おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
まつりの脳裏に、過去の光景がよみがえる。
その日、娘の通う中学校に呼ばれた私は、職員室奥の来客用テーブルに通された。
正面に校長、その隣に教頭。
少し斜めの位置に学年主任、そして担任の先生が控えめに腰掛けている。
校長が口を開く。
「本日はお時間いただいてありがとうございます。ええと……みはりさんの件で―」
手元の紙の束を、すっと前に出した。
「あれからも、ひっきりなしにお話が来ています。研究の評価がかなり高いようで……」
あの頃、みはりちゃんは、自身の優秀さをいかんなく発揮していた。
いくつかの論文は海の向こうにまで届き、評価の連絡が戻ってくるようになった。
飛び級の検討は相談ではなく、すでに手続きの段階に進もうとしていた。
学年主任が続ける。
「向こうの受け入れ体制はかなり手厚い、と聞いています。こちらに届いている資料を見る限り、環境は相当整っているようです。先方の担当の方からも、支援は万全だと説明がありました」
校長が、私の反応を確かめるように言った。
「学校としては、そのような機会があるのなら、ぜひ挑戦すべきではないか、という考えです。――ただ」
「周囲が強引に押し進めるのは、避けたいと考えております。みはりさんと、お母さまのご意向もお伺いしながら、最終的にどうされるか――確認させていただきたいのです。ご家庭でのお話し合いはいかがですか?」
私は一瞬、言葉を探した。
「留学できるのなら、そのほうが良いと思っています。ただ、本人が難色を示していて……」
校長は、うん、と小さく頷いた。
「分かりました。では学校としても、最終的にはご家庭と本人の判断を尊重いたします」
話がひととおり終わって、校長と教頭、学年主任が席を立つ。
残ったのは、担任の先生と私だけだった。
先生は一度、机の上の書類を揃えて――目を伏せてから、静かに切り出した。
「……すみません。ここから先は、学校として…というより、真尋くんの担任だった教師として、少しだけお話したいことが……」
みはりちゃんの担任は、偶然にも真尋くんの時も受け持ってくれた先生だった。
面倒見のいいタイプの先生で、真尋くんの頃から変わらず信頼している。
「付属ですので、高校の様子が、どうしても耳に入ることがありまして……」
「真尋くん、最近クラスで少し孤立気味だそうで……。もちろん、いじめというわけではないと聞いています。ただ、ちょっとした“いじり”や軽口はあるようで、真尋くん自身もそれを気にしてしまって……その悪循環で、周りが距離を取りはじめているようです。」
「……そのことを、娘は知っているのでしょうか?」
「校内でも噂は広がっていますし……おそらく、みはりさんも知ってしまっていると思います」
先生は一度、言葉を切った。
「今後、飛び級での大学進学となれば……状況が、さらに難しくなる可能性もあります。差し出がましいとは思いますが……ご家庭でも、みはりさんと一緒に、真尋くんの様子を気にしてあげてください。お願いします」
思えば、あの時から違和感はあった。
私は当初、兄のそんな現状を知ってしまったら、あの子の性格からして、萎縮して才能を隠す方向に行ってしまうのではないか……と考えていた。
だが実際は逆で、彼女は殊更に自分の能力を、外の大人たちに見せつけていった。
それでいて、さらに飛躍することが約束される、海外留学には頑なに拒否感を示す……。
そのちぐはぐな振る舞いが、どうしても私の中に拭いきれない疑念を生み、
心の奥で、ずっとくすぶり続けていた。
そして今日――彼女の言葉の奥底に、別の感情が棲んでいるのを私は感じた。
――私は、ずっと見ないふりをしてきたのかも知れない。
だから今度こそ、確かめなければならない。
「……みはりちゃん。最初に言ったよね。誤魔化さないで答えてほしいの……お兄ちゃんが壊れた理由を。……みはりちゃんが、何を望んでいたのかを……どうか、本当のことを教えて」
沈黙が落ちる。
みはりは、ゆっくり息を吐いた。
そして、こちらを見ないまま言う。
「……ママは私に、何を聞きたいの?」
言葉は丁寧だが、声が冷たい。
試すようでもあり、こちらを見透かすようでもある。
「……あなたの進学前、お兄ちゃんが学校で孤立しているって話は聞いていたの。あなたの才能は本物よ。だから、あなたの輝きが、どうしても周りの視線を集める……その結果、お兄ちゃんが遠巻きにされることも、分かっていたんじゃない?」
「責めてるんじゃないの……でも、ただ、理由が知りたい。
……みはりちゃんの本心を、聞かせて」
