おにまい曇らせ(仮)   作:Unus negotiator

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第9話 予感

救急外来に運び込まれてから、既に数時間が経っていた。

 

まつりはベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろし、まひろの横顔を見ていた。

弱々しい呼吸が、シーツをわずかに上下させている。

 

顔色は青白く、頰がこけ、額には打撲の跡が、薄い青あざとなって残っている。

鎖骨が浮き出るほどやせ細った姿から、まつりは目を逸らせなかった。

 

——この子は、こんな身体になるまで、どれだけ苦しんでいたのだろう。

 

「……ごめんね」

 

口に出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 

仕切りの向こうで足音が止まり、医師が入ってきた。

 

「CTでは、出血や骨折は見当たりませんでした。そこはひとまず安心してください」

 

まつりの肩から、わずかに力が抜けた。

 

「ただ、脱水と栄養失調で血圧がかなり低く、体温も下がっています。失神して転倒し、脳震盪も伴ったと見ています」

 

「……命に関わるようなことは?」

 

「現時点では、生命にかかわる所見はありません。ただ、体が極端に弱っていますので……」

「点滴で水分と電解質、ブドウ糖を補給しています。本日から数日、入院で様子を見ます」

 

医師は一拍置いて、声を落とした。

 

「搬送時の情報では、引きこもり状態が続いていたとのことでしたが……」

「意識が戻って話ができるようになったら、状況を確認します。必要なら心療内科や精神科とも連携します」

 

医師はカルテを閉じ、軽く頭を下げた。

 

「今はとにかく安静に。変化があればすぐ看護師を呼んでください」

 

カーテンが引かれ、足音が遠ざかった。

みはりとのチャット画面を開き、検査結果と入院になることだけを、短いメッセージで送った。

送信の表示が消えた。まつりの視線はベッドに戻る。

 

——鈍い音の記憶が、悪夢のような瞬間を呼び戻す。

 

 

「お兄ちゃん……? お兄ちゃん!?」

 

みはりが膝をついて、まひろの喉元に指を当て、脈を探す。指先が震えている。

頬に掌を当て、顔を近づけた。

 

「……息は…してる……」

 

「ママ、救急車をお願い」

 

ハッとして、まつりはスマートフォンを掴んだ。

指が震えて、番号がうまく押せない。

 

「119番です。救急ですか、火事ですか—————住所を————」

 

電話越しの質問に答えながら、まつりは毛布を出して、身体がこれ以上冷えないように掛けた。

薄い布越しでも、骨ばった輪郭が分かる。

 

やがて救急車のサイレンが近づき、家の前で音が途切れた。

続けて、玄関先に靴音が駆け込んでくる。短い指示が飛び交った。

 

「聞こえますか。目を開けられますか」

 

隊員の声が、まひろの顔のすぐ近くで響く。

もう一人の隊員が、まつりの方へ向き直った。

 

「倒れた状況を教えてください。どこかを打ちました?」

 

「テーブルで額を打って……そのまま床に……」

 

「わかりました。搬送します」

 

ストレッチャーが入ってきて、身体が持ち上げられる。

ベルトで固定され、そのまま家の外へ運び出された。

 

「ご家族の同乗は、お一人だけです。こちらはお母様ですか?」

 

「はい、この子の母です」

 

「それでは、お母様が同乗されますね。こちらへどうぞ」

 

隊員が車内を指し示す。

 

「揺れますので、席に座ったらシートベルトをお願いします」

 

まつりが頷き、足を動かそうとした、そのとき――

 

みはりがまひろの腕に手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。

まつりの顔を見て、言いかけた言葉を飲み込む。

 

「……ママ、行って」

 

声は擦れたように小さく、堪えるように言った。

まつりが頷く間にも、みはりは視線をまひろから外さない。

 

扉が閉まる。

赤色灯の光が壁を走り、サイレンが鳴り始めた。

車体が小さく揺れて、救急車が動き出す。

 

点滴のチューブが小刻みに震え、まひろの頭も揺れに合わせて少しだけ振れる。

額の青い痣が視界に入り、気づけば涙が頬を伝っていた。

 

 

————

 

まつりは顔を上げる。

救急外来の白い天井がある。外の忙しさが嘘みたいに、カーテンの内側は静かだった。

まひろは浅く呼吸を続けている。頬に、少しだけ血の気が戻っているように見える。

 

今日は遅くなる前に、一度帰らなければならないだろう。

みはりのことも気がかりだ。一人にしてはおけない。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

放課後、かえでは緒山家の玄関前に立っていた。

 

先ほどから、チャイムを鳴らしているが反応がない。

今度はドアをノックし声をかけるが、少し待ってみても返事はなかった。

 

