おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
救急外来に運び込まれてから、既に数時間が経っていた。
まつりはベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろし、まひろの横顔を見ていた。
弱々しい呼吸が、シーツをわずかに上下させている。
顔色は青白く、頰がこけ、額には打撲の跡が、薄い青あざとなって残っている。
鎖骨が浮き出るほどやせ細った姿から、まつりは目を逸らせなかった。
——この子は、こんな身体になるまで、どれだけ苦しんでいたのだろう。
「……ごめんね」
口に出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
仕切りの向こうで足音が止まり、医師が入ってきた。
「CTでは、出血や骨折は見当たりませんでした。そこはひとまず安心してください」
まつりの肩から、わずかに力が抜けた。
「ただ、脱水と栄養失調で血圧がかなり低く、体温も下がっています。失神して転倒し、脳震盪も伴ったと見ています」
「……命に関わるようなことは?」
「現時点では、生命にかかわる所見はありません。ただ、体が極端に弱っていますので……」
「点滴で水分と電解質、ブドウ糖を補給しています。本日から数日、入院で様子を見ます」
医師は一拍置いて、声を落とした。
「搬送時の情報では、引きこもり状態が続いていたとのことでしたが……」
「意識が戻って話ができるようになったら、状況を確認します。必要なら心療内科や精神科とも連携します」
医師はカルテを閉じ、軽く頭を下げた。
「今はとにかく安静に。変化があればすぐ看護師を呼んでください」
カーテンが引かれ、足音が遠ざかった。
みはりとのチャット画面を開き、検査結果と入院になることだけを、短いメッセージで送った。
送信の表示が消えた。まつりの視線はベッドに戻る。
——鈍い音の記憶が、悪夢のような瞬間を呼び戻す。
「お兄ちゃん……? お兄ちゃん!?」
みはりが膝をついて、まひろの喉元に指を当て、脈を探す。指先が震えている。
頬に掌を当て、顔を近づけた。
「……息は…してる……」
「ママ、救急車をお願い」
ハッとして、まつりはスマートフォンを掴んだ。
指が震えて、番号がうまく押せない。
「119番です。救急ですか、火事ですか—————住所を————」
電話越しの質問に答えながら、まつりは毛布を出して、身体がこれ以上冷えないように掛けた。
薄い布越しでも、骨ばった輪郭が分かる。
やがて救急車のサイレンが近づき、家の前で音が途切れた。
続けて、玄関先に靴音が駆け込んでくる。短い指示が飛び交った。
「聞こえますか。目を開けられますか」
隊員の声が、まひろの顔のすぐ近くで響く。
もう一人の隊員が、まつりの方へ向き直った。
「倒れた状況を教えてください。どこかを打ちました?」
「テーブルで額を打って……そのまま床に……」
「わかりました。搬送します」
ストレッチャーが入ってきて、身体が持ち上げられる。
ベルトで固定され、そのまま家の外へ運び出された。
「ご家族の同乗は、お一人だけです。こちらはお母様ですか?」
「はい、この子の母です」
「それでは、お母様が同乗されますね。こちらへどうぞ」
隊員が車内を指し示す。
「揺れますので、席に座ったらシートベルトをお願いします」
まつりが頷き、足を動かそうとした、そのとき――
みはりがまひろの腕に手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。
まつりの顔を見て、言いかけた言葉を飲み込む。
「……ママ、行って」
声は擦れたように小さく、堪えるように言った。
まつりが頷く間にも、みはりは視線をまひろから外さない。
扉が閉まる。
赤色灯の光が壁を走り、サイレンが鳴り始めた。
車体が小さく揺れて、救急車が動き出す。
点滴のチューブが小刻みに震え、まひろの頭も揺れに合わせて少しだけ振れる。
額の青い痣が視界に入り、気づけば涙が頬を伝っていた。
————
まつりは顔を上げる。
救急外来の白い天井がある。外の忙しさが嘘みたいに、カーテンの内側は静かだった。
まひろは浅く呼吸を続けている。頬に、少しだけ血の気が戻っているように見える。
今日は遅くなる前に、一度帰らなければならないだろう。
みはりのことも気がかりだ。一人にしてはおけない。
◇◆◇◆◇◆◇
放課後、かえでは緒山家の玄関前に立っていた。
先ほどから、チャイムを鳴らしているが反応がない。
今度はドアをノックし声をかけるが、少し待ってみても返事はなかった。
ドアノブに手をかけ、そっと回すと抵抗なく動く。
鍵がかかっていない。
かえでは一瞬だけ迷って、それでもドアをそっと開けた。
「……みはり? いる?」
声は家の中に吸い込まれて、返ってこない。
玄関には散らかったままの靴と、廊下にはスーツケースが放り出されたみたいに、斜めに転がっている。
——変だ。
普通なら出直すところだろう。
友人宅とはいえ、勝手に上がり込むべきじゃない。
それでも、かえでの胸の奥で、ずっと警鐘が鳴り続けていた。
嫌な予感が、消えない。
おそらく、この家で何かがあった。
確かめないまま、帰れる気がしなかった。
かえでは靴を揃える余裕もなく、玄関に足を踏み入れる。
「……みはり?」
もう一度呼んでみるが、やはり返事はない。
廊下を抜けてリビングのドアを開ける。
照明のついていない室内は薄暗く、人の気配はない。
冷蔵庫の低い音と、どこかで時計の刻む音だけが聞こえる。
いつもは整然としているダイニングスペースが、不自然に乱れているのが見えた。
椅子もテーブルも斜めにずれたままだ。
床には毛布が一枚、広げかけたまま残っていた。
……明らかにおかしい。
みはりは、どこかへ出かけたのかもしれない、でもまひろちゃんは?
