アビドス高等学校、対策委員会
そこには今、かつてないほど「賑やかな日常」が戻っていた
砂漠を駆ける二人のシロコと、耳をピコピコと動かす二人のセリカ。奇跡のような巡り合わせを経て、異世界の凄惨な戦いを生き延びた「クロコ」と、深い傷跡を抱えた「セリカテラー」。二人の帰還兵のような少女たちは先生と仲間たちの支えを受けて少しずつこの眩しいほどの日だまりに馴染み始めていた
しかし、その穏やかな日々の中にたった一つだけ不自然な「綻び」があった
それは毎日決まった時間に必ず起きる
「あ、ちょっと用事を思い出したわ……! ごめん、私抜きで行ってきて!」
昼休みの部室あるいは夕暮れの帰り道
「さあ、みんなでお昼にしようか」「今日は大将がサービスしてくれるって!」と、賑やかな食卓が囲まれるたびにセリカテラーは決まって不自然なほど慌てて席を外すのだ
「あれ……セリカちゃん、また行っちゃった」
「バイトのシフトも入ってないはずですけど……何か私たちに言えないことでもあるんでしょうか?」
ノノミとアヤネが首を傾げ先生も少しだけ心配そうに彼女の背中を見送る。けれどようやく居場所を見つけ始めた彼女のプライベートを無理に暴くのは野暮だろう――みんなの優しさがその綻びを深く追求することを踏み止まらせていた
ただ一人クロコだけを除いて
同じく「色彩」に触れすべてを失った地獄を通り抜けてきた彼女には、セリカテラーが去り際に浮かべる、あの「何かを堪え忍ぶような張り付いた笑顔」の意味がどうしても気になって仕方がなかった
(……セリカ。何か、隠してる)
ある日の昼休み
クロコは、先生やいつものシロコたちが弁当を広げる賑やかな声に背を向け、影のように音もなくセリカテラーの後を追う
賑やかな校舎を離れ、セリカテラーが向かったのは学校近くの小さなコンビニだった
追跡するクロコの視線の先で、彼女は棚に並ぶ色とりどりの新商品には目もくれず、一番端にあった簡素なおにぎりを一つだけ、機械的に手に取る。パッケージを確認することすらしないその動作は、まるで食事を楽しむためではなく最低限の生命を維持するための作業のように見えた
そのまま彼女は、砂に埋もれかけた誰もいない廃墟へと入っていく
入り口の扉には内側から鍵がかけられたが、クロコにとってそんな障壁はないに等しい。彼女は自身の能力を使い、空間に小さな亀裂を空けるとそこから音もなく中を覗き込んだ
(セリカ……なんで一人でこんな所……みんなと一緒に食べたらいいのに)
廃墟の澱んだ空気の中セリカテラーは埃を被ったパイプ椅子に腰を下ろす
震える手でフィルムを剥きおにぎりを一口、口に運ぶ
――その瞬間
「っ……!!」
彼女の顔が、見るに堪えないほどの苦痛に歪む
咀嚼すら満足にできないまま、彼女はその場に激しく吐き戻してしまったのだ
(!?)
