光が、消えた。
真っ白だった世界が、色を取り戻した。音が戻り、感覚が戻り、すべてが戻ってきた。
俺は、目を開けた。
力が、満ちていた。
圧倒的な力が、身体の奥底から湧き上がってくる。霊力が全身を駆け巡る。血管を通り、筋肉を通り、骨を通り、細胞の一つ一つに浸透していく。
だが、暴走しない。制御できる。完璧に、制御できる。まるで呼吸するかのように自然に。
これが、霊夢の力だ。俺の中に溶け込んだ、霊夢の霊力だ。
胸の傷が、塞がっていく。
レミリアに貫かれた傷が、霊力で修復されていく。肉が再生し、血管が繋がり、神経が修復される。痛みが、嘘のように消えていく。
「……ありがとう、霊夢」
俺は呟いた。
返事は、来ない。もう、来ない。
だが、この力が答えだった。
俺は立ち上がった。
瓦礫の中から。周囲を見渡す。館は崩壊している。霧が濃い。視界が真っ赤だ。
そして――
魔理沙が、倒れていた。少し離れた場所に。動いていない。
「魔理沙!」
駆け寄る。手を当てて、脈を確かめる。
呼吸が、ある。弱いが、ある。
「よかった……」
俺は手を翳した。霊力を集中させ、魔理沙を光の結界で包む。霧からも、攻撃からも、守られる。
「待ってろ、魔理沙。すぐに終わらせる」
視線を上げた。
空中に、レミリアがいた。うずくまるように両腕で自分を抱きしめながら浮いている。その身体から霧が音もなく溢れ続けていた。止まることなく、際限なく。静かに。泣くように。
そして、瓦礫の中に白いメイド服が見えた。血に染まった、白いメイド服が。
「……咲夜」
近づいた。気を感じようとした。
だが、ない。完全に、ない。生命の気配が、消えている。
「……」
俺は、しばらくそこに立っていた。
咲夜は、穏やかな顔をしていた。苦しんでいない顔だった。
それから、レミリアを見た。
うずくまったまま、動かない。霧を出し続けている。静かに。
お前が、やったのか。
それとも、別の何かがあったのか。
今の俺には、わからない。
わからないが――
「お前のせいで、人里の人間が苦しんだ」
俺は呟いた。誰に言うでもなく。
「お前のせいで、咲夜が死んだ」
それが本当にレミリアのせいなのかどうか、俺はまだ知らない。だが、この異変がレミリアから始まったことは確かだ。
そして今、レミリアは咲夜を失って崩れている。
止めなければ、霧は出続ける。幻想郷が飲み込まれる。
「行くぞ」
俺は空へ跳んだ。地面を蹴り、一気に加速する。
霊力が、自然に足に集まる。制御する必要すら感じない。身体が、勝手に動く。霊夢の身体が、この力を使うことを知っている。
レミリアの前に到達した。
「レミリア!!」
拳を振るった。霊力を込めた、全力の一撃を。
だが――
「……!」
レミリアの腕が、俺の拳を受けていた。
防いだというより、身体が勝手に動いた、そんな受け方だった。意識してやった動作ではない。本能が、命の危機に反応した。それだけだった。
衝撃が走る。俺もレミリアも、同時に後ろに弾かれた。
「……」
レミリアが、俺を見た。
焦点が、定まっていない。俺を見ているのか、見ていないのか、わからない。
その顔は、戦う顔ではなかった。敵意も、殺意も、そこにはなかった。
ただ、痛みがあった。
言葉にならない痛みが、その顔に滲んでいた。
「レミリア。聞こえるか」
俺は言った。
返事は、なかった。
レミリアの口が、わずかに動いた。言葉にならない、何かが。
咲夜の名前だったかもしれない。
「……」
俺は、その顔を見ていた。
これが、異変の元凶か。
幻想郷全体に霧を放ち、人間を苦しめ、咲夜を失って崩れている。
戦うべき相手だ。止めなければならない相手だ。
だが、目の前にいるのは、誰かを失って壊れかけている存在だった。
それに対して怒りを向けることが、俺にはできなかった。
できなかったが、だからといって止めないわけにはいかない。
それが、博麗の巫女の仕事だから。
「……行くぞ」
俺はもう一度、踏み込んだ。
その瞬間、レミリアから弾幕が出現した。
意図してやったわけではなさそうだった。俺が動いた気配を感じて、本能が反応した、そんな出方だった。無数の紅い弾丸が、俺の周囲を埋め尽くす。
「くっ!」
避ける。身体を捻り、霊力を足に集中させ、隙間を縫うように動く。
弾幕が頬を掠める。肩を掠める。だが、当たらない。
この力なら、避けられる。
ルーミアの暗闇の中で、何も見えないまま戦った。
チルノの氷の嵐の中で、凍えながら逃げ回った。
美鈴の拳に骨を砕かれながら、それでも立った。
咲夜の時間停止の中で、死にかけながら動いた。
あの時の俺には、できなかったことが、今はできる。
霊夢の力を借りているからだけじゃない。あの戦いがなければ、今の俺はここにいない。
御札を投げた。霊力を込めて、複数枚を同時に。
レミリアに向かって飛んでいく金色の軌跡が、空に線を描く。
