ある日のアビドス高等学校、対策委員会室
窓の外には抜けるような青空が広がり、高すぎる太陽が白く眩しい陽光を室内へと投げ入れていた
今日は珍しく、いつも誰かしらの声が響くこの部室に、奇妙な静けさと活気が同居していた
ことの発端は、アヤネの珍しい提案だ
「たまには、お仕事のことを忘れてのんびり買い物がしたいです」
その控えめな一言に、ホシノが「うへ〜、それは名案。おじさんも便乗して、いつものお昼寝スポットまで散歩しちゃおうかな」と続き、二人は連れ立って部室を後にする
それを見送っていたシロコとクロコだったが、いつものように些細なことで言い合いが始まり、ついには「ん、どちらが真のシロコか、自転車で決着をつける」「……望むところ。私が先。シロコは後ろ」と、理屈の通らない勝負を掲げて、凄まじい速度で砂漠の彼方へと走り去ってしまった
結果として、静まり返った部室に残されたのは三人だけ
愛銃のメンテナンスを淡々とこなすセリカテラーと、シャーレから山のように送りつけられた書類の山に埋もれる先生。そして、その先生に「喝」を入れながら、事務作業の監修を行っているセリカである
「先生! 手が止まってますよ! 集中して!」
セリカの鋭い叱咤が、静かな室内に響き渡る
「せ、セリカ……。流石にそろそろ休憩させて……指が、指がもう動かないんだ……」
「先生が普段から仕事を溜めるからいけないんでしょ! 口を動かす前に手を動かして! ほら、次の書類!」
「は、はい!!」
セリカの言葉選びは相変わらず厳しさが溢れていたが、その横顔を眺めていたセリカテラーは、微かに頬を緩めた
先生からは見えない位置、ツインテールの隙間から覗くセリカの耳は、歓喜を抑えきれないかのようにピコピコと落ち着きなく動き、その頬は淡い桜色に染まっている
この状況――つまり、二人きりに近い空間で、自分が必要とされ、頼りない先生を支えているという事実に、彼女は心底酔いしれているようだった
「も、もう……。私がいないと、本当に先生はダメなんだから……。……べ、別に先生のためにやってるわけじゃないんだからね! 私が気持ちよく部室を使いたいだけなんだから、勘違いしないでよね!」
セリカテラーは、メンテナンス用のクロスを動かす手を止め、どこか遠い目をして自分自身の「写し鏡」を見つめていた
(……撤回。口調からも楽しそうなのが、これでもかってくらい漏れ出してるわね)
まるでツンデレのお手本のような、あるいは何かの教科書通りと言わんばかりの台詞回し。かつての自分も、あの終わりのない砂漠に飲み込まれる前は、あんなふうに拙い言葉で好意を隠そうと必死だったのだろうか
「あはは……。本当にありがとうね、セリカ。君がこうして喝を飛ばしてくれるから、なんとか今日中に終わりそうだよ」
先生が力なく笑いながらペンを置くと、セリカはさらに顔を赤くし、そっぽを向いた
「あ、当たり前よ! 私が監修してるんだもの。……でも、まぁ、あと少しなら休憩してもいいわよ? 最後の最後でミスを連発されたりなんかしたら、目も当てられないもの……」
「そうだね。お言葉に甘えて……。少し頭を冷やしに、外で休憩してくるよ」
先生が席を立ち、部室の扉が閉まった。バネが戻るような小さな音と共に訪れた沈黙。その中で、セリカは「ふぅ……」と、胸に溜まっていた熱を逃がすような長い吐息をつき、火照った頬を両手で包み込んだ。指先から伝わる自分の熱に、彼女はまた一人で赤面する
その様子を、ソファに深く腰掛けたまま眺めていたセリカテラーが、愛銃のボルトを静かに引き戻しながら言葉を投げかける
「……あんな態度取ってたら、いつまで経っても先生に『好き』って気づいてもらえないわよ?」
先生が完全に居なくなったことを確認してから放たれた、あまりにも単刀直入な一撃
セリカの体は心臓を射抜かれたようにビクッと跳ね、ロボットのようなぎこちない動きでゆっくりと振り返る。そこには、呆れたような、けれどどこか諦観の混じった優しい瞳で自分を見つめる、もう一人の自分がいた