「うっ……おえぇぇ……!! げほっ、はぁ、はぁ……っ!」
激しく咳き込み、涙を流しながら悶絶するセリカテラー。
クロコはその光景に激しい衝撃を受けた。それは「嫌いなものを食べた」といった程度の反応ではなかったからだ。内臓が、あるいは彼女という存在そのものが食べ物という「生命の糧」を激しく拒絶している……そんな呪いのような拒絶反応
「……砂の味がする……」
セリカテラーは、床に散らばったものを虚ろな目で見つめながら掠れた声で呟く
「味がしない……砂を噛んでいるみたい……痛い、苦しい…………みんなと一緒に、ご飯食べたいのに……っ」
ぐすっ、ぐすっ、と子供のように肩を震わせて泣き始めるセリカ。
一人きりの廃墟に響くその泣き声は、かつて彼女がいた「誰もいない世界」で砂と泥に塗れながら絶望を飲み込み続けてきた記憶の残響を思わせる
クロコはそれ以上、見ていられなかった
込み上げる戦慄と悲しみに耐えきれず彼女はその場から逃げるように走り去る
クロコは胸の奥を鋭い刃で抉られたような痛みを抱えながら対策委員会室へと戻った
扉を開ければ、そこにはいつもの風景が広がっていた。ノノミが淹れた香ばしいお茶の香りが漂い、セリカが「もー、ホシノ先輩!」と元気なツッコミを飛ばしている。
けれど、今の彼女の耳に届くのは先ほど廃屋で聞いたあの悲痛な呟きだけだった
「……ん。おかえり、もう1人の私。セリカはどうだった?」
シロコの問いに、クロコはすぐには言葉を返せなかった。セリカテラーが独りで悩み、誰にも見せたくないと必死に隠してきたその姿を自分は勝手に覗き見てしまったからだ。それを皆に話すことは彼女の信頼を裏切ることにならないだろうか
重い沈黙に支配されたクロコの異変を、ホシノは敏感に感じ取る
「クロコちゃん、何を見たの? ……一人で悩まず、おじさんたちにも協力させて欲しいな」
その言葉には、かつて同じように独りで全てを背負おうとしたホシノだからこその、静かな重みがあった。クロコはその真っ直ぐな瞳に押されるように意を決して口を開く
「セリカ、ご飯を食べられてない。ううん……食べられない体になってる」
絞り出すような声で目撃した事実をありのままに話すと部室の空気は一瞬で凍りついた
「そ、それってどういうことですか?」
アヤネが縋るような、それでいて恐ろしい真実を避けるような表情で質問する
「ん……セリカ、コンビニでおにぎりを種類も何も見ずに買ってた。そのまま誰もいない廃墟に入っていったから、気になって追いかけたの。ご飯を食べるなら、みんなで食べればいいのにって……でも」
クロコの拳が膝の上で微かに震える
「セリカがおにぎりを一口食べただけで、体の中の全てのものを出すように、激しく吐き出した」
「……何かあったの? おにぎりに変なものが入っていたとか」
ホシノの瞳からいつもの眠気が消えて戦いの時のような真剣さが宿る
「ん、普通のおにぎり……でも、セリカが最後に呟いてた。『砂の味がする』って。それと……『本当はみんなと一緒にご飯が食べたい』って」
部室を冷たい静寂が包み込む
初めてこの世界に来た時から彼女は辛そうな影を纏っていた。けれど、クロコとの再会を経て、少しずつ元のセリカのようにノノミやアヤネと笑い合い、だらしないホシノや物騒な発言をするシロコを二人揃って怒ったりと、幸せな日常を取り戻しつつあるように見えていた
その楽しげな時間の裏側でセリカテラーは独り、廃墟のような暗がりで「食べられない」という絶望と戦っていたのだ
静まり返った部室の中で自身の顎に手を当て、何かを必死に手繰り寄せようとしていたセリカが弾かれたようにクロコの方を向いた
「……ねぇ、クロコ先輩。もう一人の私は、あの世界で誘拐されたのよね? 確か……」
「ん……そうだよ」
クロコが静かに頷くとセリカは自身の記憶と、かつてセリカテラーが叫んだ絶望の断片を繋ぎ合わせるように言葉を紡ぐ
「初めてみんなに会った時……『地下で何ヶ月も』『必死に帰ったのに誰もいなかった』って言ってたのよね?多分だけど、それほどの極限状態がストレスになって何かの症状を引き起こしてると思うのよ。 ……私もネットで見ただけの知識だから自信はないけど」
その推測に全員がハッとした表情を浮かべる。アヤネは即座に端末を叩き、膨大な医療データベースへとアクセスする。青白い画面の光が、彼女の真剣な瞳を照らし出す
「ありました……!『心因性味覚障害』今のセリカテラーちゃんの状況にあまりにも合致しています」
アヤネが皆に向けた画面には残酷なまでの理屈が記されていた。強い不安や鬱状態が脳の味覚中枢を麻痺させること。そして、亜鉛などの微量元素がストレスによって急激に失われることで物理的にも味を感じなくなること
「吐き出すことについては直接的な記述はありませんが……おそらく、精神的な拒絶です。食べ物を口に含むという行為そのものが、彼女にとって最も辛かった記憶――喉を焼くような渇きや、砂が口の中に広がるあの砂漠での光景を、脳に強制的にフラッシュバックさせてしまうのではないでしょうか」
