第一話 転生博麗
人は、死んだら一体どうなるのだろうか。
古来より人類が問い続けてきたこの問いに、俺は答えを得た。いや、正確には答えらしきものを体験することになった。
死後の世界があるのか。魂は永遠なのか。輪廻転生は存在するのか。
哲学者たちが何千年も議論してきた問題。宗教が様々な解釈を与えてきた謎。科学が証明できなかった領域。
だが、俺が知る限り、それは「ある」らしい。なぜなら、俺は今ここにいるのだから。
ただし、それが俺にとって幸福なことだったのかは、まだ判断できない。
というより、この状況を「幸福」と呼んでいいのか、俺にはまったくわからない。
いや――もっと正確に言えば。
これは俺にとって「幸福」かどうかという問題じゃない。
俺が考えなければならないのは、別のことだ。
目を覚ました時、俺は見知らぬ天井を見上げていた。
いや、天井というよりは、古びた木造建築の梁だ。虫食いの跡が残る黒ずんだ木材が、薄暗い室内に重苦しい影を落としている。時代劇のセットにでも迷い込んだような光景だった。
「……んぇ?」
声を発して、俺は凍りついた。
何だ、今の声は。自分の声じゃない。もっと高い、少女のような――いや、少女そのものの声だ。
嫌な予感がした。最悪の予感がした。
慌てて身体を起こす。視界が低い。見下ろした自分の手は、細く白い。女性の、いや、少女の手だ。指は長く繊細で、爪は手入れされている。記憶にある自分のゴツゴツした男の手とは似ても似つかない。
「おい、おい、おい……」
焦燥が込み上げる。服装を確認する。赤と白の巫女装束。袖から覗く腕も、細く華奢だ。胸元には――確かに膨らみがある。わずかだが、確実に。
「嘘だろ……」
部屋を見回す。畳敷きの和室。六畳ほどの狭い空間。質素な家具。衣装箪笥、座卓、古びた行灯。そして壁には掛け軸。墨痕鮮やかに「博麗神社」の文字。
博麗神社。
その名前に、かすかな既視感があった。おぼろげな記憶の中で、確かにどこかで聞いたことがある。ネットで見たことがある名前。確か、同人ゲームの――
「東方……?」
呟いた瞬間、断片的な記憶が蘇る。
大学時代、友人が勧めてきた弾幕シューティングゲーム。「東方Project」というタイトル。幻想郷という異世界。妖怪や妖精が跋扈する世界。そして、その世界の管理者的存在である巫女。
博麗霊夢。
赤白の巫女装束に、黒髪、紫の瞳。楽園の素敵な巫女。幻想郷の異変解決者。
「まさか……まさかな……」
否定したかった。だが、状況証拠があまりにも揃いすぎている。
俺は立ち上がり、震える足で部屋の隅にあった古びた鏡の前へと向かった。鏡面は曇っていて、像がはっきりしない。だが、それでも映る姿は十分に認識できた。
黒髪。肩まで伸びた、艶やかな黒髪。頭には赤いリボン。紫の、大きな瞳。整った顔立ち。少女の顔。
そして間違いなく、記憶の中にある博麗霊夢の容貌。
「……な、なんだとぉ?」
呪詛が口を突いて出た。鏡の中の少女が、俺と同じように顔を歪める。
現実だ。これは夢じゃない。
俺は死んだ。そして、なぜか東方Projectの世界の、博麗霊夢という少女に転生した。
性別まで変わって。
「んなことあるかよ……」
膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。畳の冷たさが太腿に伝わる。その感触すら、記憶の中の自分とは違う。皮膚が薄い。柔らかい。女性の身体だ。
前世の記憶は朧げだった。自分が誰だったのか、名前すら思い出せない。どんな仕事をしていたのか、家族はいたのか、友人は。すべてが霧の中だ。
だが、自分が男だったことだけは確信を持って言える。二十代か、そのあたりの成人男性だった。そして、何らかの理由で――おそらく事故か病気で死んだ。
その記憶も曖昧だが、確かに死の瞬間があった気がする。暗闇。冷たさ。そして、意識の途絶。
それから目を覚ましたら、ここだ。
「転生……TSF……異世界転生に性転換のおまけつきかよ……」
自嘲的に笑いかけて、俺はすぐに笑えなくなった。
ネット小説でよく見たパターンじゃないか。まさか自分がその主人公になるとは思わなかったが。
いや、笑ってる場合じゃない。本当に、笑ってる場合じゃない。
鏡の中の少女を、もう一度見た。
美しい顔だ。客観的に見て、整った容姿をしている。
だが、その顔を見ていると、急に胃の底が冷たくなった。
「……待てよ」
俺は呟いた。
「俺が入る前、ここには——霊夢がいたんだよな」
当たり前の話だ。この身体はもともと博麗霊夢のものだ。俺のものじゃない。
ならば、元の霊夢はどこへ行った?
