地面から立ち上がった。
全身が痛んだ。霊力を足に流して、無理やり膝を伸ばした。骨が軋んだが、動ける。太ももの傷が、体重を受けるたびに鈍く疼いた。それでも、今ここで座り込むわけにはいかなかった。
視界の端に、崩れかけた紅魔館の残骸が映った。もとの威容は、もうどこにもない。石壁の大部分が消え、支柱だけが辛うじて屋根を支えている。あの美しかった建物が、今はただの廃墟に近い姿を晒していた。
「魔理沙、大丈夫か」
「何とかな」
魔理沙が答えた。箒なしで空中に浮いていた。純粋な魔力だけで浮遊を保っていた。息が上がっていた。腕が、目に見えて震えている。それでも、視線だけはフランドールから逸らさなかった。
フランドールは、空中に浮いていた。破れたドレスの裾が、風もないのに揺れている。傷一つない顔で、俺たちを見下ろしていた。
「さあ、続きを」
無数の光弾が出現した。先ほどより多く、密度も高かった。空間そのものが、光の粒で埋め尽くされていくようだった。天井があるはずの空間には、既に大穴が開き、その向こうから紅い夕焼けにも似た光が差し込んでいた。時刻はまだ昼過ぎのはずだったが、ここだけ別の時間が流れているような錯覚があった。
俺は動いた。横に跳んだ。光弾が地面を抉った。石畳が砕け、破片が顔をかすめた。頬に、細い切り傷が走った感触があった。着地と同時に、また次の光弾の壁が迫ってくる。息をつく暇もなかった。
走りながら御札を投げた。魔理沙が側面から弾幕を放った。フランドールが手を握った。魔理沙の弾幕が消えた。跡形もなく。まるで最初からそこに何もなかったかのように。
「何度やっても同じよ」
フランドールが言った。退屈そうな響きすらあった。俺たちの抵抗が、この少女にとってはまだ遊びの範疇でしかないのだと、その声が物語っていた。
その時、時間が止まった。
フランドールの動きが止まった。光弾が空中で静止した。世界の輪郭が、粘性を帯びたように動きを失う。
「これ以上の危害は加えさせません」
咲夜だった。彼女の声には、これまでの平坦さとは違う、抑えきれない怒りのようなものが滲んでいた。
ナイフを何十本も、フランドールの急所に向けて投げた。時間が動いた。ナイフが迫った。銀色の切っ先が、一斉に光を弾きながら空を切り裂いた。
フランドールが手を握った。ナイフが消えた。空気を切り裂く音すら、途中で断ち切られたように静まった。
「時間停止にも、目がある」
フランドールが言った。咲夜を見ながら。興味深そうな、観察するような目だった。
「概念にも現象にも、すべてに目がある。だから、私はそれも壊せるのよ」
「……なんでもありですね」
咲夜は呟いた。声に、隠しきれない疲労が滲んでいた。それでも、諦めなかった。
ナイフを何千本も展開した。空間そのものが、銀色の切っ先で埋め尽くされていく。時間を止めながら、フランドールの周囲を完全に囲んだ。時間が動いた。ナイフが一斉に飛んだ。
フランドールが両手を握った。すべてのナイフが消えた。一瞬にして、何千本もの刃が、この世から存在ごと拭い去られた。
そしてフランドールは、咲夜を見た。
「目障り。あなたも壊すわ」
手を握った。咲夜に向かって。虚空を。
咲夜の身体が、内側から光り始めた。皮膚の下から、何かが軋むような、そういう嫌な光だった。
「咲夜!」
俺は叫んだ。喉が張り裂けそうな声だった。指先まで冷たくなるような、そんな焦りが全身を貫いた。間に合わない。その予感だけが、頭の中を占めていた。
赤い影が動いた。
レミリアだった。満身創痍のまま、一瞬で咲夜の前に出た。咲夜を抱えて、爆発の外へ出た。空間が歪んだ。爆発が、咲夜がいた場所を抉った。石畳が消し飛び、粉塵が舞い上がる。爆風が、離れた場所にいた俺の頬さえ叩いた。
「お嬢様……」
咲夜がレミリアの腕の中で呟いた。声が、微かに震えていた。
レミリアは血まみれだった。服は破れ、髪が乱れていた。それでも、咲夜を抱えたまま立っていた。膝が、僅かに震えているのが見えた。
「フランに……再生能力を破壊されてる……だが、これぐらいは、まだ動ける」
レミリアが呟いた。声は掠れていたが、そこには、まだ折れていない何かがあった。
今だ。
俺は全力で飛んだ。霊力を足に集中させ、一気に加速した。フランドールの注意がレミリアと咲夜に向いている間に、距離を詰めた。風が耳元で唸り、視界が細く絞られていくのを感じた。これまでの戦いで積み重なった疲労が、身体の随所で悲鳴を上げていた。だが、止まる理由にはならなかった。