まつりは核心の言葉を避けた。
ただ――みはりなら、この問いが何を指しているか、もう気づいているはずだ。
「そう……ママも知っていたんだね……そうだね、本当は気付いてたよ。
最初は……ほんとに苦しかった……。
私のせいで、お兄ちゃんが一人になってるって分かった時……胸が、ぎゅってなって……」
「……みんなが私を見るようになったの。
クラスメイトも、先生も、知らない大人たちも、みんな……
でも、一番見てほしかったお兄ちゃんは、私を全然見なくなって……」
「……なにこれって思ったよ」
「私、あんなの望んでなかった。
お兄ちゃんだけに褒められたかったの。……お兄ちゃんだけでよかった」
「だから、私が守らなきゃって思った。――――私だけは、お兄ちゃんを傷つけない。私だけが、お兄ちゃんの味方でいられる。私だけが、お兄ちゃんのそばにいればいい。そんなふうに、思ってしまった」
「それに気づいた瞬間、怖くなって……だから私は、もっともっと頑張った。褒められたいのと同じくらい、――お兄ちゃんを、遠くに行かせたくなかったから」
苦しいと言いながら、その声は奇妙に落ち着いていた。
みはりは、ゆっくりと顔を上げた。
表情は無表情で、どこか焦点が合っていない。
彼女は淡々と、感情の起伏をほとんど感じさせない声で言う。
「お兄ちゃんは、わたしがいないとダメ。
でも……わたしも、お兄ちゃんがいないと……生きていけない。
ママ……これって愛だよね?心配してるだけだよね?
なのに、胸が苦しいの……これは、本当のわたしじゃない……でも、止められない」
「お兄ちゃんに幸せになってほしいって、心の底から思っているの。でも……
その幸せの中に、私がいなかったらと思うと……耐えられない」
みはりの肩が、ほんの少しだけ震えた。
「だから、私は……」
言いかけて、飲み込む。代わりに、喉の奥から掠れた声が漏れた。
「褒めてほしかった。お兄ちゃんを守りたかった。……たとえ閉じ込めてでも」
「それで……お兄ちゃんを女の子にしたの?……みはりちゃん、それは“守る”ことじゃなくて……
相手の人生を、奪ってしまうやり方よ。あなたにはあなたの人生が、お兄ちゃんにはお兄ちゃんの人生があるのよ」
(このまま二人きりで、この家に置いておくのは、もう無理だ。いったん離さなければ――)
そう思った、その時だった。
まるで私の胸の内を読んだみたいに、みはりの目が、すっと細まる。
「……今になって、お兄ちゃんを私から奪うつもり? そんなこと、私が許すと思う?」
無表情のまま、みはりは私を見ていた。
瞳孔の開いた眼は、瞬きひとつない。
そこにあるのは、底の知れない執着と、奇妙な平坦さ。
視線は私を通り抜けて、ずっと遠くの一点に縫い留められていた。
「ママ……私、“怪物”だったみたい。……でも、ちょっと安心したでしょう?」
「……っ」
「自分が逃げた罪を、私に背負わせられるから」
みはりの唇が、ゆっくりと弧を描く。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも薄く、ただの筋のように見えた。
瞳は潤んでいるのに、涙は一滴も落ちない。
「ママは、ずっと見て見ぬふりをしてきたんでしょう?お兄ちゃんが壊れていくのを……
私のせいだって、気が付いていたのに……でも、仕事が大事だった。クライアントが大事だった。
それでいいって、自分に言い聞かせてたんでしょう?」
「大丈夫よ、ママ。私、許すから。だって、私も……同じだから」
みはりは、ゆっくりと立ち上がり、そっと私の頰に触れる。
指先は冷たく、頰の熱が一瞬で奪われる。
ぞくりと、肌が粟立った。
「私も、見て見ぬふりをしてきたもの。お兄ちゃんが苦しんでるのを……私のせいだって、分かっていたのに……でも、お兄ちゃんがわたしだけを必要としてくれるなら、それでいいって……私も思ってしまったから……」
指が、ゆっくりと私の頰を撫でる。
優しく、
愛おしげに。
「だから……ママも、私と同じよね? 都合の悪いことには蓋をして、楽になりたかったんでしょう?」
私は、反射的にその手を払いのけた。
「違う……!」
声が震えた。
自分でも驚くほど、大きく。
みはりは、払われた手をじっと見つめて、
ゆっくりと微笑んだ。
「違う……? 何が違うの? だって結局、ママはまた私を置いていくんでしょう? お兄ちゃんは病院かどこかに預けて、自分は仕事に戻って、『私は頑張ってる』って、また言い訳するの?」
私はテーブルに手をついた。
膝が震える。
――声が、出ない。
「ママは、私に何を望んでいるの?お兄ちゃんを、私から解放してほしい?