死んだのか。消えたのか。それとも、どこか遠くへ追いやられたのか。
わからない。何もわからない。
ただ、確かなのは——俺がここにいる今、この身体の元の持ち主はいない、ということだ。
「俺は……人の人生を、奪ったのか?」
声に出してみると、ぞっとした。
転生。異世界転生。ネット小説では当たり前のように描かれる展開だ。主人公が死んで、別の世界に生まれ変わる。読んでいる分には何とも思わなかった。
だが、現実にそれが起きたとして。
俺が転生した先に、すでに誰かがいたとして。
その誰かはどうなった?
「霊夢は……どこに行ったんだ」
返事はなかった。当然だ。
試しに頬を抓ってみる。痛い。確かに痛い。鏡の中の霊夢も同じように頬を抓っている。
この痛みを、元の霊夢は感じているのだろうか。
それとも、もう何も感じていないのだろうか。
「……」
俺は返答の出ない問いの前で、ただ黙っていた。
現実を受け入れろと自分に言い聞かせようとした。どれだけ悩んでも、状況は変わらないと。
でも、そう簡単には割り切れなかった。
俺が死んで、俺の代わりに誰かが俺の身体に宿ったとしたら。俺の人生を、俺の記憶を、俺の顔を、勝手に使い始めたとしたら。
それは、嫌だ。
絶対に嫌だ。
ならば、霊夢だって——
「……すまない」
誰に言うでもなく、俺は呟いた。
鏡の中の霊夢に向かって。この身体のどこかにまだいるかもしれない、元の持ち主に向かって。
謝ったところで何も変わらないことはわかっている。霊夢が戻ってくるわけでも、俺が元の身体に戻れるわけでもない。
それでも、言わずにはいられなかった。
部屋を出て、俺は縁側へと向かった。
廊下に出る。古びた木の床が軋む。突き当たりの障子を開けると、そこは縁側だった。
そして、その先に広がる光景に、俺は息を呑んだ。
境内だった。
朱色の鳥居。石畳の参道。賽銭箱。そして、見渡す限りの深い森。
木々は生き生きとしていて、葉は青々と茂っている。風が吹くたびに、ざわざわと葉擦れの音が響く。空気は清涼で、どこか神聖な雰囲気すら漂っている。
「博麗神社……」
呟いて、俺はゆっくりと境内を歩いた。
裸足だった。足裏に石の感触が伝わる。冷たく、固い。だが、不快ではない。
鳥居をくぐり、石段の上まで歩く。そこから見下ろす景色は、圧巻だった。
森。森。森。
どこまでも続く深緑の海。その向こうに、わずかに人里らしき建物が見える。さらに遠くには、湖のような水面の輝き。そして地平線まで続く、幻想的な風景。
「幻想郷……」
実在した。本当に存在していた。
美しかった。
正直に言えば、この景色は美しかった。現代社会では決して見られない、原初の自然。人の手が入っていない、あるいは最小限にしか入っていない、純粋な自然の姿。
だが、素直に感動できなかった。
霊夢はこの景色を、毎日見ていたんだろうか。この石段に座って、この森を眺めていたんだろうか。
それが今は、俺のものになっている。
「……」
石段に腰を下ろして、俺は空を見上げた。
初夏の空は青く澄んでいて、雲がゆっくりと流れている。鳥の鳴き声が聞こえる。平和な光景だ。
この景色を、霊夢はもう見られない。
その事実が、じわじわと胸に染み込んできた。
「俺は、どうすりゃいいんだ……」
弱音が漏れた。
霊夢として生きていく、と簡単に言えない。それは霊夢の人生を俺のものとして消費することだ。霊夢が積み上げてきたものを、俺が横からかっさらうことだ。
