俺は、目を覚ました。
いや、目を覚ましたというより、意識が戻ったという方が正しいかもしれない。感覚が曖昧だった。
「……ここは」
真っ黒な空間だった。
何もない。本当に、何もない。壁も、床も、天井も、何もかもが。
上も下もない。前も後ろもない。方向という概念すら、曖昧だった。
ただ、黒い。無限に広がる、黒い空間。深淵のような、終わりのない闇。
俺は、立っていた。
いや、立っているという感覚も曖昧だった。足元に地面があるのか、ないのか、わからない。
だが、確かに立っている。存在している。自分がここにいることだけは、確かだった。
「……レミリアに、やられた」
記憶が、蘇ってくる。断片的に、だが確実に。
レミリアとの戦い。圧倒的な力の差。
運命を操る能力。未来を見る能力。どんな攻撃も、すべて見透かされていた。
そして――
胸を貫かれた。心臓の近くを。深く、容赦なく。
あれで、死んだはずだ。確実に、死んだはずだ。
「なら、ここは……死後の世界か?……くそっ。」
俺は呟いた。声が、虚空に吸い込まれていく。
俺は歩き始めた。
どこに向かっているのか、わからない。だが、立ち止まっているよりは、マシだと思った。
足音が、しない。
呼吸音も、しない。
完全な静寂。
どれくらい歩いただろうか。
時間の感覚も、ない。
その時、声が、聞こえた。
少女の声が。
「ようやく、来たのね」
その声に、俺は立ち止まった。全身が、硬直した。
「誰だ?」
俺は訊いた。
返事は、なかった。
何かが、目の前を通り過ぎた。
小さな、蝶が。手のひらに乗るほどの、小さな蝶が。
虹色に輝く、美しい蝶が。
この真っ黒な空間で、唯一の色を持つ存在。
その蝶は、ゆっくりと飛んでいた。まるで、俺を導くかのように。
俺は、その蝶を目で追った。
蝶は、俺の横を通り過ぎ、後ろへと飛んでいく。
俺は、振り向いた。
絶句した。
そこには、一人の少女が立っていた。
赤と白の、巫女装束。
黒髪を、長く伸ばした少女。
そして、その顔は、俺が鏡で見る顔と、似ていた。
よく見ると、違う。双子のように似ているが、別人だった。
表情が、違う。雰囲気が、違う。
この少女は、俺よりも穏やかな顔をしていた。
俺が持っていない、何かを持っていた。
「……博麗霊夢」
俺は呟いた。確信を持って。
この身体の、本当の持ち主。
本物の、博麗霊夢。
少女は、微笑んだ。
「……こんにちは。」
*****
その頃。紅魔館跡。
美鈴は、走り続けていた。
濃密な霧の中を。視界が真っ赤に染まり、数メートル先すら霞んでいる。呼吸するたびに喉が焼けるように痛く、目に霧が染みて涙が止まらなかった。それでも、気でバリアを全身に張りながら前へ進み続けた。
「お嬢様!!!」
叫んだ。声が霧に吸い込まれていく。返事はない。
館が、見えてきた。いや、館の残骸が。もう、館の形をしていなかった。すべてが崩れ、瓦礫の山になっていた。何百年も幻想郷に立ち続けた紅魔館が、今はただの瓦礫だった。
「………いた……!!」
空中に、レミリアがいた。
暴れてはいなかった。叫んでもいなかった。ただ、うずくまるように両腕で自分を抱きしめながら、空中に浮いていた。その身体から、霧が音もなく溢れ続けていた。止まることなく、際限なく。まるで、泣いているかのように。
「お嬢様……」
美鈴は、立ち止まった。この光景に、言葉を失った。
叫んでいない。暴れていない。ただ、静かに霧が出続けている。その静けさが、かえって恐ろしかった。感情が爆発するより、この静けさの方が、ずっと。
霧が、どんどん濃くなっていく。空気が重くなり、呼吸がさらに苦しくなる。このままでは幻想郷全体が霧に飲み込まれる。この濃度では、妖怪でも影響が出始める。人間ならなおさらだ。美鈴は気でバリアを強めながら、慎重に前へ進んだ。
「お嬢様!」
再び叫んだ。だが、レミリアは反応しない。聞こえていないのか、それとも聞こえていても、もう何も届かないのか。
一歩、また一歩。
レミリアの周囲の霧を気で払いながら近づいていった時、瓦礫の中に倒れている人影が目に入った。白いメイド服を着た人影が。血に染まった、白いメイド服を着た人影が。
「咲夜さん!」
美鈴は駆け寄った。瓦礫を飛び越え、石を避け、一直線に。
「咲夜さん、大丈夫ですか!」
近づいた瞬間、美鈴は咲夜の気を感じようとした。
だが――
「……そんな……」
咲夜の気が、ない。完全に、ない。生命の気配が、消えている。
「咲夜さん……」
膝が、折れた。その場に膝をついて、全身が震えた。
視線を上げると、レミリアが見えた。霧の中に浮かんでいる。うずくまったまま、動かない。その足元に、咲夜の死体がある。
理解した。お嬢様が崩れている理由を。咲夜さんが死んだから。叫びもせず、暴れもせず、ただ霧を出し続けながら、内側から静かに崩れている。
美鈴は、しばらく動けなかった。涙が溢れてきた。
咲夜さんが、死んだ。お嬢様が、崩れている。幻想郷が、霧に飲み込まれていく。
何が起こったのか、まだわからない。だが、今それを考えている場合じゃない。
「……止めなければ」
涙を拭いて、前を向いた。
「お嬢様を、止めなければ」
*****
「……俺は、お前に会うのは初めてだ」
俺は言った。声が、少し震えていた。
「そうね」
霊夢は頷いた。
