息を止めた。

 

 

 

「………みはりちゃん」

 

声をかけた瞬間、みはりがびくっと肩を震わせて顔を上げた。

こちらを見るその目が大きく見開かれ、涙で濡れた瞳がまつりを捉える。

 

「ママ……」

 

頰に涙の跡が残り、髪は乱れ、いつもの大人びた雰囲気はどこにもない。

 

まつりは静かに近づいて、みはりの隣にしゃがみ込んだ。

みはりの肩にそっと手を置き、優しく声をかける。

 

「みはりちゃん……ママ、帰ってきたよ。ごめんね、遅くなって……」

 

みはりは小さく首を振って、涙をこらえながら、

 

「ママ……お兄ちゃんが……」

 

まつりはみはりの顔をじっと見て、静かに頷いた。

 

「うん……いま、どんな状況なの?まひろくんは……今、どうしてる?」

 

みはりは膝を抱えたまま、震える声で、途切れ途切れに話し始めた。

 

「……お兄ちゃん……ご飯、ぜんぜん食べてくれないの……毎日ドアの前に置いてるけど、ほとんど手をつけてなくて……少し前までは、ドアの向こうで返事することもあったんだけど……今は……全然、反応がない……」

 

みはりの声が、かすかに詰まる。

 

「時々……物音はするんだけど……でも……わたしが呼んでも、開けてくれなくて……前の時よりも、ずっとひどい……ごはん、たべてくれないし、呼んでも答えてくれないし……もしかしてって思うと……この頃はもう……確かめるのも怖くなって……」

 

みはりは膝の間に顔を埋めたまま、ついに堪えきれなくなった。

堰が切れたように泣き出し、息が詰まってひきつるようにしゃくりあげた。

肩が大きく跳ねる。

 

まつりはみはりの肩を優しく抱き寄せて、背中をそっと撫でた。何度も。

 

乱れた髪を指先でそっと整え、頰に張りついた毛先だけを払う。

みはりが落ち着くまで、まつりは静かに寄り添い続けた。

 

 

「……わかった。みはりちゃん、ありがとう。一人で、ずっと心細かったね。ママ……二人の事、ちゃんと見てなかった。ごめんね……」

 

 

まつりはみはりの頭を撫でながら、視線だけを階段の上へ向けた。

 

「みはりちゃん……ママ、一度まひろくんの部屋に行ってみるわ。まひろくんは、いま起きてる?」

 

「……うん……最近は昼夜逆転しちゃってるけど、今の時間なら……まだ起きてると思う……」

 

まつりは小さく頷いて、みはりの肩を軽く叩いた。

 

「わかった。みはりちゃんはここで待っててね」

 

まつりは立ち上がり、階段をゆっくりと上がっていった。

足音が静かに響く。

まひろの部屋の前で足を止め、ドアを数回ノックした。

 

「まひろくん……ママよ。ママ、帰ってきたよ。開けてくれる?」

 

返事はない。

部屋の中からは、物音ひとつ聞こえてこない。

 

まつりはドアノブに手をかけ、ゆっくりと回してみた。

鍵はかかっていない。

 

まつりはドアをそっと開けた。

部屋の中は暗く、カーテンが閉め切られている。

長いあいだ換気していない空気が、重くよどんでいた。

 

わずかな隙間から差し込む夕方の薄明かりが、布団の膨らみをぼんやりと照らしている。

まひろは布団に包まったまま、息を潜めているようだった。

 

まつりは部屋の入口から、静かに呼びかけた。

 

「まひろくん……ママだよ。顔、見せてくれる?」

 

布団が、わずかに動いた。

でも、まひろは返事を返さない。

ただ、布団の小さな膨らみの端が小さく震えるだけ。

 

まつりは胸が締め付けられるような気がした。

 

(……こんなに……まひろくんが、こんなに小さく……女の子になったのは聞いていたけど……それにしても……これは……)

 

まつりは音を立てないようにドアを閉め、静かに部屋の外に出る。

そのまま階段を下り、みはりの待つリビングへ向かった。

 

みはりはまだ膝を抱えたまま、まつりの足音に顔を上げた。

まつりはみはりの隣に座り、静かに言った。

 

「まひろくん……まだ布団に潜ったままだった。顔も出してくれなかったけど……

でも、大丈夫。ちゃんと生きてる。ママ、見てきたから……」

 

みはりは小さく頷いた。

涙がまた溢れ出す。

 

まつりはみはりの顔を胸元に抱き寄せ、背中をゆっくり撫でた。

呼吸が落ち着くのを待ってから、そっと口を開く。

 