この一か月、ずっと部屋に閉じこもっていたのに、急に外へ出るとは思えない。
それなのに玄関の鍵は開いたまま……。
——もし家に一人なら、なおさらあり得ない。
何がどうなっているのか、考えが追いつかない。
かえでは息を吸い、考えをまとめようとする。
——と、その時、二階で小さな物音がした気がした。
足音を殺すように階段を上る、いつの間にか呼吸まで小さくなっていく。
二階へ上がると、まひろちゃんの部屋のドアが、半開きになっていた。
かえでは足を止め、息を潜める。
そっと中を覗き込むと、こちらに背を向けたまま、布団の前でしゃがみ込む人影が見えた。
みはりだった。手に持った何かを、じっと見つめている。
「……みはり、大丈夫?」
恐る恐る声をかけると、みはりの肩が一瞬ぴくりと震えた。
背中を向けたまま、迷うみたいに肩が揺れる。
それから、ゆっくりと振り返った。
部屋着のまま、髪は下ろしっぱなしで乱れている。
目の周りが赤く腫れていた。
かえでは言葉が出なかった。こんなみはりは見たことがない。
「……かえで、来てくれたんだね。ごめんね、心配かけて」
声に力がない。
視線はかえでに向いているのに、どこか焦点が合っていない。
「みはり、いったいどうしたの? なにがあったの? まひろちゃんは!?」
思わず声が跳ね上がる。
「……まひろちゃんは……入院することになったの」
「入院!?どういうこと?まひろちゃん、大丈夫なの!?」
みはりは一度、口を開きかけて閉じた。
手の中の小さな何かを握り直す。握った手の指先が白い。
「……倒れたの。今日……」
「頭も打ってて……救急車で……」
言葉が途切れ、目線が床に落ちる。
かえでは息を呑んだ。
「……今、病院には誰が付いてるの?」
「ママが……病院に」
「夜に、一度帰ってくるって……」
「……みはり、あんた一人でここにいたの?」
「鍵、開いてたよ。玄関も……」
「……ごめん」
それだけ言って、また黙る。
「謝って欲しいんじゃないよ。——何があったのか教えて」
なるべく優しく言ったつもりだったが、つい口調が硬くなる。
「私……ずっと、まひろちゃんに……許されないことをしてたの」
「ママにも、ひどい事を言っちゃった」
“許されないこと”なんて、みはりとまひろちゃんの間にあるとは思えない。
みはりのママは海外での仕事が長く、私も顔を合わせたのは数えるほどだ。
けれど、みはりが母親のことを悪く言うのを聞いたことがない。
だからこそ腑に落ちず、わざと軽い調子で返した。
「ケンカでもしたの?明日病院に行って、謝ったら良いよ」
「……私、行ったら……だめな気がして……
まひろちゃんに……会う資格なんてないの……」
かえでは膝を折って、みはりと目線を合わせた。
「なに言ってるんだか。家族に会うのに資格なんているはずないでしょ」
「でも、そうね。病院には明日でも行けるし、今日はおいしいものでも食べて、
早めに休もうか。ちなみに私も泊まるからね」
「……えっ……」
「なんか予感がしてね。じゃーん、お泊りセット持ってきちゃった」