空は、晴れていた。
霧が完全に消えた幻想郷の空は、青く澄んでいた。太陽が輝き、木々が本来の緑を取り戻していた。異変が終わった世界は、何事もなかったかのように穏やかだった。
だが、紅魔館の方角だけは違った。
飛びながら、俺はその気配を全身で感じていた。重苦しい、暴力的な何かが、館の周囲に満ちていた。距離が縮まるにつれて、霊力が自然と身を竦める。これまで感じてきたどの妖怪の気配とも違う。美鈴の鍛え抜かれた気も、咲夜の冷えた殺気も、レミリアの格のある圧も、そのどれとも異なる種類の何かだった。
もっと、根源的な何かだ。
「……ボロボロだな」
魔理沙が呟いた。声に、普段の軽さがなかった。
湖畔に姿を現した紅魔館は、変わり果てていた。かつて威容を誇っていた石壁には蜘蛛の巣のような亀裂が走り、窓はいくつも割れていた。屋根の一部が崩れ、尖塔の先端が欠けていた。それでも完全には崩れていない。五百年の歴史が、辛うじて館の形を保たせていた。
「立ってる」
「ああ」
魔理沙は少し間を置いてから、言った。
「なあ、霊夢。フランドールって、どんなやつだ」
「四百九十五年間、地下に閉じ込められていた」
「……それだけか。」
「それだけだ。それ以上は、会ってみなくちゃわからない。」
魔理沙は黙った。四百九十五年、という数字を頭の中で転がしているようだった。
俺も、飛びながら考えていた。
四百九十五年。人間が何世代も重なる時間だ。幻想郷が生まれる前から、その少女は地下にいたことになる。外の世界がどう変わっても、幻想郷がどう動いても、その少女には届かなかった。届いたのは本だけだ。人との関わりのない、本だけの知識だけが。
その少女を、傷つけずに止める。
どうやって。
門の前に降り立った時、咲夜がそこにいた。
音もなく、気配もなく。いつの間にか、門の前に立っていた。白いメイド服は皺一つない。完璧な佇まいだった。だが目の下に隈がある。隠そうとしているが、隠しきれていない。
「お待ちしておりました」
咲夜は深く頭を下げた。
「美鈴は」
俺は真っ先に聞いた。
咲夜の表情が、一瞬だけ崩れた。メイドとしての仮面に、ひびが入った。
「パチュリー様が、今も治療を続けています。命に別状はありませんが、意識が戻っていません」
声が、わずかに震えた。
「妹様の力は、触れたものの存在を直接破壊します。気の防御も、霊力の壁も、物理的な頑丈さも関係ない。美鈴の内側が、直接壊されました」
「内側が、直接」
俺は繰り返した。
触れたものを壊す力。それが、フランドール・スカーレットという存在だ。レミリアが四百九十五年間閉じ込め続けた理由が、その一言に凝縮されていた。
「急ぎましょう。お嬢様が、今も妹様と対峙しています。一刻の猶予もありません」
館の内部は、外観より酷かった。
エントランスホールに足を踏み入れた瞬間、俺は立ち止まった。
壊れ方が、おかしかった。
壁に穴が開いている。だが、その穴の縁が焦げていない。爆発で吹き飛んだのではない。まるで、壁を構成していた何かが突然なくなったような、消えたような穴だった。床の亀裂も同じだ。割れているのではなく、床材の一部が存在しなくなっているような裂け目だった。シャンデリアは落ちて砕けているが、砕け方が普通ではない。落下の衝撃で砕けたのではなく、既に砕けた状態で落ちてきたような砕け方だった。
触れたものを、存在ごと壊す。
その力が通った跡が、こういう破壊を生む。
「……」
魔理沙も、黙って周囲を見ていた。普段の軽口が、出なかった。
「妹様が暴れた跡です」
咲夜が言った。走りながら。
廊下を進むにつれて、破壊の跡が濃くなっていった。壁の消失が増える。床の欠損が増える。天井の一部が丸ごとなくなっている箇所もあった。そこだけ空が見えていた。
ドガン、という音が館全体を揺らした。
「あちらです」
広間の入り口で、咲夜が立ち止まった。
扉は吹き飛んでいた。正確には、扉があった場所の壁ごと、一部が消えていた。その向こうから、七色の光が漏れていた。
俺は中を見た。
最初に理解したのは、静けさだった。
爆発音がした直後だったはずなのに、広間の中は静かだった。炎も、煙も、爆風もない。ただ、無数の光の球が空間を満たしていた。それが壁に触れるたびに、音もなく、壁の一部が消えた。触れて、消える。それだけだった。
その中心に、少女が浮いていた。
小さかった。華奢な、小柄な少女だった。金色の短い髪が、光の中で輝いていた。深紅の瞳は、どこか遠くを見ているような目だった。赤いドレスは所々破れ、裾が焼け焦げていた。背中に、結晶のような翼があった。七色に光を散らす翼が、静かに揺れていた。
見た目は幼い。だが、その存在が持つ密度が違った。
この少女の周囲だけ、世界の文法が変わっているような感覚があった。重力の向きが、時間の流れ方が、存在することの意味が、少女を中心に少しだけずれている。そういう感覚だった。
少女の眼下に、レミリアが倒れていた。
傷だらけだった。全身に傷があり、血が床を濡らしていた。だが意識はあった。倒れたまま、フランドールを見上げていた。その目に、絶望はなかった。後悔と、何か別のものが混じっていた。
「お姉様の言葉は、理解できるわ」
フランドールが言った。
声は子供のものだった。だが、その声に宿っている何かは、子供のものではなかった。四百九十五年という時間が、この少女の言葉の重さを変えていた。