「……みはりちゃん、ママ、久しぶりに帰ってきたから……何か作ってあげるね。

お兄ちゃんにも持っていけるように、シチューでも作ろうか」

 

みはりはまつりの胸の中で、小さく頷いた。

涙がまだ頰を伝っているけど、

少しだけ肩の力が抜けたように見えた。

 

まつりはエプロンを探して身につけ、静かに調理を始めた。

玉ねぎを刻む音と、鍋から立つ湯気の気配が、静かな家の中にやわらかく広がっていく。

 

みはりはテーブルの席に座ったまま、ぼんやりとカウンターの向こうを見ていた。

見えるのは母の横顔と、忙しなく動く手先だけ。

 

(……ママって、こんなに小さかったっけ……)

 

昔は、とても大きく感じられて、そこにいるだけで安心感があった。

今は長旅の疲れだろうか、横顔に浮かぶ影が少し深く見えて、そのぶん胸が痛んだ。

 

 

……まつりもまた、鍋をかき混ぜながら、カウンター越しの視線を感じていた。

胸の奥にしまい込んでいたものが、不意に揺れて、痛みと後悔が鈍く渦を巻き始めていた。

 

やがてシチューができる。

まつりは一皿をみはりの前に置き、もう一皿を盆に乗せて二階へ上がった。

 

まひろの部屋の前で、まつりは静かに声をかける。

 

「まひろくん……ママだよ。シチュー、置いておくね」

 

返事はない。

 

まつりはドアをそっと開け、入り口の脇に盆を置いて、すぐに閉めた。

 

廊下に戻り、耳を澄ます。

しばらくして、スプーンが皿に触れる小さな音がした。

 

盆を回収すると、シチューは半分ほどなくなっていた。

 

 

 

みはりは湯気を見つめてから、スプーンをそっと唇に当てる。

 

熱さに一度ためらって、それでも口に含む。

玉ねぎの甘さとミルクのやわらかさが、舌の上でじんわりほどけていく。

 

(……おいしい……)

 

気づけば涙が落ちていた。拭っても、拭っても、また滲む。

それでも手は止まらず、みはりは黙々と食べ続けた。

こんなに食べられたのはいつぶりだろう。

 

皿が空になると、深く息を吐く。

体の中に、温かさだけが残っていた。

 

そのとき、二階からまつりが降りてくる足音がした。

みはりはびくっと顔を上げる。盆を持ったまつりが降りてくる。

 

まつりが隣の椅子に座り、小さく頷いた。

 

「まひろくん、半分くらい食べてくれたわ」

 

みはりの表情が、ぱっと明るくなる。

声は出せず、ただ何度も頷いた。

 

まつりはみはりの手を握り、優しく言った。

 

「みはりちゃん、ちゃんと寝られてないでしょう?ママも長旅で疲れてるし……

今日はもう早く休んで、明日ゆっくり話そう。ママ、ちゃんと聞くから」

 

みはりは小さく頷いた。

涙が頰を伝うけど、今度は少しだけ、安心したような涙だった。

 

「……うん……ママ……ありがとう……」

 

まつりはみはりの頭を優しく撫でて、立ち上がった。

 

「ママはもう少し片付けしてから寝るわ。みはりちゃんも、ちゃんとベッドで休んでね」

 

みはりも立ち上がり、短く頷いて自室へと向かった。

足取りはまだおぼつかない。

それでも、さっきよりほんの少しだけ、背中が軽く見える。

 

まつりはその背を見送りながら、胸の奥がきゅっと締まった。

 

小さい頃から、みはりは手のかからない子だった。

泣き言より先に「大丈夫」と笑って、いつも一歩引いた大人の顔をする。

 

なのに今は、手すりに指先をかける仕草ひとつが頼りなくて、年相応どころか、まるで幼子みたいに見えた。

 

まつりはリビングに残って、キッチンの後片付けをしながら、静かに息を吐いた。

 

(あの時も私は仕事で海外にいて、みはりちゃんに任せきりだった。ようやく帰国した時には、もうまひろくんの心は閉ざされていて……ううん、あの時だけじゃなく、最初から傍にいて寄り添えていれば、違う未来があったかもしれなかった。)

 

鍋を拭きながら、まつりは心の中で誓った。

 

(もう、言い訳はしない。母親の私が……あの子たちを、今度こそ、守らなきゃいけない)

 

(明日……ちゃんと話そう。みはりちゃんのことも、まひろくんのことも……このままじゃ、二人とも壊れてしまう)

 

 

 





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