「それは、確かにありえるよねぇ……」
ホシノが痛ましげに目を伏せる
「でも、おじさんたちは医者じゃないし…薬なんて分からないし…どうしようか」
「それなら救護騎士団の人に聞いてみるのはどう? あの人たちなら何か知恵を貸してくれるかもしれないわ」
セリカの提案に一同は希望を見出した。ホシノは即座に先生へ連絡し、救護騎士団の団長・蒼森ミネへと通信を繋ぐ。だが、救護の専門家から帰ってきたのは、冷静で、かつ厳しい現実
『……お話は伺いました。ですが、残念ながら……心の深層に根ざした傷、その魂の叫びに対して、私の知っている医学的な処置では、抜本的な解決は難しいかもしれません』
通信越しに届くミネの沈痛な声にアヤネががっくりと肩を落とし、話を切り上げようとしたその時
『ですが、諦める必要はありません。その患者にとって最も必要なのは、物理的な治療ではなく、魂の救済……即ち、安らぎです。彼女が食事を拒むのは、それが「孤独という絶望」と結びついているからに他なりません。ならば、その連鎖を断ち切るのは医学ではなく、貴方達という「絆」の温もりでしょう』
「それって……」
『ええ。私からの提案です。……救護には様々な形がありますが、時には楽しい時間や、皆様の真心のこもった料理こそが、どんな薬よりも劇的な効果をもたらすことがあります。皆様の手作りで、一人きりだった地獄の記憶を塗り潰すような、賑やかな「歓迎会」を開いてみてはいかがでしょうか?』
「それ、最高に素敵なアイディアですね!」
ノノミが明るい声を上げた
『もし、その場に不届き者が現れ、団欒を妨げるようなことがあれば……その時は私が駆けつけ、粉砕して差し上げましょう。一人でも多くの救護が必要な方を、その苦しみから救い出す。それが救護騎士団としての、私の誇りですから♪』
通話が切れると同時に部室の空気は一変する。沈鬱な重苦しさは消え去り、そこには共通の目標に向かって燃えるような熱気が満ちていた
「それでは……! 作戦名『セリカテラーちゃん歓迎会』を計画していきましょう!」
アヤネがホワイトボードに勢いよくペンを走らせる。それを見たメンバーたちからは、次次とアイディアが飛び出した
「ん。作る料理なら、ここに最高の候補を絞ってくれる監修者がいる」
シロコの視線が、一人の少女に集中する。
「わ、私!? ……って、そうよね。姿が変わってしまったといっても、あの子は私なんだし、食の好みは私が一番わかってるはずだわ!」
セリカが気合を入れ直して腕まくりをすると、ホシノがいつもの調子でニヤニヤと近づいてくる
「ほうほう。この際だから、セリカちゃんの好きな食べ物を根掘り葉掘り聞いちゃおうかなぁ〜。実はこっそり甘いものが好きとかさ〜」
「ちょっとホシノ先輩!? 言い方ってものがあるでしょ!? 普通に聞きなさいよ!」
先ほどまでの静けさが嘘のように部室にはいつもの賑やかなやり取りが戻っていた。セリカを弄って楽しそうにするホシノと、顔を真っ赤にして怒るセリカ。そして、どんな買い物に行こうかと嬉しそうに相談し合うノノミとアヤネ。シロコに至っては、どこから取り出したのかフライパンを構えて目を輝かせている
その中心でクロコは静かに胸を撫で下ろし、廃墟で一人、吐き気に耐えていた孤独な背中を思い出す
(セリカ、もう一人で悩まなくてもいい。私たちには、こんなにあなたを大切にしてくれる仲間がいるんだから)
色彩の闇を知る彼女の唇に確かな希望の笑みが浮かんでいた
ーーーーーーーーー
校舎の裏
砂が舞う乾燥した空気の中で、私は一人、力なくその場に座り込んでいた。手の中にあるのはコンビニで買った、ただの無機質な塊。
ここに来てからは信じられないほど幸せなことがたくさんあった。先生がいて、かつての仲間たちがいて、そして……居なくなってしまったと思っていた同じ世界の先輩さえも、ここには笑って存在している。けれど、私の時間はあの日、あの暗い地下室で止まったまま
味も、匂いも、温もりも
今の私にとっては口に運ぶものはすべてがあの絶望的な日々の記憶を呼び覚ますスイッチでしかなかった。必死の思いで帰ったあの日、誰もいない校舎の静寂に押し潰された瞬間の感覚。それ以来、私の体は命を繋ぐための「食事」という行為そのものを拒絶するようになっていた
(セリカテラーちゃん、柴関ラーメンの店主さんが会いたがってたから一緒に行こうよ〜)
ホシノ先輩が、いつものように眠そうにけれど温かく誘ってくれる
(セリカテラーちゃん! いいお茶が手に入ったので、一緒に飲みませんか♪)
ノノミが、優雅な手つきで私専用のカップを用意してくれている
(セリカテラーちゃん♪ クッキーを作ったので、一緒に食べましょう♪)
アヤネが、少し照れくさそうに焼き菓子を差し出してくれる
(もう一人の私! この前のことは水に流してあげるから、一緒にバイトするわよ!)