フランドールが気づいた。目を向けた。
間に合わなかった。
拳が、フランドールの腹に入った。霊力を一点に絞った、密度の高い打撃だった。掌に、確かな手応えがあった。これまでの、払われるだけの攻撃とは違う、初めて肉体を捉えた感触。骨と肉の抵抗が、確かに掌の中に伝わってきた。
「——」
フランドールの身体がくの字に曲がった。息が止まった。
止まらなかった。霊力を右足に集め、脇腹を蹴った。フランドールが横に吹き飛んだ。空中で翼を広げて体勢を立て直した。七色の翼が、乱れた光を散らしながら羽ばたいた。
俺は追った。距離を詰めて、肘を振り下ろした。フランドールが地面に叩きつけられた。
鈍い音がした。土煙が上がった。
しばらく、動きがなかった。息を殺すような、長い沈黙だった。俺自身も、荒い呼吸を整えながら、その煙の向こうを見つめていた。もし今、この一撃で終わっていなかったら、次に何が来るのか。全身の神経が、その一点に集中していた。
煙が晴れた。
フランドールが、ゆっくりと起き上がっていた。
血が流れていた。額から、口から。赤い血が、服を汚していた。その色は、彼女が纏う赤いドレスと同じ色をしているはずなのに、まるで別のものに見えた。
「……痛い」
フランドールが呟いた。
その声は、さっきまでとまるで違った。楽しさも余裕も、何もかも抜け落ちていた。ただ、子供が痛みを覚えた時の声だった。震える、小さな声だった。
「これが、痛みなの」
自分の手を見た。血が滲んでいる手を。しばらく、それを見ていた。指先が、確かめるように、そっと動いた。
「四百九十五年間、感じたことがなかった。誰にも、触れられたことがなかったから」
その言葉で、俺の足が止まった。全身の力が、一瞬だけ抜けたような感覚があった。それまでの戦意が、急速に萎んでいくのがわかった。
四百九十五年間、誰にも触れられなかった。殴られたことも、抱きしめられたことも、手を握られたことも、何もなかった。石の壁と、本の紙以外に、何もこの少女に触れたことがなかった。差し出された食事も、扉越しに置かれるだけだったのかもしれない。声をかけられることはあっても、誰かの体温を感じることは、一度もなかったのかもしれない。
この少女が初めて感じた他者の接触が、俺の拳だった。
「……悪い」
言っていた。思わず。口をついて出た言葉だった。
フランドールが俺を見た。不思議そうに。血の滲んだ額の下で、その紅い瞳が、俺の顔をじっと見つめていた。
「なんで謝るの。戦いで傷つけたのに」
「それでも」
言葉が続かなかった。うまく説明できなかった。喉の奥に、言葉にならない何かが詰まっていた。
「お前が初めて感じた痛みが、俺の拳だったことは、すまないと思っている。もう少しましな感じ方があったはずだろ」
フランドールは、しばらく俺を見ていた。表情を読み取れない、静かな時間だった。風が、二人の間を吹き抜けていった。額から流れる血が、頬を伝って顎先から滴り落ちていく。それでも、彼女はその血を拭おうともしなかった。
館の奥、崩れかけた壁の陰から、レミリアがこちらを見ている気配があった。声はなかった。ただ、その視線だけが、痛いほどこちらに注がれているのがわかった。妹の変化を、固唾を呑んで見守っているのだろう。
「変な人間ね」
それから、笑った。
さっきまでの笑顔とは違った。無邪気でも狂気でもない、何か別のものが混じっていた。困惑と、僅かな戸惑いと、その奥にあるもっと柔らかい何かが。
「でも、もっと戦いましょう。痛みを感じながら戦うのも、悪くないかもしれない」
光弾が、再び出現し始めた。数はさっきより少なかった。密度も、僅かに緩んでいる気がした。
だが、その笑顔の中に、俺はさっきまでとは違う何かを見ていた。
四百九十五年間、誰かに触れられることがなかった少女が、初めて誰かの存在を身体で感じた。その事実が、この少女の中で何かを変えていた。
痛みを知った、ということは。
誰かがいる、ということを知った、ということだ。
俺は構え直しながら、その変化を見逃さないように、フランドールの一挙一動を見つめていた。まだ終わっていない。だが、何かが、確かに動き始めていた。
隣で、魔理沙が息を整えながら、俺の横に並んだ。何も言わなかったが、その沈黙が、今しがた目にした光景への戸惑いを物語っていた。破壊の権化のようだったこの少女が、今は血に濡れた自分の手を見つめて立ち尽くしている。その落差に、俺自身、まだうまく整理がついていなかった。