おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
玄関のドアが開く音がした。
タクシーのエンジン音が遠ざかる中、緒山まつりはゆっくりと家の中へ足を踏み入れる。
少し埃っぽい空気と、懐かしい匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。
(……こんな匂いだっただろうか……)
懐かしいはずなのに、どこか他人の家のようだ。
そのよそよそしさが、仕事を言い訳にして、子どもたちを置き去りにしてきた時間の長さを、静かに突きつけた。
玄関で靴を脱ぎながら、スーツケースをそっと壁に立てかける。
家の中は妙に静かだった。
足音を殺すように、そのままリビングへと入る。
夕方の翳りが部屋に落ち、カーテン越しの薄明かりが室内をぼんやりと照らしている。
ソファもテーブルもいつも通り整っているのに、人の気配だけが薄い。
(到着する時間は伝えてある。留守のはずがないのに……)
眉を寄せて室内を見回す。
すぐ横の階段の下に目が行った。
みはりはそこにいた。
段差に寄りかかるようにして顔を膝に埋め、肩を小さく震わせていた。
まつりは一瞬、息を止めた。
「………みはりちゃん」
声をかけた瞬間、みはりがびくっと肩を震わせて顔を上げた。
こちらを見るその目が大きく見開かれ、涙で濡れた瞳がまつりを捉える。
「ママ……」
頰に涙の跡が残り、髪は乱れ、いつもの大人びた雰囲気はどこにもない。
まつりは静かに近づいて、みはりの隣にしゃがみ込んだ。
みはりの肩にそっと手を置き、優しく声をかける。
「みはりちゃん……ママ、帰ってきたよ。ごめんね、遅くなって……」
みはりは小さく首を振って、涙をこらえながら、
「ママ……お兄ちゃんが……」
まつりはみはりの顔をじっと見て、静かに頷いた。
「うん……いま、どんな状況なの?まひろくんは……今、どうしてる?」
みはりは膝を抱えたまま、震える声で、途切れ途切れに話し始めた。
「……お兄ちゃん……ご飯、ぜんぜん食べてくれないの……毎日ドアの前に置いてるけど、ほとんど手をつけてなくて……少し前までは、ドアの向こうで返事することもあったんだけど……今は……全然、反応がない……」
みはりの声が、かすかに詰まる。
「時々……物音はするんだけど……でも……わたしが呼んでも、開けてくれなくて……前の時よりも、ずっとひどい……ごはん、たべてくれないし、呼んでも答えてくれないし……もしかしてって思うと……この頃はもう……確かめるのも怖くなって……」
みはりは膝の間に顔を埋めたまま、ついに堪えきれなくなった。
堰が切れたように泣き出し、息が詰まってひきつるようにしゃくりあげた。
肩が大きく跳ねる。
まつりはみはりの肩を優しく抱き寄せて、背中をそっと撫でた。何度も。
乱れた髪を指先でそっと整え、頰に張りついた毛先だけを払う。
みはりが落ち着くまで、まつりは静かに寄り添い続けた。
「……わかった。みはりちゃん、ありがとう。一人で、ずっと心細かったね。ママ……二人の事、ちゃんと見てなかった。ごめんね……」
まつりはみはりの頭を撫でながら、視線だけを階段の上へ向けた。
「みはりちゃん……ママ、一度まひろくんの部屋に行ってみるわ。まひろくんは、いま起きてる?」
「……うん……最近は昼夜逆転しちゃってるけど、今の時間なら……まだ起きてると思う……」
まつりは小さく頷いて、みはりの肩を軽く叩いた。
「わかった。みはりちゃんはここで待っててね」
まつりは立ち上がり、階段をゆっくりと上がっていった。
足音が静かに響く。
まひろの部屋の前で足を止め、ドアを数回ノックした。
「まひろくん……ママよ。ママ、帰ってきたよ。開けてくれる?」
返事はない。
部屋の中からは、物音ひとつ聞こえてこない。
まつりはドアノブに手をかけ、ゆっくりと回してみた。
鍵はかかっていない。
まつりはドアをそっと開けた。
部屋の中は暗く、カーテンが閉め切られている。
長いあいだ換気していない空気が、重くよどんでいた。
わずかな隙間から差し込む夕方の薄明かりが、布団の膨らみをぼんやりと照らしている。
まひろは布団に包まったまま、息を潜めているようだった。
まつりは部屋の入口から、静かに呼びかけた。
「まひろくん……ママだよ。顔、見せてくれる?」
布団が、わずかに動いた。
でも、まひろは返事を返さない。
ただ、布団の小さな膨らみの端が小さく震えるだけ。
まつりは胸が締め付けられるような気がした。
(……こんなに……まひろくんが、こんなに小さく……女の子になったのは聞いていたけど……それにしても……これは……)