私が恐怖を与えてしまったあの子……「セリカ」が、精一杯の強がりで手を引こうとしてくれる
(ん。これ栄養補給に良いお菓子。一緒に食べよ)
シロコ先輩が、無骨ながらも優しくポケットからお菓子を差し出してくれる
みんな、私を気にかけてくれる。私を一人にさせないように、輪の中に呼んでくれる。その優しさが今の私には鋭い棘のように胸に刺さった。断るたびに胸が締め付けられる。本当は私もみんなと一緒に笑いたい。ノノミ先輩のクッキーを頬張って、アヤネちゃんとお茶の香りに癒やされて、あの子と並んで「仕事」をしたい。ホシノ先輩の怠惰に、シロコ先輩の物騒な発言に、声を荒らげてツッコミを入れたい
あの子と仲良くなりたい。私という絶望を知らない眩しい「私」と……。
自然と視界が滲んで涙が手の甲に落ちる
けど、私の体は無情だった。覚悟を決めておにぎりを一口含んでも、舌が感知するのは「お米」の味ではなく、喉を焼くような砂の味だ。ザラザラとした不快な食感が口いっぱいに広がり、あの地下室の冷たい壁、一人きりで震えていた夜の絶望が、鮮明な映像となって脳内を埋め尽くす
「……っ……、ぅっ……!!」
激しい吐き気に襲われ、私は地面に手をついた。飲み込むことすら許されない。胃の奥からせり上がる拒絶反応に、体力が削られていく。
「なんで……なんで……、私は……っ」
こんなに幸せな場所にいるのに。目の前に救いがあるのに。
どうして私の体は過去の檻から逃げ出すことを許してくれないのか。砂混じりの嗚咽を漏らしていると、不意に背後から、静かな、けれど確かな温もりを孕んだ声が聞こえた
「セリカ」
「っ!?」
心臓が跳ねた。慌てて涙を拭い、食べかけのおにぎりを背後に隠す
そこには、漆黒の衣装を纏ったもう一人の「自分と同じ世界のシロコ先輩」――クロコ先輩が立っていた。
彼女の瞳は、まるですべてを見通しているようだった。同じ色の闇を通り抜けてきた彼女に、私の稚拙な隠し事など通用しないことは分かっていた。けれど、今の無様な自分をこれ以上彼女に見られたくなくて、私はただ必死に、震える肩を隠すことしかできなかった
「ど、どうしたの……? シロコ先輩……?」
私は動揺を隠せないまま、掠れた声で問いかける。背中に隠したおにぎりの冷たさが、今の自分の惨めさを象徴しているようで掌が嫌な汗で湿っていく
「ん。セリカを呼びに来た」
クロコ先輩の表情は、夜の砂漠のように静かだった。けれど、その瞳の奥にはすべてを察した上での拒絶を許さないほどの強い意志が宿っている
「私を……? 悪いけど、今はちょっと……」
「いいから、ちょっと着いてきて」
「わっ、ちょっと!? 急に何よもー!」
言い返す暇もなく、クロコ先輩は私の細い手首を掴むと、そのまま迷いのない足取りで歩き始めた。引きずるようにして連れて行かれた先は、慣れ親しんだはずの、けれど今の私にとっては最も遠い場所――対策委員会の部室
彼女が扉を勢いよく開けると、そこにはセリカテラーにとって絶望的な光景が広がっていた
色とりどりの料理、漂う香ばしい匂い。そして、壁には手作り感に溢れた文字で『もう一人のセリカちゃん歓迎会!』という大きな垂れ幕が飾られていた。
「えっ……なに、これ……?」
呆然と立ち尽くす私の背中をクロコ先輩がそっと、けれど確かな力で押す
「みんなで計画してたの。セリカがこの世界に来た記念にって」
教室に足を踏み入れると、待っていた仲間たちが弾けるような笑顔で次々に駆け寄ってきた
「セリカテラーちゃん、おかえり〜! 待ってたよ!」
ホシノ先輩が、いつもの眠そうな目を細めて柔らかく笑う。
「今日は私の好きなものをたくさん用意したのよ! 同じ私なんだから、もちろんアンタも好きよね?」