「う、ううう、うるさいわねっ!? 別に『好き』とか……そういう、変な意味じゃないから! 私はただ、あのだらしなくて放っておけない大人を、この学園の生徒として正しく支えてあげようとしてるだけで……!」
「耳、さっきからずっと嬉しそうに動いてるわよ。それに、忘れたの? 私とあなたは同じ『黒見セリカ』なのよ。自分自身に隠し事なんて通じると思ってるの?」
「うぐっ……!」
逃げ道を完璧に塞がれ、セリカはぐうの音も出なかった。過去も現在も、そして可能性としての未来も共有している存在に、心の奥底を土足で、それも正確に踏み荒らされる気恥ずかしさ。彼女は沸騰したヤカンのように顔を赤くし、もはやヤケクソ気味に詰め寄る
「そ、そうよ! 好きよ! 大好きよ! 悪いっていうのっ!?」
「……そこまでは言ってないから。声が大きいわよ」
「そもそも、同じ私なら分かるでしょ!? 先生のあの救いようのない鈍感さと……それに、周りにいる強敵たちの多さ! ほら、ホシノ先輩だって、ノノミ先輩…アヤネちゃんだって……。わ、私なんかが、あんな人達に真っ向から立ち向かえるわけないじゃない……」
強気だった勢いは一瞬で霧散し、言葉の後半になるにつれてセリカの声は消え入りそうなほど小さくなっていく。自信のなさを露呈し、俯く少女。その様子にセリカテラーは小さくため息をつき、手入れの終わった銃を傍らに置くと、セリカの瞳を真っ直ぐに射抜くようにして口を開く
「確かに、ホシノ先輩や他の学校の連中……競争相手が多いのは否定しない。でもね、もうひとりの私。想いっていうのは、伝える相手が居なくなってからじゃ、絶対に届かないのよ」
セリカはその言葉にハッとなり、セリカテラーの顔を食い入るように見つめる
セリカテラーが歩んできた、血と砂に塗れたあの凄惨な「過去」
ホシノのテラー化、セトの憤怒の降臨、そして色彩に蝕まれてしまったシロコと、同じく色彩に触れながらも彼女を救おうとして帰らぬ人となった先生……。セリカテラーが絶望の淵から帰還した時には、その好意を、あるいは感謝の言葉を伝えるべき相手が、この世界のどこにも存在しなかった。その事実を思い出し、セリカは申し訳なさに胸を締め付けられ、目を逸らした
「……ごめん。私、そんなつもりじゃ……」
「……もういいのよ。謝ってほしいわけじゃないし。ただ、私と同じ後悔はしてほしくないだけ。だから、たとえ玉砕して泣くことになったとしても……その好意だけは、ちゃんと自分の言葉で伝えてほしいの」
セリカテラーの声は、どこか遠くの地平線を見つめているような、凪いだ海の静けさを湛えていた
「……」
セリカは何も言えなかった。先ほどまで自分が口にしていた「強敵が多い」だの「鈍感」だのといった言い訳が、あまりにも贅沢で、独りよがりな悩みに思えて仕方がなかったからだ。沈黙に耐えかねて俯く彼女の様子を察し、セリカテラーは本日二度目となる、どこか茶目っ気を含んだため息をついた
「そんなにしおらしくなっちゃって……いいの? そんな感じなら、私があの先生を先に誘惑しちゃおうかな。なんて言ったって、私もあなたと同じ『私』なんだものね。私が先にするって言うことは貴方がやりそうな好意の伝え方をする…つまり二番煎じになっちゃうわよ?」
「!? な、ななな……何言ってるのよっ!?」
「あなたが自分から動けないっていうなら、私が先に取っちゃうのよ、 遠慮なんてしないんだから」
セリカテラーがわざとらしく片方の眉を上げ、不敵な笑みを浮かべて見せると、セリカの顔は一瞬で茹で上がる
「……嫌よ! 絶対に嫌! ……分かったわよ、やればいいんでしょ! もっと……その、素直になれるように、死ぬ気で頑張るわよ!」
「ふふっ。その意気よ。応援してるわ」
その言葉を聞いて、セリカテラーは満足げに、そして年上の姉が妹の成長を喜ぶような優しい顔で笑った。それを見たセリカは、恥ずかしさを誤魔化すように、ビシッとセリカテラーに向けて指を突き出す
