第一話 転生博麗
人は死んだらどうなるのか。
哲学者が論じ、宗教が教え、科学が証明できなかったその問いに、俺は自らの死をもって答えを得た。正確に言えば、答えを強制的に体験させられた。
死んだ先に、確かに「死後の世界」は存在した。ただし、それが救いであるかどうかは、まったく別の話だ。
目を覚ました瞬間、最初に意識に刺さったのは天井の低さだった。
薄暗い室内に、古びた木造の梁が重く影を落としている。湿気と手入れ不足で黒ずんだ柱には、虫食いの穴がぽつぽつと開いていた。時代劇のセットよりずっと生々しい。時間の重み、という言葉の意味を、初めて実感としてわかった気がした。
俺は反射的に上半身を起こし、次の瞬間、全身が凍りついた。
重心が合わない。
身を起こすわずかな動きのなかで、身体の軸がずれていることに気づく。腕は妙に軽い。肩幅は狭い。上体の重心が、いつもと逆の方向に傾く。袖の内側から触れる肌は、自分の皮膚とは思えないほど滑らかで、薄く、敏感だった。
視界の位置まで、明らかに低い。
見下ろした自分の手は、細く白く、指は長く繊細に伸び、爪は丁寧に整えられていた。
これは俺の手じゃない。
「おい……」
声を出した瞬間、喉が固まった。高い。信じられないほど澄んだ、少女特有の張りのある声が、自分の口から溢れ出した。自分の声じゃない。他人の声が、耳に届く。
胃の底から、嫌な予感がじわりと這い上がってくる。無意識に胸元へ手を伸ばす。巫女装束の布地越しに、確かな膨らみが指先へ伝わった。輪郭が、はっきりと。俺はその場で固まり、指先の震えを止められなかった。
膝から力が抜けそうになる。歯を食いしばって堪え、壁を伝いながら何とか立ち上がる。部屋の隅に置かれた古い鏡へ、這うように近づいていく。鏡面は長年の埃と湿気で曇り、像はぼやけて輪郭しか判別できない。それでも、そこに映った顔を見た瞬間、俺は言葉を完全に失った。
艶やかな黒髪が肩まで流れ、頭の上には鮮やかな赤いリボンが結ばれている。大きく澄んだ紫の瞳に、形の整った眉と鼻、柔らかな輪郭の顔立ち。まぎれもなく、一人の少女の姿がそこにあった。
だが、俺にはその顔に見覚えがあった。
大学時代、友人が強く勧めてきた弾幕シューティングゲーム。「東方 Project」。幻想郷と呼ばれる異世界。その境界に立つ神社の巫女。
博麗霊夢。その名前が、脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「……嘘だろ」
鏡の中の少女が、俺と同じタイミングで口を開け、同じ言葉を紡ぐように動いた。
俺は死んだ。そして理由も経緯もわからないまま、この少女の身体に魂だけが移り住んでいた。性別も、体格も、年齢も、何もかもが元の自分とは別物だ。二十代の男だった俺が死んで、こうして巫女の身体に落ちてきた。
膝から力が抜けて、畳の上にどさりと座り込んだ。冷たさが、薄い布地越しじゃなく、肌に直接伝わってくる。こんなに皮膚は薄くて、外界の刺激をそのまま受け止めてしまうものだったのか。場違いな疑問が、頭の片隅をよぎる。
前世の記憶は、霧の底に沈んでいて曖昧だ。自分が何者で、どんな名前を持ち、どんな仕事をしていたのか。家族の顔も、友人と交わした会話も、輪郭を失ってぼやけている。それでも、一つだけ確かなことがある。
俺は、男だった。
そして——
「……待て」
俺は低く呟いた。
「俺がここに入る前、この身体には霊夢がいたんだよな……?」
当たり前の疑問だ。この身体は元々、博麗霊夢のものだ。俺の所有物でも、借り物でもない。本来の持ち主が存在していた場所だ。
ならば、元の霊夢の魂は。意識は。どこへ行ってしまったのか。
もう一度、鏡を見つめる。客観的に見れば整った、美しい顔だ。だが、その美しさが今の俺には罪深く映る。俺が占めていい顔じゃない。俺が使っていい身体じゃない。
「俺は……誰かの人生を、奪ってしまったのか?」
声に出した瞬間、背筋を悪寒が駆け抜けた。