あの子――セリカが、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに胸を張って料理を指差す
「ん。私とアヤネで作った。ホシノ先輩が味見って称してたくさん食べようとするから、防衛するのが大変だった」
シロコ先輩が、頬を少しだけ緩めて無骨な報告をする
「ふふふ♪ 私はお部屋の飾り付けを頑張りましたよ♪ さあ、主役なんですから!」
ノノミが楽しそうにステップを踏みながら、私の肩に優しく手を添えた
「さあ、セリカテラーちゃん! こちらへ座ってください!」
アヤネに手を引かれ、促されるままに中央の席に座る
机の上に並べられたのは、かつて……まだあの「地獄」を知る前の私が大好きだったものばかり。どれもが温かく、慈しみを持って作られたことが一目でわかった
そして、私の目の前に置かれたのは、湯気を立てる一杯のラーメン。どこか懐かしく、胸の奥を締め付けるような匂い。その傍らには、一枚のメッセージカードが添えられていた。
「これ……柴関ラーメン……」
「そうそう。大将に今日のこと話したら、快く提供してくれたんだよ〜そのメッセージカードも大将からの激励」
ホシノが優しく微笑みながらカードを指し示す
「持ってきた素材を使って、私が心を込めて作ったんだからね!」
あの子が、少しだけ不安そうに、けれど期待に満ちた瞳で私を見つめている
私は言葉を失った。
左右を大好きな先輩たちに囲まれ、出口にはクロコ先輩が守るように立って、じっと私を見つめている。逃げ場など、どこにもなかった。
けれど、私の胃の奥は、恐怖で硬く収縮していた。
目の前にある「ご馳走」は、今の私にとっては色彩の暴力に等しい。これを口にすれば、再びあの砂の味が襲ってくる。激しい吐き気に襲われ、この幸せな空間を汚してしまう。みんなを失望させ、自分はもう普通には戻れないのだと、残酷に突きつけられてしまう
「わ、私……き、気持ちだけ……」
喉が張り付き、震える言葉を紡ぐのが精一杯だった。本当のことを言いたい。私は食べれないのだと叫びたい。でも、声が出ない。絶望的な沈黙が私を包もうとした、その時。
「セリカ」
短く、私の名を呼ぶ声がした。顔を上げると、クロコ先輩が真っ直ぐに私を見つめていた。その瞳は、逃げ出したい私の心を優しく繋ぎ止める鎖のようだった
「っ……!」
「……大丈夫。もう、一人じゃないから。落ち着いて……一口だけでいい。食べてみて」
クロコ先輩の祈るような慈愛に満ちた声。そして、息を呑んで私を見守る、みんなの期待と優しさに満ちた視線
目の前に置かれた一杯のラーメンは、今の私にとって、地獄の記憶を呼び覚ます「死の宣告」のようでもあり、同時に、この世界に踏みとどまるための「最後の手綱」のようでもあった
私は震える手でゆっくりと割り箸を手に取る
指先が冷たく強張り、視界が涙で歪んでいく
この一口の先に待っているのが、再びの砂地獄なのか、それとも――
セリカテラーの思考は、あまりの恐怖と重圧によって真っ白に塗り潰されていく。視界の端が暗くなり、部室の賑わいが遠い海の底の音のように聞こえ始めたその時
(とん)
不意に、優しく温かな衝撃が、彼女の両肩と背中に触れた
驚いて目を見開くが、目の前のホシノも、ノノミも、アヤネも、誰一人として動いてはいない。皆、ただ固唾を飲んで自分を見守っているだけだ。それでも、確かに感じたのだ。かつての記憶にある、あの頼もしい先輩たちの手の温もりを。まるで「大丈夫だよ」と、背中を押してくれたかのような確かな質感を
「…………いただくわ」