「あなたは、初めてね。でも、私はずっと見ていたから」
「……見ていた?」
俺は聞き返した。
「ええ」
霊夢は答えた。
「あなたが、私の身体を使って生きているのを。この四日間、ずっと」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
「……じゃあ」
俺は訊いた。恐る恐る。
「お前は、ずっと意識があったのか?この身体の中に?」
「えぇ。」
霊夢は答えた。
「ずっと、いたわ。あなたの中に。あなたが見ているものを、見ていた。あなたが聞いているものを、聞いていた」
霊夢は続けた。
「あなたが怖がっている時も、見ていた。ルーミアに襲われて、パニックになっていた時も。美鈴との戦いで、死にかけていた時も。あなたが必死に、力を掴もうとしていた時も」
そして、霊夢は少し俯いた。
「でも、あなたには届かなかった。私がどれだけ声をかけても」
「……」
俺は、何も言えなかった。
そうだったのか。
ずっと、霊夢はいたのか。
俺が戦っている時も、苦しんでいる時も、ずっと。
見えていたのに、聞こえていたのに、俺には届かなかった。
「ごめん」
俺は言った。
「お前の身体を勝手に使って。お前の人生を…」
「あなたのせいじゃないわ」
霊夢は言った。
穏やかに。だが、慰めるような口調ではなかった。ただ、事実として言っているような声だった。
「あなたも、望んでここに来たわけじゃない」
そして、霊夢は少し間を置いた。
「……一つだけ、訊いていいか」
俺は言った。
ずっと、聞けずにいたことを。
「なぜ、引きこもっていたんだ。魔理沙から聞いた。四年間、誰とも会わなかったって」
霊夢の表情が、わずかに変わった。
目が、伏せられた。
「……力が、怖かった」
霊夢は言った。小さな声で。
「私の霊力は、気づいたら制御できなくなっていた。感情が少し揺れるだけで、周りのものが壊れていく。眠っている間にも、勝手に溢れ出す」
霊夢は、自分の手を見た。
「誰かに相談した。でも、誰も解決できなかった。だから、誰も傷つけないように、引きこもった」
それだけだった。
長く語らなかった。
だが、その短さが、四年間の重さをそのまま伝えていた。
「……そうか」
俺は呟いた。
霊夢が怖かったのは、力ではなく、自分自身だったのか。
「あなたには、選択肢があるの」
霊夢は顔を上げた。声が、少し変わった。
「二つの、道が」
「……選択肢?」
「ええ」
霊夢は頷いた。
「一つは、このまま死ぬこと。あなたはレミリアに胸を貫かれた。心臓は外れているけど、このままでは死ぬ。冥界に留まることもできる」
霊夢は続けた。
「もう一つは、生き返ること。私の霊力を、あなたに渡す。そうすれば、傷が塞がる。戻れる」
「……お前は、どうなる」
俺は訊いた。すぐに。
霊夢は、少し黙った。
「消える」
静かに言った。
「私の霊力を渡せば、私はここにも居られなくなる」
「……それで、お前はいいのか」
俺は言った。
霊夢はすぐには答えなかった。
「……正直に言うと」
霊夢は言った。
「怖い。消えることが、怖くないわけじゃない」
その言葉が、俺には重かった。
全肯定されるより、ずっと重かった。
「でも」
霊夢は続けた。
「私の力は、私には使えなかった。四年間、誰も傷つけないことだけを考えて、何もしなかった。あなたは、その力を使って戦った。人を守ろうとした」
霊夢は、俺を見た。
「あなたなら、使える。私には使えなかったこの力を」
「……」
俺は、黙っていた。
受け取れない気がした。
霊夢に消えてもらって、俺が生き返る。
それは、俺が霊夢から奪い続けることの、最後の一つだ。
命まで、奪うのか。
「お前に消えてもらう必要はない」
俺は言った。
「俺が死んで、お前が戻ればいい。お前の身体なんだから」
霊夢は、首を横に振った。
「それはできない」
きっぱりと。
「私が戻っても、力は制御できないまま。また暴走する。また、誰かを傷つける。また、引きこもるだけ。それなら――」
霊夢の声が、わずかに震えた。
「あなたが、使った方がいい」
「……お前の人生を、また俺が使うことになる。」
俺は言った。
「一度奪っておいて、また奪うことに。」
霊夢は、俺を見た。
黙って、しばらく。
「奪うとは、思っていない」
霊夢は言った。
「あなたが私の力を使って、人を救うなら。それは私の力が、ちゃんと使われたということだから」
その言葉は、慰めではなかった。
諦めでもなかった。
霊夢が、本当にそう思っているということが、声から伝わってきた。
「……わかった」
俺は言った。
納得したわけじゃない。
これで罪悪感が消えたわけでもない。
霊夢に消えてもらうことへの重さは、消えない。
「でも、一つだけ約束する」
俺は言った。
「お前の名前を、ちゃんと使う。お前の力を、ちゃんと使う。お前が守りたかったものを、俺が守る」
霊夢は、微笑んだ。
さっきより、少しだけ自然な笑みで。
「それで、十分よ」
霊夢の身体が、光り始めた。
眩く。金色に。
「さようなら」
霊夢は言った。
「頑張って」
それだけだった。
長い言葉はなかった。
光が、俺を包んだ。
霊夢の姿が、消えていく。
ゆっくりと。穏やかに。
「……ああ」
俺は言った。
「行ってくる」
光が、さらに強くなった。
すべてが、真っ白になった。