転生ものは、ネット小説の定番だった。主人公が死んで、別の世界で新たな生を受ける。読んでいる側には、それは都合のいい設定でしかなくて、何の疑問も抱かなかった。
だが、それが自分の身に起きたとき——しかも、その身体にはすでに本来の持ち主が存在していたとしたら。
その持ち主は、今どこにいるのか。どんな結末を迎えたのか。
答えは返ってこない。鏡の中の霊夢だけが、俺と同じ困惑と恐怖を浮かべた顔で、無言のまま俺を見返している。
「……すまない」
誰に向けるでもなく、ただ言葉を吐き出した。鏡に映る少女の姿に向かって。この身体の奥深くに、まだ何かしらの痕跡や残り香が残っているかもしれない、元の霊夢に向かって。
謝ったところで何も変わらない。それでも、何も言わずにこの状況を受け入れることだけは、俺の人間としての誇りが許さなかった。断りもなく他人の生に踏み込むのなら、せめて最初の一歩には、それだけの気持ちを持っていなければならない。
縁側に出ると、幻想郷の景色が目の前に広がっていた。
朱色の鳥居が参道の入り口に立っている。石畳は長い年月に磨かれて、つるりと光っていた。その先には、どこまでも深く濃い緑の森が広がり、風が吹くたびに葉擦れが重なり合って、低く柔らかな音を生む。空気が清冽だ。湿った土の香りと草の青い匂いが混ざって、肺の奥まで染み渡る。
石段の上に立つと、幻想郷の全体が見渡せた。地平線まで続く緑の海。遠くに霞んで光る湖の水面。山々の稜線が、空にくっきりと描かれている。現代社会では決して見ることのできない、未だ手つかずの自然が、そこには確かに存在していた。
美しい。心からそう思った。
だが、その感動はすぐに胸の奥へ、重たい塊を残す。
この景色を、霊夢は毎日眺めていたのか。この石段に腰を下ろして、この森の音を聞いて、この空気を吸って生きていたのか。
それが今は、俺のものになってしまっている。
俺は石段に腰を下ろし、初夏の澄み切った青空を見上げる。白い雲がゆっくりと流れ、風が頬を撫でていく。何の変わりもない、平和な朝の光景だ。
「俺は、これからどうすればいいんだ」
弱音が、自然と口から漏れ出した。
霊夢として生きていく。そう簡単に割り切れる話じゃない。それは、霊夢の人生そのものを俺が消費し、奪い続けることに他ならない。だが、この身体に宿り、この世界で呼吸をしている今、何もしないまま立ち止まることも許されない。俺はここで、確かに生きている。
「……やるしか、ないんだろうな」
細く華奢な指を握り、拳を作る。これは霊夢の手であって、俺の手ではない。だが今、この手を動かせるのは俺だけだ。
できる限りのことをやる。霊夢が守ってきたこの場所を、霊夢が担ってきた役割を、俺が代わりに引き受ける。霊夢の人生を踏み台にするんじゃなく、霊夢が続けるはずだった道を、俺なりに歩いていく。それが、俺に許される唯一の誠意であり、償いの形だと思った。
試しに意識を集中させると、身体の芯の奥から、じわりと温かな力が湧き上がってくるのを感じた。これが霊力なんだろう。指先へ流れ込んで、ほのかな白い光を帯びて浮かぶ。扱い方は何もわからない。だが、自分の内に確かに力が存在することだけは、はっきりと確認できた。
「……借ります」
賽銭箱の前に立ち、両手を合わせた。
「神社の神様。俺は他人の身体を、断りもなく勝手に借りて生きています。それがどれほど不条理で、罪深いことか、自分なりに考えているつもりです。だけど——俺にできる限りのことを、全力でやります。霊夢が守るべきだった幻想郷を、霊夢が担うはずだった役割を、俺が代わりに守り続けます」
それが、俺がこの地で最初に捧げた祈りだった。
それから三日が過ぎた。
俺はこの新しい身体に慣れるためだけに、三日間を費やした。
歩き方ひとつとっても、すべてが違う。重心の位置。骨盤の傾き。足を踏み出す角度と歩幅。二十数年かけて男の身体に染み込んだ癖が、この身体では全部噛み合わない。初日は、ただ廊下を往復するだけで神経をすり減らし、息が上がった。階段を踏み外して転げかかり、鴨居に額をぶつけ、縁側の角に脛を打つたび、鋭い痛みと一緒に少女の悲鳴みたいな声が出る。その声が自分のものでないことに、また愕然とする。