それとも、私を罰したい?それとも……ただ、自分の罪悪感を忘れたいだけ?」
彼女の声は、変わらず穏やかだ。
でも、その穏やかさが、今はやりきれないほどに痛い。
私は、答えられなかった。
みはりは、ゆっくりとこちらを見て、唇の端をわずかに吊り上げた。
「……ママ、私、知ってるよ。ママが一番怖いのは、私が“怪物”なだけじゃなくて……
ママ自身が“怪物”だってことだよね」
その言葉が、私の胸を、音もなく貫いた。
みはりは、ゆっくりと微笑んだ。
「結局……私とママは同じなんだよ……」
その瞬間、私は、反射的に立ち上がっていた。
膝が震えて、テーブルに手をつく。
指先が白くなるほど力を込めて、声が、勝手に喉から飛び出した。
「違う!同じなんかじゃない!……確かに……私は逃げた。仕事に逃げて、あなたたちから目を逸らした。最低だった。
でも――だからって、あなたまで怪物にしないで!あなたは……そんな子じゃない! そんな風に自分を貶めないで!」
「あなたは……私の娘なんだから!優しくて、賢くて、頑張り屋さんで……
ママの大切な、大切な子なんだから……!」
みはりは、瞬きもせず固まった
平坦だった表情が、ほんの一瞬だけ割れる。
凍った水面にひびが入ったみたいに、その奥の顔がのぞいた。
まつりの声が震える。息が詰まり、言葉が途切れそうになるのを無理やり繋いだ。
「だからこそ、もう……これ以上はだめ!」
――その時、階段がきしんだ。
誰かが、一段だけ踏み外しかけたみたいな、しかし軽い足音。
まつりは息を止めた。
みはりも、言葉を失ったように沈黙した。
リビングの入口に、影が落ちていた。
「……もう、やめ…て…」
久しぶりに聞く声はひどくかすれていた。それでも、間違えようがない。
泣き出しそうなほど弱々しく――だから余計に、胸が締めつけられた。
みはりが息を呑む。
「お兄ちゃん……いまの、聞いて……?」
まひろは答えない。
ただ、ふらふらと二人の間へ歩み寄ってきた。
随分やせてしまった体は、今にも倒れそうに揺れている。
弱々しく微笑んで、掠れた声で、軽く自嘲するように言った。
「みはり……オレ、……自分の、兄貴を……玩具にしてたのか……?」
言葉は途切れ途切れで、怒りではなく、どこか自分をからかうような、寂しげな響き。
みはりは、目を見開いたまま固まった。
涙が、ぽろりと落ちる。
「……違う……違うの……お兄ちゃん、私はただ……」
次の言葉が出ない。
まひろの視線が、みはりの顔から私へ移り、すぐ床に落ちる。
唇がわずかに動くが、声は出ない。
もう一度、みはりを見る。
視線が頰の涙をなぞって、揺れる。
伸ばしかけた手が、みはりの肩の手前で止まる。
指が一度、握られて、ほどける。
まひろが小さく後ずさった。
「……お兄、ちゃん……」
縋りつこうとしたみはりの足が、半歩、前に出る。
同時に、まひろの体がふらりと揺れた。
立っているだけで限界だったみたいに、膝から力が抜ける。
「――っ」
みはりが、とっさに支えようとして足をもつれさせる。
背後のテーブルの角へ、体が流れる。
ぶつかる――そう思った刹那、まひろの腕が反射的に動いた。
迷っていた手が、今度は迷わない。
乱暴なほど強く、みはりを抱きとめる。
――その瞬間、鈍い音がした。
まひろの頭が、テーブルの硬い縁に当たった。
「……っ!」
私の声は喉の奥で潰れた。
足が動かない。視界が揺れる。
もつれた拍子に、みはりの髪がほどけた。
留めていたヘアピンが弾かれるように飛び、視界の外へ消える。
二人はそのまま床へ崩れ落ちた。
みはりはまひろの胸の上で息を呑み、慌てて顔を上げる。
「……お兄ちゃん?」
返事はない。
遅れて、床のどこかで、からん、と小さく音が鳴った。
それがヘアピンの音だと気づいたとき、その乾いた響きだけが耳の奥に残った。