レミリアの身体が本能的に動いた。腕を払い、弾く。
だが、全部は防げなかった。一枚が、肩に当たる。
レミリアの身体が、わずかによろめいた。
それでも、目は焦点を結ばない。
俺を見ているようで、どこも見ていない。
「レミリア!!」
俺は叫んだ。届くかどうかわからなくても。
「咲夜は、自分の意志で戦った。お前のために、じゃなかった。自分のために!それを、わかってるか!!」
返事はなかった。
ただ、霧が溢れ続けていた。静かに。止まることなく。
届いていない。まだ、届いていない。
俺は攻撃を続けた。
御札を投げ、霊力を放ち、詰めて拳を振るう。
一撃一撃が重い。だが、レミリアは倒れない。本能で受け、本能で反撃し、よろめきながらも立ち続ける。
五百年生きた吸血鬼の身体は、意識を失っていても戦い続ける。
だが、俺も傷を負い始めていた。弾幕を完全には避けられない。腕に、脚に、掠り傷が増えていく。
それでも、止まれない。
「……なあ、レミリア」
俺は言った。攻撃しながら、それでも言った。
「咲夜は最後、お前の敵になったんだろう。俺たちを助けるために」
返事はない。
「でも、お前のことを憎んでたわけじゃないと思う。俺には、そう見える」
これは本当のことだ。
咲夜がレミリアに向けた言葉は、憎しみではなかった。失望だった。悲しみだった。
それでも戦ったのは、自分のためだった。人間として生きると決めたから。
「だから――」
俺は、霊力を両手に集め始めた。
「お前が咲夜のために壊れていくのを、見てられない。咲夜が、そんな終わりを望むと思えない」
その時、レミリアの全身から紅い光が溢れ出し始めた。
これまでとは桁違いの量が。大気が震える。地面が揺れる。
制御していない。見えていない。何をしているかも、わかっていない。
このまま放出すれば、自爆する。レミリア自身も、巻き込まれる。
「止めてやる」
俺は言った。
叫ばなかった。静かに、確かに言った。
両手に霊力を集中させた。すべてを、この一点に。圧縮し、密度を高める。限界まで。
「だああああああ!!!」
光が、放たれた。
極太の霊力の奔流が、レミリアに向かって直進する。
カッ――
レミリアの力が解放された。紅い光が爆発する。
だが、俺の光がそれを包んだ。虹色の光が紅い爆発を飲み込み、中和していく。
光が、レミリアを包んだ。
優しく、温かく。
光が、消えた。
レミリアが倒れていた。穏やかな顔で、気絶している。
霧が、薄くなり始めた。急速に、消えていく。
「……終わった」
俺は呟いた。
ゆっくりと降下した。地上に降り立つ。
美鈴が立っていた。
「……終わったんですか?」
「ああ」
俺は頷いた。身体が震えている。
「終わったよ」
美鈴は、大きく息を吐いた。肩の力が抜ける。
「お嬢様を止めてくれて……ありがとうございます」
俺は、咲夜の方を見た。
重い足取りで近づく。膝をついた。瓦礫の上に。
「……ごめん」
涙が、溢れてきた。
「守れなくて。助けられなくて。逆に、お前に守られたんだろうな……お前がいなかったら、俺と魔理沙は死んでたはずだ」
咲夜の顔は、穏やかだった。苦しんでいない顔だった。
それが、せめてもの救いだった。
「ありがとう。……安らかに」
俺は、咲夜の目を閉じさせようとした。優しく、丁寧に。
その時――
「……!?」
手が、止まった。
咲夜の気を、感じた。
消えていたはずの気が、ある。
わずかに、だが確実に。
「……え?」
咲夜の胸が、動いた。
わずかに、だが確実に。上下した。
呼吸している。
「咲夜……!?」
俺は呼びかけた。肩を揺すった。
咲夜の瞼が、ゆっくりと開いていく。
「……お………嬢……様?」
か細い声で、咲夜は呟いた。
「咲夜……!」
喜びが込み上げた。だが同時に、何かが引っかかった。
気が、消えていた。完全に、消えていた。美鈴も確認していた。生命の気配が、完全に途絶えていた。
それが、戻っている。
なぜ。
どうやって。
「……」
俺は、すぐに声を出せなかった。
咲夜は、確かに息をしている。確かに、生きている。
それは、嬉しい。間違いなく、嬉しい。
だが、ありえないことが起きている。その事実が、喜びと同時に存在していた。
「美鈴」
俺は、静かに呼んだ。
「咲夜が……息をしてる」
美鈴が振り返った。
駆け寄ってきた。咲夜の気を感じる。
美鈴の表情が、固まった。
「……本当だ」
美鈴は呟いた。喜びと、困惑が、同時に滲んでいた。
「なぜ……」
答えは、なかった。
ただ、咲夜は息をしていた。
俺は空を見上げた。
霧が、完全に晴れていた。普通の、白い月が輝いている。
「……ありがとう、霊夢」
俺は呟いた。
「異変を、終わらせた」
風が、吹いた。
優しい風が。温かい風が。
すべてが、終わった。
紅霧異変が、終わった。
だが、終わっていないことも、ある。
咲夜がなぜ生き返ったのか。
その答えは、まだ、どこにもなかった。