「謝りたいっていうことも、間違いだったっていうことも、全部理解できる。四百九十五年間、考え続けたから。なぜ閉じ込められているんだろう。なぜお姉様は会いに来てくれないんだろうって。本を読んで、考えて、自分なりの答えを見つけた」
フランドールは続けた。声の奥に、何かが揺れていた。
「そして気づいたの。お姉様は、私が怖かったのね。この力が。私という存在が。だから、閉じ込めることで解決しようとした。四百九十五年間、ずっと」
「フラン」
レミリアが声を絞り出した。
「私は――」
「わかってる」
フランドールは遮った。
「お姉様が間違いだったって言いたいんでしょう。謝りたいんでしょう。私を大切に思っていたって言いたいんでしょう。全部、わかってるわ。頭では。」
小さな手が、わずかに握られた。
「でも、頭でわかることと、胸で納得することは違うの。それは、本で学んだわ。感情というものは、論理で制御できない。私は今、怒っているの。四百九十五年分、怒っている。それは、お姉様の謝罪で消えるものじゃない。」
レミリアは、黙った。反論できなかった。
「だから」
レミリアが口を開いた。声が、震えていた。
「私を殺せ。お前の怒りが、それで収まるなら。私を殺して、終わりにしてくれ。咲夜も、パチュリーも、美鈴も、何も悪くない。だから、私を――」
「また」
フランドールが、静かに言った。
その一言が、部屋の空気を変えた。
「また、逃げてる」
フランドールの声に、初めて疲れが滲んだ。怒りではなく、深い疲れが。
「四百九十五年間、お姉様は私から逃げ続けた。会いに来なかった。向き合わなかった。死ねばいいと差し出せば、それで済むと思ってる。逃げる方法が変わっただけで、本質は同じよ」
レミリアは、何も言えなかった。
口を開きかけて、閉じた。フランドールの言葉が正確だったから、反論できなかった。
俺は、その場面を見ていた。
姉が死を差し出している。妹がそれを「逃げ」と看破している。五百年生きた吸血鬼が、十歳に見える少女に言葉で追い詰められている。
人間でも、妖怪でも、吸血鬼でも、気づいただけで全部が変わるわけじゃない。レミリアは咲夜への想いに気づいた。だが、変われていない部分がある。それが今、フランドールの言葉で露わになっていた。
俺は一歩、前に出た。
レミリアとフランドールの間に立った。
「誰」
フランドールが俺を見た。警戒と、純粋な好奇心が混じっていた。人を見る目ではなく、知らない生き物を見る目だった。四百九十五年間、人との関わりがなかった者の目だった。
「博麗霊夢だ」
俺は答えた。
「お前を止めに来た」
「止める。部外者が?」
「あぁ。何か問題でもあるか?」
「問題でも…ね。ふふ。」
フランドールは繰り返した。その言葉を、吟味するように。
「いいえ。私、悪いことをしているもの」
問いかけではなかった。本当に確認していた。
「館を壊した。美鈴を傷つけた。お姉さまを、レミリアを傷つけた……それは、良くないことね。本で読んだ。他者の財産を壊すことも、他者を傷つけることも、倫理的に問題がある。」
フランドールは認めた。素直に。だが、その言葉は知識の引用だった。実感が、伴っていなかった。
「でも、実感がないの。四百九十五年間、誰とも関わってこなかったから。誰かを傷つけて、その人が悲しむ顔を見て、初めて理解する。私には、それがなかった」
声が、揺れた。
「善悪って、他者との関係の中で学ぶものでしょう。私には、それがなかった。ずっと、一人だったから」
最後の言葉だけが、他と違った。論理的な分析ではなく、ただの事実だった。この少女にとっての、動かしようのない事実だった。
俺は、その言葉を聞いていた。
一人だった。
その言葉が、どこかに引っかかった。
霊夢も、四年間引きこもっていた。誰にも会わずに、この神社にいた。魔理沙が訪ねても、会わなかった。何があったのかは、俺にはわからない。でも、霊夢も一人だった時間がある。
そして俺も、転生してからの四日間、誰とも話せなかった。自分が何者なのかを言えないまま、霊夢の名前を借りて、霊夢の力を借りて、ここまで来た。
フランドールの孤独の深さと、俺の孤独は比べ物にならない。四百九十五年と四日では、話にならない。
だが、わかる部分が、ある。
「なら」
俺は言った。
「これから、学べばいいだろ。」
フランドールの目が、変わった。わずかにだが、確かに変わった。
「……へぇ」
何かが、その顔に浮かんだ。笑みでも驚きでもない。もっと幼い、何かだった。この少女が四百九十五年間、ついに持てなかった何かに、初めて触れたような顔だった。
「面白いこと言うわね」
だが、すぐに光弾が増えた。空間が、光で埋まっていく。
「でも、私、まだ怒ってるの。頭では理解できる。心は、まだ追いついてない。四百九十五年分の怒りは、言葉一つで消えない………」
フランドールは俺を見た。
「あなたが相手してくれるなら、もう少し暴れてもいいわよ?」
俺は構えた。霊力を全身に巡らせながら、この少女をどう受け止めるか考えた。
傷つけずに止める。
だが、どうやって。この少女の力は、触れるものを存在ごと壊す。霊力の壁も、御札も、それで意味をなすのか。
答えは、まだなかった。
「魔理沙」
「わかってる」
魔理沙が箒を構えた。その顔に、普段の軽さはなかった。真剣だった。
「行くぞ。」
「解決策は?」
「戦う中で考える!!」
「……了解。」