食事は蔵に残された米と、裏の畑で採れる野菜で何とか凌いだ。どうやら霊夢はこの神社で一人で暮らしているらしく、三日間、誰一人として訪ねてくる者はいなかった。
孤独だった。
声を発するたびに少女の声が返り、鏡を覗くたびに霊夢の顔が映る。日が経つにつれ、その声や姿への違和感が、少しずつ薄れていくのを感じた。
それが、何よりも恐ろしかった。
俺がこの身体に馴染むほど、本来ここにいるべき霊夢の存在が、俺の意識から遠く薄れていく。俺が霊夢になりきる代わりに、霊夢そのものが消えていくような感覚だ。だから夜、布団に入るたび、俺はわざと霊夢のことを考え続けた。忘れないために。俺自身の慣れが、元の霊夢の痕跡を上書きしてしまわないように。
それでも朝が来るたび、俺はこの身体で目を覚ます。それだけが、この世界で確かな事実だった。
四日目の朝、異変は突然に訪れた。
障子を開けた瞬間、世界が一面の赤色に染まっていることに気づいた。
深紅の霧が、幻想郷の全域を覆い尽くしていた。空は血を流したような濃い赤に染まり、太陽の光は霧に遮られて、地上に届く光が極端に減っている。朝のはずなのに、まるで夕暮れか夜明け前のような薄暗さが、辺りを支配していた。
「……紅霧異変」
記憶の奥底から、その単語が浮かび上がった。
『東方 Project』の物語で最初に起きた大きな異変。外界から侵入した吸血鬼が、日光を嫌う自分たちが昼間でも活動できるよう、幻想郷全体を霧で覆った事件だ。自分たちの都合だけで、世界の天候と光を奪う。身勝手で傲慢な所業。
怒りが、腹の底から沸き上がってくる。
このままでは人里の人間たちはどうなる。日照がなければ作物は育たず、気温は下がり、生活だけでなく命までもが危うくなる。
だが、その怒りに身を任せる前に、俺は自分の立場の矛盾に気づいた。
俺は霊夢の身体と人生を奪っておきながら、今さら「巫女」として、見ず知らずの人々を守るために動こうとしている。
「……どの面下げて、だな」
自嘲の笑いが、口元から漏れる。正義感を振りかざし、何かを救う側に立つなど、俺には許される資格などない。
だが、だからといってこのまま何もせず、目の前で世界が蝕まれていくのを見過ごすことも、俺の中の人間としての部分が許さなかった。きれいな正解なんて、最初から存在しない。あるのは、自分にできる範囲で、やるべきことを選び取ることだけだ。
俺は再び賽銭箱の前に立ち、手を合わせる。
「神様、また来ました。この前の誓いの続きです。霊夢の代わりに、俺がこの異変を止めます。だから、この身に宿る力を、俺に貸してください」
祈りを終えると、神社に置かれていた赤と白の御札を手に取った。古い墨で呪文のような文字が書かれている。これが弾幕として使えるのか、武器になるのか、何もわからない。だが、何も持たないよりは遥かにましだ。
巫女装束の裾を整え、袖をたくし上げて襷をかけ、髪を結び直して赤いリボンをしっかりと結ぶ。最後に、鏡の中に立つ霊夢の顔を、一秒だけまっすぐに見つめた。
「行ってきます」
俺自身のものではない顔に向かって、俺は言った。これは本来、霊夢が自分で言うべき言葉かもしれない。それでも、誰かがこの一歩を踏み出さなければならない。
境内を抜けて、長い石段を下り始める。紅い霧が次第に濃くなって視界を覆う。肌に触れる霧は生ぬるく、どこか腐った果実のような甘ったるい臭いがした。
紅魔館がどこにあるのか、正確な位置もわからない。弾幕の撃ち方も、空を飛ぶ方法も知らない。この身体に流れる霊力の扱い方も、まだ手探りの段階だ。
それでも、俺の足は前へと進み続けた。
借り受けた命で、自分にできる限りのことをやる。それだけが、今の俺に与えられた道だった。
霊夢の足が、紅い霧の中へと踏み出される。これが、俺と幻想郷との、そして俺自身の贖いの始まりだった。