ドアノブに手をかけ、そっと回すと抵抗なく動く。

鍵がかかっていない。

 

かえでは一瞬だけ迷って、それでもドアをそっと開けた。

 

「……みはり? いる?」

 

声は家の中に吸い込まれて、返ってこない。

玄関には散らかったままの靴と、廊下にはスーツケースが放り出されたみたいに、斜めに転がっている。

 

 

——変だ。

 

普通なら出直すところだろう。

友人宅とはいえ、勝手に上がり込むべきじゃない。

 

それでも、かえでの胸の奥で、ずっと警鐘が鳴り続けていた。

嫌な予感が、消えない。

 

おそらく、この家で何かがあった。

確かめないまま、帰れる気がしなかった。

 

かえでは靴を揃える余裕もなく、玄関に足を踏み入れる。

 

「……みはり?」

 

もう一度呼んでみるが、やはり返事はない。

 

廊下を抜けてリビングのドアを開ける。

照明のついていない室内は薄暗く、人の気配はない。

冷蔵庫の低い音と、どこかで時計の刻む音だけが聞こえる。

 

いつもは整然としているダイニングスペースが、不自然に乱れているのが見えた。

椅子もテーブルも斜めにずれたままだ。

床には毛布が一枚、広げかけたまま残っていた。

 

……明らかにおかしい。

 

みはりは、どこかへ出かけたのかもしれない、でもまひろちゃんは?

この一か月、ずっと部屋に閉じこもっていたのに、急に外へ出るとは思えない。

 

それなのに玄関の鍵は開いたまま……。

——もし家に一人なら、なおさらあり得ない。

 

何がどうなっているのか、考えが追いつかない。

かえでは息を吸い、考えをまとめようとする。

 

——と、その時、二階で小さな物音がした気がした。

 

足音を殺すように階段を上る、いつの間にか呼吸まで小さくなっていく。

二階へ上がると、まひろちゃんの部屋のドアが、半開きになっていた。

 

かえでは足を止め、息を潜める。

そっと中を覗き込むと、こちらに背を向けたまま、布団の前でしゃがみ込む人影が見えた。

みはりだった。手に持った何かを、じっと見つめている。

 

「……みはり、大丈夫?」

 

恐る恐る声をかけると、みはりの肩が一瞬ぴくりと震えた。

背中を向けたまま、迷うみたいに肩が揺れる。

それから、ゆっくりと振り返った。

 

部屋着のまま、髪は下ろしっぱなしで乱れている。

目の周りが赤く腫れていた。

かえでは言葉が出なかった。こんなみはりは見たことがない。

 

「……かえで、来てくれたんだね。ごめんね、心配かけて」

 

声に力がない。

視線はかえでに向いているのに、どこか焦点が合っていない。

 

「みはり、いったいどうしたの? なにがあったの? まひろちゃんは!?」

 

思わず声が跳ね上がる。

 

「……まひろちゃんは……入院することになったの」

 

「入院!?どういうこと?まひろちゃん、大丈夫なの!?」

 

みはりは一度、口を開きかけて閉じた。

手の中の小さな何かを握り直す。握った手の指先が白い。

 

「……倒れたの。今日……」

「頭も打ってて……救急車で……」

 

言葉が途切れ、目線が床に落ちる。

かえでは息を呑んだ。

 

「……今、病院には誰が付いてるの?」

 

「ママが……病院に」

「夜に、一度帰ってくるって……」

 

「……みはり、あんた一人でここにいたの?」

「鍵、開いてたよ。玄関も……」

 

「……ごめん」

 

それだけ言って、また黙る。

 

「謝って欲しいんじゃないよ。——何があったのか教えて」

 

なるべく優しく言ったつもりだったが、つい口調が硬くなる。

 

「私……ずっと、まひろちゃんに……許されないことをしてたの」

「ママにも、ひどい事を言っちゃった」

 

“許されないこと”なんて、みはりとまひろちゃんの間にあるとは思えない。

みはりのママは海外での仕事が長く、私も顔を合わせたのは数えるほどだ。

けれど、みはりが母親のことを悪く言うのを聞いたことがない。

 

だからこそ腑に落ちず、わざと軽い調子で返した。

 

「ケンカでもしたの?明日病院に行って、謝ったら良いよ」

 

「……私、行ったら……だめな気がして……

 まひろちゃんに……会う資格なんてないの……」

 

かえでは膝を折って、みはりと目線を合わせた。

 

「なに言ってるんだか。家族に会うのに資格なんているはずないでしょ」

「でも、そうね。病院には明日でも行けるし、今日はおいしいものでも食べて、

早めに休もうか。ちなみに私も泊まるからね」

 

「……えっ……」

 

「なんか予感がしてね。じゃーん、お泊りセット持ってきちゃった」

 

 

 

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