理屈では説明できない何かが、彼女を縛り付けていた鉄の鎖を解き放った。さっきまで鉛のように重かった心と体が、不思議と軽くなる。彼女は迷いのない手つきで割り箸を割り、立ち上る湯気の向こう側にある麺を、ゆっくりと、けれど確かに手繰り寄せた
(パクっ)
熱を帯びた麺が口の中に滑り込む
反射的に体が強張り、あの忌まわしい「砂の味」に備えて喉が閉まろうとする。……しかし、舌に触れたのは、ザラついた絶望などではなかった
鼻腔を抜ける香ばしい脂の匂い。濃厚でいてどこか優しい、あの柴関ラーメン特有の豚骨出汁。魂にまで染み渡るような、懐かしく、愛おしい「思い出の味」だった
「っ……!!」
セリカテラーは大きく目を見開いた
吐き気はない。喉を焼くような拒絶反応も、胃を締め付ける不快感も、何一つとして襲ってこない。それどころか、長い間枯渇していた栄養と、仲間の想いという名の熱い奔流が、指先からつま先に至るまで、凍てついた体の隅々を溶かすように駆け巡っていく
「ど、どうですか……! セリカテラーちゃん……!」
アヤネが我慢できずに身を乗り出して声をかける。だが、セリカテラーはすぐには答えなかった。いや、答えられなかった
彼女は取り憑かれたように箸を動かし、ラーメンをもう一口食べると、次に並べられた唐揚げ、卵焼き、肉じゃが……それらを、慈しむように一つずつ口へと運んでいく
そのどれもが、死なないために無理やり流し込んでいた「燃料」などではなかった。自分のためだけに考え抜かれ、自分のために用意された、この世界で最も温かな「食事」だった
「おいひい……っ、おいひいよ……!!」
頬を膨らませ、不器用に声を漏らす
その一言を聞いた瞬間、対策委員会のメンバーたちは、張り詰めていた糸が切れたように「よかった……」と深く、深く胸を撫で下ろした。
「う……うぁ……っ」
噛みしめるほどに、溢れ出すのは味覚だけではなかった
箸を持ったまま、セリカテラーの瞳から大粒の涙が決壊し、止まることなくボロボロと溢れ落ちる
「うへへ……辛かったんだね、本当によく頑張ったよ、おじさん嬉しいな……」
ホシノが目尻を下げ、自分のことのように顔を綻ばせる
「ん。これで涙をふいて。美味しいものを食べてる時に、泣き顔は似合わない」
シロコが優しくハンカチを差し出す
「えへへ……本当に良かった。セリカテラーちゃんのお口に合って……安心しました」
アヤネが眼鏡を拭いながら、安堵の笑みを浮かべる
「はい♪ みんなでお買い物に行って、頑張って作った甲斐がありましたね!」
ノノミが満面の笑みで彼女の頭をそっと撫でる
「もー! 私なんだから、そんなに泣かないでよ! ……っていうのも、今は無理よね。ほら、今だけは私の胸を貸してあげるから。思いっきり泣きなさいよ!」
この世界のセリカが、ぶっきらぼうに、けれど誰よりも優しい温もりで彼女を抱き寄せた。
「ホシノ……ぜんばい……みんな……っ、ひぐ、ぁぁああ……っ!!」
部室の入り口、少し離れた場所でその光景を見守っていたクロコの目にも、薄らと涙が浮かんでいた。独りぼっちで、砂漠を彷徨っていたあの頃の自分たち。けれど、もう一人の自分は、ようやく本当に救われた。独りきりの地獄から、この温かな日常の輪の中に、本当の意味で帰ってきたのだと
「ん……。よかったね、セリカ。……本当におかえりなさい」
クロコの呟きは、泣きじゃくるセリカテラーの耳には届かなかったかもしれない
けれど、そこにはもう絶望に震える少女はいなかった
響き渡るのは、温かな湯気に包まれた、お腹を空かせたいつもの「黒見セリカ」の、再会を祝う幸せな泣き声だけだった
ストレスが限界に達して味覚が無くなった時のことを思い出して書いてみました
思いついたら投稿していこうかな…?とりあえずいまは完結ということで…