かといって、何もしないわけにもいかない。この身体で、この世界で、俺は生きている。生きていかなければならない。
「……でも、やるしかねぇんだよな」
俺は拳を握った。細く華奢な、少女の手だ。霊夢の手だ。
選択肢はない。
元の霊夢がどこへ行ったのかも、なぜ俺がここに来たのかも、何一つわからない。謝罪も、説明も、できない。できることが何もない。
それでも——だからこそ——俺はこの身体で、ちゃんと生きなければならない気がした。
霊夢の人生を踏み台にするんじゃなく。せめて、霊夢がやるべきだったことを、霊夢の代わりにやる。
それが俺にできる、唯一の誠意かもしれない。
幸い、この身体には霊力がある。試しに意識を集中させてみると、不思議な感覚があった。身体の中を流れる、温かいエネルギー。それが指先に集まり、わずかに光を放つ。
「これが、霊力のなんやかんやか……?」
どう使うのかはわからない。だが、確かに力はある。この身体は、戦うための力を持っている。
俺はふと思った。
この力も、元は霊夢のものだ。
「……借りるぞ」
俺は静かに呟いた。
返せるものかどうかもわからない。でも、無断で奪うより、せめて借りると思っていたかった。
俺は立ち上がり、境内に戻った。
賽銭箱の前に立ち、手を合わせる。祈りの作法も、なぜか身体が覚えていた。霊夢の記憶か、それとも俺自身の記憶か。
「神様……いるのかどうかも知らないけど」
呟きながら、俺は目を閉じた。
「俺、人の身体を勝手に借りてる。それがどういうことか、わかってる。でも……できることをやります。霊夢の代わりに。霊夢が守るべきだったものを、守ります」
それが、俺の最初の祈りだった。
それから三日が過ぎた。
三日間、俺は神社に引きこもって、新しい身体に慣れることに専念した。
歩き方。走り方。物の持ち方。すべてが以前とは違う。身体のバランスが違う。重心が違う。腕の長さ、脚の長さ、すべてが変わっている。
最初は戸惑った。階段を踏み外しそうになったり、襖に頭をぶつけたり。
だが、三日もあれば何とかなるものだ。人間の適応力は侮れない。
食事は神社の蔵にあった米と、境内の畑で採れた野菜で凌いだ。どうやら霊夢は一人暮らしらしい。神社には俺以外、誰もいない。
孤独だった。
三日間、誰とも話さなかった。というより、誰も来なかった。声を発するたびに、自分じゃない声が返ってくる。鏡を見るたびに、自分じゃない顔が映る。
それが慣れてくるのが、また怖かった。
霊夢の顔に慣れる。霊夢の声に慣れる。霊夢の身体に慣れる。
慣れるたびに、本来ここにいるべき霊夢の存在が、遠くなっていく気がした。
夜、一人で布団に入ると、不安が押し寄せてきた。
俺は本当にここで生きていけるのか。異変を解決できるのか。妖怪と戦えるのか。
そして——元の霊夢のことを、俺はずっと気にし続けなければならないのか。
答えは出なかった。
気にし続けるべきだ、とは思う。忘れてしまったら、それこそ本当に奪ったことになる。
でも、気にし続けるだけでは何もできない。
ただ、毎朝目を覚ますたびに、俺はまだ生きていた。それだけが確かなことだった。
そして四日目の朝。
異変は、突然起こった。
目を覚ますと、世界が変わっていた。
部屋が暗い。いつもなら朝日が障子から差し込んでくるのに、今日はまるで夕暮れのような薄暗さだ。
「……何だ?」
嫌な予感がした。
急いで外に出る。縁側から境内を見て、俺は息を呑んだ。
空が、紅い。
深紅の霧が、幻想郷全体を覆い尽くしていた。