まつりは音を立てないようにドアを閉め、静かに部屋の外に出る。
そのまま階段を下り、みはりの待つリビングへ向かった。
みはりはまだ膝を抱えたまま、まつりの足音に顔を上げた。
まつりはみはりの隣に座り、静かに言った。
「まひろくん……まだ布団に潜ったままだった。顔も出してくれなかったけど……
でも、大丈夫。ちゃんと生きてる。ママ、見てきたから……」
みはりは小さく頷いた。
涙がまた溢れ出す。
まつりはみはりの顔を胸元に抱き寄せ、背中をゆっくり撫でた。
呼吸が落ち着くのを待ってから、そっと口を開く。
「……みはりちゃん、ママ、久しぶりに帰ってきたから……何か作ってあげるね。
お兄ちゃんにも持っていけるように、シチューでも作ろうか」
みはりはまつりの胸の中で、小さく頷いた。
涙がまだ頰を伝っているけど、
少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
まつりはエプロンを探して身につけ、静かに調理を始めた。
玉ねぎを刻む音と、鍋から立つ湯気の気配が、静かな家の中にやわらかく広がっていく。
みはりはテーブルの席に座ったまま、ぼんやりとカウンターの向こうを見ていた。
見えるのは母の横顔と、忙しなく動く手先だけ。
(……ママって、こんなに小さかったっけ……)
昔は、とても大きく感じられて、そこにいるだけで安心感があった。
今は長旅の疲れだろうか、横顔に浮かぶ影が少し深く見えて、そのぶん胸が痛んだ。
……まつりもまた、鍋をかき混ぜながら、カウンター越しの視線を感じていた。
胸の奥にしまい込んでいたものが、不意に揺れて、痛みと後悔が鈍く渦を巻き始めていた。
やがてシチューができる。
まつりは一皿をみはりの前に置き、もう一皿を盆に乗せて二階へ上がった。
まひろの部屋の前で、まつりは静かに声をかける。
「まひろくん……ママだよ。シチュー、置いておくね」
返事はない。
まつりはドアをそっと開け、入り口の脇に盆を置いて、すぐに閉めた。
廊下に戻り、耳を澄ます。
しばらくして、スプーンが皿に触れる小さな音がした。
盆を回収すると、シチューは半分ほどなくなっていた。
みはりは湯気を見つめてから、スプーンをそっと唇に当てる。
熱さに一度ためらって、それでも口に含む。
玉ねぎの甘さとミルクのやわらかさが、舌の上でじんわりほどけていく。
(……おいしい……)
気づけば涙が落ちていた。拭っても、拭っても、また滲む。
それでも手は止まらず、みはりは黙々と食べ続けた。
こんなに食べられたのはいつぶりだろう。
皿が空になると、深く息を吐く。
体の中に、温かさだけが残っていた。
そのとき、二階からまつりが降りてくる足音がした。
みはりはびくっと顔を上げる。盆を持ったまつりが降りてくる。
まつりが隣の椅子に座り、小さく頷いた。
「まひろくん、半分くらい食べてくれたわ」
みはりの表情が、ぱっと明るくなる。
声は出せず、ただ何度も頷いた。
まつりはみはりの手を握り、優しく言った。
「みはりちゃん、ちゃんと寝られてないでしょう?ママも長旅で疲れてるし……
今日はもう早く休んで、明日ゆっくり話そう。ママ、ちゃんと聞くから」
みはりは小さく頷いた。
涙が頰を伝うけど、今度は少しだけ、安心したような涙だった。
「……うん……ママ……ありがとう……」
まつりはみはりの頭を優しく撫でて、立ち上がった。
「ママはもう少し片付けしてから寝るわ。みはりちゃんも、ちゃんとベッドで休んでね」
みはりも立ち上がり、短く頷いて自室へと向かった。
足取りはまだおぼつかない。
それでも、さっきよりほんの少しだけ、背中が軽く見える。
まつりはその背を見送りながら、胸の奥がきゅっと締まった。
小さい頃から、みはりは手のかからない子だった。
泣き言より先に「大丈夫」と笑って、いつも一歩引いた大人の顔をする。
なのに今は、手すりに指先をかける仕草ひとつが頼りなくて、年相応どころか、まるで幼子みたいに見えた。
まつりはリビングに残って、キッチンの後片付けをしながら、静かに息を吐いた。
(あの時も私は仕事で海外にいて、みはりちゃんに任せきりだった。ようやく帰国した時には、もうまひろくんの心は閉ざされていて……ううん、あの時だけじゃなく、最初から傍にいて寄り添えていれば、違う未来があったかもしれなかった。)
鍋を拭きながら、まつりは心の中で誓った。
(もう、言い訳はしない。母親の私が……あの子たちを、今度こそ、守らなきゃいけない)
(明日……ちゃんと話そう。みはりちゃんのことも、まひろくんのことも……このままじゃ、二人とも壊れてしまう)