「もう他の人なんて気にしないわ! 私もガンガンアタックしていくんだから……! もちろん、いくらもう一人の私だからって、あなたにだって譲る気はないわよ!」
「ええ、頼もしいわね。……でも、安心して? 今の私は、先生に好意を伝えようとか、そんな気持ちはさらさらないから」
「へ? ……さらさら……ない?」
意気揚々と宣戦布告をしたセリカだったが、返ってきたのはあまりにもあっさりとした拍子抜けな回答だった。燃え上がっていた対抗心の炎が、バケツの水を被ったかのように一瞬で鎮火していく
セリカテラーの声は、驚くほど穏やかで、一分の嘘偽りもないものだった。セリカが狐につままれたような顔で首を傾げるのを見て、セリカテラーはふっと視線を窓の外、地平線の彼方へと移した
(確かに……昔は、私も死ぬほど先生のことが好きだったわ。誘拐されて暗い部屋に閉じ込められていた時も、脱出して一人ぼっちで砂漠を彷徨っていた時も。心の中で、あの人が必ず助けに来てくれるって信じてた。私にとって、あの人は間違いなく唯一の光だったし、何度も命を救ってくれた英雄だった。……でも、今は……)
セリカテラーが心の中で遠い日々の思い出に耽っていると、勢いよく部室の扉が開かれる
「ん。私の勝ち。やっぱり自転車はスピードが命」
「……やっぱり、ギアの調整不足だった。今度は必ず私が勝つ。次は山岳コースで勝負……」
そこには、ドヤ顔で勝利を誇示するシロコと、少し頬を膨らませて不満げにホイールを磨き始めるクロコの二人がいた
「シロコ先輩!」
セリカテラーはその二人を一目見るなり、先ほどまでのセンチメンタルな空気を霧散させ、迷いのない足取りで駆け出した。そして、ニコニコとこれ以上ないほどの弾けた笑顔を浮かべ、驚くクロコに正面からぎゅっと抱きつく
「ん……? どうしたの、セリカ。急に甘えてきて……何かあった?」
唐突な抱擁に戸惑いながらも、クロコの声はどこか嬉しそうに弾んでいる。
「何でもないわ! それより、今からどこか出かけない? またシロコ先輩のオススメのお店に食べに行きたいわ!」
セリカテラーに抱きつかれたクロコは、先ほどまでの敗北の悔しさなどどこかへ飛んでいってしまったようだった。その無機質な瞳は、この世界のシロコが美味しいものを前にした時と同じように、熱を帯びてセリカテラーを見つめ返す。その口元も、彼女にしては珍しく、はっきりと分かるほど緩んでいた
「……ん。分かった、行こうか。私も、行きたいところがある」
セリカテラーは黒い猫耳を幸せそうにぴこぴこと動かし、クロコの手をしっかりと握りしめて引いていく。二人はそのまま、対策委員会の部室を後にした
その光景を、セリカは呆気にとられたような顔で見届けていた
嵐のように去っていった二人の気配が完全に消えた頃、セリカの脳はようやく目の前の情報を処理し終えたようだった。彼女はふふ、と優しげな笑みを浮かべ、独り言をこぼす
「なによ。てっきり恋をすること自体を諦めちゃったのかと思ったら……そういうことなのね。先生じゃなくて、あっちを選んだんだ」
彼女は窓の外を歩く二人の背中を見つめ、届かないと分かっていても、その言葉を口に出さずにはいられなかった。
「……幸せにならないと承知しないんだからね」
今のセリカテラーにとって、必死に追いかけるべき背中はもう、先生のものではなかった
共に地獄のような日々を生き抜き、絶望の果てで再び手を繋ぎ直してくれた、隣にいるクロコの確かな体温こそが。今の彼女が何よりも守り抜きたいと願う「唯一」の居場所であり、かつての甘い恋心さえも過去の彼方へと追いやってしまうほどの、強烈で、そして純粋な愛の形だったから
部室に残されたセリカは、もう一度頬を叩いて気合を入れる
「よしっ、私も負けてられないわね!」
彼女は先生が戻ってくる扉を、確かな決意を宿した瞳で見つめ直した