空は血のような赤に染まり、太陽はその霧に遮られて、わずかな光しか地上に届いていない。朝のはずなのに、まるで黄昏時のような薄暗さだ。いや、黄昏よりも不吉な色だ。
「これは……」
境内に出て、俺は呆然と空を見上げた。
紅い霧が渦を巻いている。風に流されることなく、まるで意思を持っているかのように、空全体を覆っている。
異様な光景だった。現実感がない。まるで悪夢の中にいるようだ。
だが、これは現実だ。
「紅霧異変……だったっけ」
おぼろげな記憶の中で、その名前が蘇る。
東方Projectの最初の作品――確か「紅魔郷」だったか――の異変。吸血鬼が起こした、太陽を遮るための霧。
犯人は紅魔館の主。名前は……思い出せない。だが、吸血鬼であることは確かだ。
太陽が苦手な吸血鬼が、昼間も活動できるように霧を発生させた。そんな身勝手な理由で、幻想郷全体を巻き込む異変を起こした。
「ふざけやがって……」
呟いて、俺は拳を握った。
怒りがあった。純粋な怒りが。
この霧のせいで、人里の人間たちはどうなる。作物は育たない。気温は下がる。日照不足で、生活に支障が出る。
妖怪ならまだしも、人間にとっては死活問題だ。
そして――
そこで俺は、ふと気づいた。
俺は今、人里の人間を心配している。
だが、俺は三日前まで、霊夢の存在を心配しなかったか?
霊夢の人生を奪っておいて、見ず知らずの人間を守るために動こうとしている。
その矛盾が、頭に引っかかった。
「……どの面下げて、正義面してんだ、俺は」
自嘲が漏れた。
でも、だからといって動かないのは違う。霊夢に申し訳が立たないのと同じくらい、目の前の被害を見捨てることも、俺には耐えられない。
全部きれいに解決できる答えなんて、ない。
あるのは、できることをやるという、それだけだ。
「やってやる……」
境内を歩き、賽銭箱の前に立つ。
手を合わせる。そして、小さく呟いた。
「神様。また来た。さっきの続きで――霊夢の代わりに、ちゃんとやります。だから、力を貸してくれぇ~」
祈りを終えると、俺は神社の社務所に戻った。
霊力の扱い方は、まだよくわからない。弾幕の撃ち方も、飛び方も知らない。
だが、やるしかない。
俺は棚から御札を取り出した。神社にあった、赤白い紙の札。呪文のようなものが書かれている。
「これを使えば、何とかなる……のか?」
わからない。だが、武器がなければ話にならない。
それから、俺は巫女装束を整えた。袖を直し、襷を結ぶ。髪を結い直し、リボンを締める。
鏡の中の霊夢を見た。
少女の姿。巫女の姿。
俺の姿じゃない。でも、俺が動かしている姿だ。
「行くぞ。……行ってきます、霊夢」
誰に言うでもなく、誰かに言うために、俺は呟いた。
境内を抜け、石段を下る。
紅い霧の向こう側。その奥にある紅魔館。
異変の元凶がいる場所へ。
恐怖はあった。不安もあった。できることなら、行きたくなかった。
それでも――
―借りた人生で、できることをやる―
それが、俺の決意だった。
霊夢の人生を踏み台にしない。霊夢がいたこの場所を、ちゃんと守る。
たとえそれがどれほど困難な道であろうとも。
たとえ俺が元は戦いとは無縁の男であろうとも。
今は博麗霊夢だ。幻想郷の巫女だ。
そして、それは霊夢から借りているものだ。
「紅魔館……どこにあるんだ??」
方角もわからないまま、俺は紅い霧の中を歩き始めた。
霊夢の身体を借りて。
霊夢の役割を引き受けて。
初めての、異変解決へ。